第一章
[第一章]
1
ほんの薄ら、ぱらぱら雪が落ちてくる中、長身の黒衣は山道を進んでいた。粗末な道である。地はむき出しで舗装はされていなく、両脇は雑木林が広がっている。道を登る黒衣の吐く息は白い。ここは極北に位置する雪の国である。冬にもなれば城塞都市も村々も、深く深く雪の中に閉ざされる。だが今は春の終わり頃――、すでに冬の気配は遠のきつつあり、大地に降り積もる程には降らない。
(……そろそろのはずだが――)
その黒衣は着ている外套の懐から地図を取り出すと、この先にあるはずの寺院の位置を確認する。雪の国に入ってから手に入れたものだ。木の国の作成する地図と比べれば精度は低い。が、どうやら方向は間違っていないようだ。道も一本道である。
その黒衣は外套の中に地図をしまうと、足早に前に進む。足音にはちゃっかちゃっかと硬い音が混ざっていた。見ればその黒衣の外套からは黒く長いものが突き出ている。鞘におさめられた刀であった。それが先ほどから黒衣が歩くたびに鳴り、小さく音を立ている。
更に登ると、道の両脇の雑木林の前に、石材と竹で作られた柵が立ち並ぶようになる。おそらく寺院の敷地の中まで来たのだろう。やがて床は、所々割れて粗末ではあるが石畳の敷かれたものとなり、寺院に続く階段が見えた。もうすぐ――
すると黒衣は寺院の境内のほうから何やら異音が響いてくるのに気付く。金属を打ち合う音と、人々の争う声。黒衣は急いで登り、見る。そこでは争いが起こっていた。赤い鎧を着た二十名ほどの兵士が武器を手に、立派な鎧を身に付けた一人の女剣士と斬り合っている。
多勢に無勢であった。女剣士は斬り合いつつも、退路を気にしながら逃げ惑うだけだ。そして女剣士は一人の青年を引きつれて逃げている。まだ二十代の、青い髪をした青年だった。青年の手を取り、守りながら必死に逃げ惑っていた。
しかし微妙に違和感を感じるところがある。二十名の兵士たちの動きに生彩さが欠けているいるのだ。微妙に動きが鈍い。遅い。それにあまり組織だった動きが出来ていない。だから女剣士と青年は逃げ回れている。
「おいッ!何をやっているッ!」
黒衣は外套を脱ぐと、すらりと刀を抜いて二十人の中に斬り込んだ。その姿は黒一色。髪の色も瞳の色も黒い男だった。身につけている刀や鞘の色まで黒。まさに黒衣といういでたちだった。
黒ずくめの男は二十人の兵士の中に飛び込む、が、刀は逆刃にする。赤い鎧を着ている者たちはこの国の城塞兵である。状況が分からないのでは斬り殺していいのか分からない。
そのとき、立派な鎧を着た女剣士のほうから声があった。叫ぶように――
「――黒衣殿ッ!お待ち申しておりましたっ」
女剣士は青年を抱きかかえ、守るかの様にしていた。
「殺してくださいッ!彼らはもう手遅れです。憑かれています。そしていま私の守っているお方が雪の王なのです!」
それを聞き、黒衣は逆刃をさらに持ち替えた。
2
三人は寺院にいた。中央にある囲炉裏を囲み、暖を取っている。囲炉裏には炭が焚かれており、それが時折パチンと音を立てる。その上には鍋がつるされ、今はお湯がはってある。そこからあふれ出る湯気が適度に心地よい。ここは寺院の中と言うよりは、その隣にある生活空間の中である。ろうそくの明かりが灯されているが、暗い。囲炉裏で焚かれている炭の明かりが、適度に部屋の明るさを保っていた。
夜である。この鍋で先ほど住職に汁ものをごちそうしてもらった。空腹は満たされている。黒衣は外套を脱ぎ、刀を床に置いていた。女剣士は鎧を外している。先ほどの青い髪の青年は折りたたんだ両ひざを両腕で抱え込むように座り込んでいた。
「――さて」
と黒衣は女剣士のほうを向く。黒衣は先ほど二十名の城塞兵を斬り殺した。城塞兵が雪の王を襲撃していたからだ。しかしそれはおかしな話である。城塞兵とは、その地方地方での領主の配下。そして領主とは王の配下である。王とはこの国の最高権力者あり、女神アフレイアの祝福を右手の甲に受けたものだ。気脈を整え地を安定させ、二十六人の不老不死の配下を作る権利を持つ―――不死と言っても老いないだけで、頭を割られれば死ぬし、胴を断たれても死ぬのだが。
つまりは国民と臣下の支持を一身に受ける存在が王である。その王がなぜ自国の城塞兵に襲われるのか?
女剣士はこの国の将軍、名を清彩と名乗った。王を抱えて王都から逃げ出し、各地で追われて転々としながらこの寺院を目指したが、ついにはここで追い詰められてしまったのだという。王の名は白陽。齢二十一の青年である。体つきは痩せていて白く、全体的に線の細い印象を受ける。この青年が今年で在位五十年となる雪の王である。
黒衣はまず自分の名を名乗った。鳳一輝。死霊山から派遣されてきた黒衣である。黒衣とは死霊山に住まう戦士で、その指揮は玲花という黒衣がとっている。死霊山はこの世界の北西にある中の国三山の一つであり、世界で民衆が死に過ぎると溢れ出る悪霊の氾濫を抑えるために組織された戦士集団である。だが玲花の命令如何によっては下界に派遣されることもある。一輝はこの寺院に来ることを命じられ、この雪の国に来た。
一輝はまず聞いた。なぜ先ほど自国の兵に追われていたのか、と。
精彩は――やや疲労の色を見せながらも、答える。
「それは彼らが憑かれているからです。彼らはもう雪の王の命令を聞きません。敵の言う命令しか聞かない夢遊病者のようなもの。今この国はどこもかしこもそのような者で溢れかえっているのです」
「……憑かれる、とは?」
聞きなれぬ言葉に首をかしげて一輝は問う。すると精彩は困ったような表情を見せ、
「それが……、わたしにも良く分からないのです。何と説明すればいいか……。ただやった者の名は分かっています。三年前に王城にやってきた魔科学者クルトー。彼はこの国のほとんどの人間を憑かせ、自分の命令を従順に聞く奴隷なような状態にし、国を乗っ取った。今この国を支配しているのはクルトーであり、大臣も、領主も、国民もそれにしたがっています……」
クルトーが本性を現す直前に、二人は何とか王城を脱出した。そして追手を逃れながら各地を転々とし、ここに辿り着いたとのことである。
「脱出の直前、わたしはこの国を覆う不可思議な事態への対応をお願いするべく死霊山と連絡を取りました。黄鳥紙を使ったのです。しかしそれがきっかけになったのかもしれません。クルトーが不審な動きを始めました。やがてこれは明らかな謀反の準備であると確信に至り、王城守備隊、