自由へ
数時間後、俺も風呂に入り一息ついたあの女とは違い俺の体は綺麗なものだったが同時にこれほどまでの恥ずかしさは今までにないものだった。
部屋に戻るといまだに薄暗い中ヨレヨレのTシャツに下着姿の女が車いすに座り調子はずれの鼻歌を歌いながら天井を見ていた、薄暗さと焦げ臭ささの残る部屋にうんざりし分厚いカーテンと窓を開ると夏が近づいているのだろう、暖かな風が頬をなでる。振り返って女を見と、薄暗さに慣れていたのだろう怪訝そうな顔でこちらを睨まれた、明るさを取り戻して女の顔がはっきりと見える、いまだに体が温まっているのか頬が桜色に染まっていた。思わず女の白く細長い足を見てしまう。
「自己紹介をしよう、まだお前の名前も聞いてなかったな。」足から目をそらしてもう動かないパソコンを見ながら女に話す。
「そういえばまだ君に名乗っていなかったね、私の名前は”伊藤綾”だ、君のサポートをするよ。どのくらい一緒にいるはわからないが・・・とにかくよろしく頼むよ」笑顔で片手を差し出す。
「”近藤祐志”だ」片手を握り返して軽く振る、華奢で暖かな指が手に伝わる。
「へぇ、まぁ。その名前でもいいけどね、信用してくれるのはまだ先な?」俺の手からするりと綺麗な手が抜けていく。
「俺のことをどう思おうがかまわない、俺は自分のやるべきことをやるだけだ。それで満足だろう?」
「やっぱり軍人だね、国民のことは放っておけない?」先ほども見せたような純粋な笑顔でこちらを見つめる。
「国に誓った身だ、俺には国民を守る義務がある」そう言うとますます近くにより笑いながら俺を見つめだす。
私にあんなに酷いことをしておいて?と言い出したが聞こえなかったことにする、不意に伊藤から控えめとは言い難い腹の虫が部屋中に鳴り響いた。そういえば俺も空腹だ、眠っている間は点滴で栄養補給していたのだろう点滴パックのつりさげられてられたスタンドが所在なさげにたたずんでいた。
「風呂の次は飯だ、何か食い物は無いのか?急いでどうにかなる問題じゃない、まずは腹を満たして休んでからでもいいだろう。」
「そうだな、そうしよう。今は英気を養うとするか」
俺はベッドから腰を上げて風呂へ向かう途中に見た冷蔵庫に向かう、何度見ても狭苦しい廊下を抜けてキッチンを見ると一度も使われていないのであろう、IH式のコンロには厚い埃が積もっていた。
嫌な予感がして恐る恐る取っ手を握り、冷蔵庫を開けてみるとエナジードリンクらしき毒々しいラベルの缶やペットボトルがぎっしりと敷き詰められており食べ物といえるものは無いようだった。冷凍庫も見てみるが、あったのはチョコレートの類でまともなものは無いようだった。
「勝手に人の家の物を漁らないでもらいたいね。」
「人のことをさんざんいじっていた奴から言われたくはないな。」
後ろを振り返ると両腕を組み、こちらを見てたのしそうに笑っていた。俺の言い返した言葉にも反応せずに戸棚を漁り始めた。しばらくすると両腕にカップ麺抱えてこちらに戻ってきた。手慣れた手つきで準備を進めていく。
「まさか俺にもこいつを食わせようとしているのか?」
「だめだったかい?いろんな味があっていいぞ?第一、私の家にはこれしかない。」
なぜか偉そうに無い胸を張ってえばりだす。まだ開いている戸棚を見るとそこにもぎっしりとカップ麺が敷き詰められていた。長い間こういったものしか食べていないのだろう、道理で体つきが細いはずだ。
「だめだ、非常時以外はしっかりとした飯を食う余裕があるもんだ。その余裕があるのにわざわざそんなもんを食う必要はない、そんなことをしても体調を崩すだけだ。自分の体調を気遣うことができるうちは そういう物を食うな。面倒臭がっているとこの先もっと面倒なことになるぞ。」
伊藤の手に握られていたカップ麺を取り上げる。ラベルを見ると『豚骨味噌醤油ラーメン塩ベース』と書かれた白い油が一面に浮いているパッケージが目に入る。名前だけでも想像がつかない上、写真を見ているだけでも胃がもたれそうになってきた・・・。
すでにお湯が入れられるように開けられたカップ麺をゴミ箱に捨てると後ろから小さな悲鳴が聞こえた。
「何てことするんだ!」ゴミ箱に近づこうとする車いすを力づくで止めてなだめてみると、涙目で腹を殴ってきた。もちろん、全く痛くは無かったが。
「分かった分かった、昼飯はラーメンにしよう。この近くにラーメン屋は無いのか?」
「・・・あるけど、私は行かない」拗ねた子供のように口を尖らせて指同士を擦っていた。
「・・・なんでだ?連れて行くぞ?」
若干面倒になりながら聞いてみるが、なかなか口を開けようとしない。佐藤の目を見たまま、辛抱強く待っていると少したってやっと口を開き始めた。
「外に来ていく服もないし・・・。大体、私は人見知りなんだ・・・。」
「お前・・・。本気で言ってるのか?」
おかしな女だとは思っていたがこれは重症だ。
「私にとっては大問題なんだ!大体今の世の中家に居ながらでも買い物はできるし、研究だってできる!こうなってしまうのも仕方ないだろう!!」
顔を真っ赤にしながら今度は両手で腹を殴ってきた、自身満々に胸を張ったり、急に萎れたりと忙しい女で軽い頭痛がしてきた。
「分かった・・・。せめて出前にしよう、カップ麺で妥協したくはないからな。お前が電話してくれ。」
「わ、私がか?!なぜ私が!君が電話すればいいだろう!!」
「俺はここの住所すら知らないし自分の携帯すら今どこにあるかもわからん。だからお前が電話してくれ。」
「電話ならそこにある!住所だって言うから!君が電話してくれ!!」
また涙目で必死に頼みこんでくる姿が可笑しく、つい虐めたくなってしまった。
「俺のサポートをするんだろう?それだったらこんな簡単なことくらいしてもらわないとな」
「うぅ・・・、言ったけどそれは違うサポートでだな・・・、このような形じゃなくて・・・。」
初対面は最悪だったが、関わってみると案外扱いやすい性格なのかもしれない。必死に弁解しようと所々言葉をつっかえながら言ってくるがその様子があまりにも可笑しく、話の途中から俺は後ろを向いてつい、笑ってしまった。
「とにかく、一度言ったんだ。頼んだぞ。」
観念したのか覚悟ができたのか、ラーメン屋のチラシと電話の子機を片手に何やらイメージトレーニングでもしているのだろうか、壁に向かってブツブツと何かつぶやいていた。
近くに寄ってみると電話の置かれていたキャビネットの引き出しには沢山の店のチラシが入っていた、気にはなっていたのだが、どうしても行くことができなかったのだろう。顔を赤くしながらまだ壁にラーメンの注文をしている伊藤を見て、つい笑ってしまった。
「なあ、俺の荷物は何もないのか?いまだに記憶が曖昧なんだ、何か思い出せるかもしれない。」
つい、気になって壁と話すのに夢中な伊藤に聞いてみる。聞いているのか聞いていないのか分からないが、指でどこかをさしだした。その先を見てみると段ボールの山の中で、一つだけ場違いなような黒いアタッシュケースが一つだけ置かれていた。
積もっている埃を払い持ち上げてみるとほとんど重さは感じられなかった。カギはかかっておらず開けてみると、中にはタバコが1カートンとオイルライター、それと革のくたびれた二つ折りの財布だけが入っていた。
財布の中身を見てみるとカードの類や免許証すらも無く、現金は1万円と小銭が少しだけ入っているだけだった。
(大したものは入っていないか・・・)
アタッシュケースを閉じようとしたときに隅っこにあるものに気が付いた。それはドッグタグだった、ただし、何も彫られていない無記名のドッグタグだった。
細いチェーンを首にかける、無意味だと思ってはいたがなぜかそうしなければいけないような気がした。ジッとそのドッグタグを見つめるが文字が浮かび上がるわけもなくただただ鈍い光を反射するだけだった。
「おい!何を注文すればいいんだ!!」
少し考え過ぎていたのだろう、悲鳴に近い声が聞こえてきた。眉を寄せ今にも泣きそうな目をしている、注文するものを考えずに電話をしてしまったのだろう自分の食べたい物も分から無いようだった。
「俺は何でもいいぞ?ただ大盛りにしてくれ。」
「な、何でもいいって言っても・・・」
受話器とチラシを交互に見ながらますます困った顔をしだす。これ以上こいつを困らせても電話口のラーメン屋が困るだけだろう、伊藤のそばにより手に持っていたチラシを取り上げてメニューを確認してみる。よほど緊張しながら電話していたのであろう、さっきまで彼女が持っていたところが汗で少し湿っていた。
「そうだな、醤油ラーメンの大盛りとチャーハンでかまわない」
「そ、そうか・・・分かった、ちゅ、注文するぞ?」
チラシを彼女に返してアタッシュケースに戻る、タバコを一つ取り出しオイルライターが付くことを確認してみる、弱々しい火だったがまだオイルは残っているようだった。キッチンまで行き恐らく初めて使うでああろう換気扇のスイッチを入れる。
ゴミ箱から溢れ出している缶を取り出して灰皿の代わりにしてタバコを吸う、久しぶりに吸うタバコに思わず眩暈がしてしまうが充足感で肺が満ちた。
「注文したぞ!」
にっこりとした顔で誇らしげにこちらに近づいてくる、大したことをしていないだろうとのど元まで出かかるが何とか飲み下した。
「ああ、ありがとうな。どのくらい時間がかかるか言っていたか?」
「え?えっと・・・、そこまで時間はかからないといってたと思うけど・・・」
「そうか、そうだな。すぐ来るだろう」
相手の話もしっかりと聞けていなかったのだろうどのくらいで来るかも耳に入ってい無いようだった。
それからはそわそわとせわしなく時計と玄関を交互に見ている伊藤を眺めていた、まるで借りてきた猫のようにあちこちを行き来している姿は見ていて飽きなかった。
しばらくして玄関の呼び鈴の音が鳴ると小さな悲鳴を上げていち早く玄関から遠ざかって行った。
「おい!出ないのか?!」
後姿に声を掛けても震えているばかりで会話することも出来なかった。しょうがない、文字道理薄い財布と重いバッテリーを片手に玄関まで歩く。
ドアを開けると岡持ちを持った好青年の少年が汗を掻きながら待っていた。
「ええと、伊藤さんの家で合ってますか?」
電話では女の声がしていたのに出てきたのは男だ、間違っているのでは?と思ってしまったのだろう口ごもりながら青年がしゃべる。
「ああ、ここで間違えていない」
「そうでしたか!お待たせしましたご注文の醤油ラーメンの大盛りとチャーハンですね~。」
首に掛けているタオルで額をせわしなく拭きながら岡持ちから食事を取り出す、だが出してきたのはその二つだけだった。
「これで全部か?」
「え?えっと・・・、注文を受けたのはこの二つで全部なんですが・・・」
少しおかしいと考えこんでしまっていただけなのだが睨まれてしまっていると思っているらしい、汗が滝のように流れ出している。
「いや、すまない。勘違いをしただけだ、代金はいくらだ?」
青年がほっとした様子で伝票を渡してくる、なけなしの金を支払い心なしか軽くなった財布と食事をキッチンまで運び込む。すると彼女が上機嫌でテーブルに着き待っていた、しかもご丁寧に割り箸まで用意されていた。
「さあ!食事にしよう!もう空腹の限界だよ!」
よほど楽しみだったのだろう、すでに割り箸を握って満面の笑みを浮かべていた。
「ああ、俺も腹が減った。が、お前何を注文した?」
彼女の前に一人分の食事を出す。目を丸くしてラーメンとチャーハンを交互に見て最後に俺の顔を下から見つめる。何度見ても数が足りない。
「あれ?私の分はどこだい?」
「お前は自分の分を忘れてたのか・・・。」
先ほどまでの笑みは完全に消え、完全にうつむいて先ほどまでの元気がなくなってしまっている。その落ち込みようが可哀そうに思えて来てしまった。
「半分に分けよう、どうせ一人じゃ多すぎるさ。」
「いいのか!ありがとう!」
先ほどまでの落ち込みようが嘘のように先ほどまでの笑顔に変わる、だんだんこの女の扱いが分かってきたような気がしてきた。料理を分けようと食器を探すがコップしか見当たらなく思わず深いため息がこぼれた。彼女に聞いても目の前の食事から目を離さず、そんなものは無いと一言だけ言われてしまった。
仕方無く一つのラーメンを二人で食べる、さも当たり前のように肩を寄せてくる。思わず彼女の白く綺麗なうなじに目が止まってしまう、肩までの長さの髪を耳に掛けながら食事をとる姿に思わず見とれてしまっていた。
「食べないのかい?」
不意に彼女と目が合う、長いまつげに黒く大きな瞳に俺が映り込む。引き込まれそうになるが無理やり目を背けてチャーハンをかきこむ。
「あ!私の分も残しておいてくれ!」
(何を考えてるんだ俺は・・・)
そんな少しの嫌悪感を食欲でごまかしていた、そうしているうちに一食分もすぐに無くなってしまった。
「カップ麺じゃなくてもいいものだな!」
彼女は満足げの顔で薄いお腹をさすっていた、手元には毒々しいパッケージのエナジードリンクがある。食後のタバコを吸っているこちらまで甘ったるい臭いが届いてきた。
「さて、そろそろ詳しい話をしてくれないか?」
二人きりの静かな部屋に換気扇の回る音だけが響く。目の前のすべての元凶が唇を舐めて話の続きをしようとする、仲良しごっこをするために俺の目を覚ましたわけじゃなく、大きな問題があることを忘れてはいけなかった。
「よし、詳しい説明だ。このゲームはすべての人に喜びと自由を与えるために私が監督して出来たものなんだ、このVRゲームはただのゲームではないんだ。ここらへんも詳しく話したほうがいいだろう、長くなるがいいかい?――よし、それでは話そう。プレイヤーは特殊なデバイスを使って脳に直接ゲームに入っている感覚を感じさせることができるように設計されている。つまり、ほぼ五感がゲーム世界へ―擬似的ではあるが―入ることができる。この『ほぼ』というのは私がはじめ設計したものでは数値上約30%ほどしか五感を入れるように設計していたんだ完全に五感を入れてしまうと現実の体に危険が及んだ時危ないからね。ところが、私の知らないうちにその設定が書き換えられていたんだ、五感の100%が完全にゲームの世界に飛ばされてしまっている状態なんだ。わかるよ、その装置を無理やり外したいとろこだろう?だが、それがそうもいかなくてね、その装置は君の首元に着けられているものとほぼ同じでね、君の場合装置を少しいじって無理やり覚醒させて体を動かしているわけだがこのゲームをプレイしている人も同じだ。無理やり外したらどうなるのかは分からない、恐らくプレイヤーはゲームの世界にもこの現実の世界にも居ることはできなくなってしまうだろう。ではどうすれば現実世界に帰還させることができるかと言う話なのだが・・・。話は簡単だ、プレイヤーを殺すのが一番手っ取り早いんだ。」
長い話の中でとりあえずかなり頭のおかしい科学者が目の前にいるということを改めて、再認識することができた。
「殺すと元に戻ることができるのか?そんなもの、もっとゲームをやっている奴が適任だろう、なんで俺に頼むんだ?」
「軍人に頼んだほうが良いことがあるんだ、ゲームだけならそれは得意な人に頼んだほうが良いだろう。だがね、約1万人を殺して回るのは大変だろう?一番早い方法があるんだ。現実にあるこのゲームのサーバーをハッキングして強制ログアウトさせるのが一番早い方法なんだ。」
「じゃあなぜそれをやらないんだ」
「やりたくてもできないんだ、私はこの騒動の元凶といってもいいからね。どこに連絡しても取り合ってくれないんだ、今のところは私に全部の責任を押し付けるという動きは無いがこれからどうなるかは分からない。それにハッキングしなければいけないところはスタンドアロン―つまり遠隔操作でハッキングすることはできないんだ。大体君にやってもらいたいことは察してもらえたかな?」
なんとなく俺を選んだ理由が分かってきた、つまり普通に行けないところは実力行使で行く必要があるということなのだろう。あまりにもスケールの大きな話に、頭痛がしてきた。
「俺一人で何とかなると思っているのか?そんな重要なところに俺一人で行くのは容易じゃないだろう。」
「だから私もサポートするのさ」
頼りない胸を張り自信満々に宣言をする、車いすの女一人連れてきたところで何かの役に立てることができるとは思えないが、本人はそうは思っていないのだろう。
「分かった、どんなサポートかは分からんが、分かった・・・。だがな、そのサーバーが原因ならそれを何とかすることができたらこの事件は解決するんじゃないのか?ゲームをやる必要はないだろう?」
「そうはいかないんだ、そのスタンドアロンの重要サーバーは特殊なアカウントが必要でね。それを手に入れるためにゲーム世界へ入る必要があるんだ、そのアカウントはゲームを管理する者、ゲームマスターのアカウントが必要になる。君の操作するキャラクターには私が少し弄ってあってねそのアカウントを奪うことができるんだ。君はそのゲームマスターを殺してアカウントを奪う、そしてサーバーのある施設に潜入し、ハッキングをする。簡単だろう?」
「なるほどな、分かったよ。大体分かったから離れてくれないか」
話しながら興奮して自分でも近づいていたことに気が付かなかったのだろう、迫ってくる頭を押さえつけてようやく離れていった。ずれた眼鏡を両手で直しながらまた話し始めた。
「つまり君にはやってもらうことがたくさんあるんだ。これから期待しているよ。」
そう言うと同時に彼女からまた控えめとは言い難い腹の虫の音が鳴った、そこまで時間はたっていないと思っていたのだが外を見ると日が沈みかけていた。やはり二人で分けると量が少なかったのと、慣れない話で自分でも気が付かないうちに頭を働かせていたのだろう。俺もすっかり空腹になっていた。
目の前の彼女は何かを思い出したのか、はっとした表情を見せるとゴミ箱を漁りだし、昼前に俺が捨てたはずのカップめんを取り出し始めた。笑顔でカップ麺をテーブルに置いて割り箸を用意する、どうやら本気であのラーメンを食べるらしい。キャビネットから蕎麦屋のチラシを取り出し、机に置かれている何の味かわからないようなカップ麺はゴミ箱に戻ってもらいチラシを乗せる。
「晩飯は蕎麦にしよう」
そう言うと目の前の女はまるで、死刑宣告をされた囚人のような顔をしてこちらを見返した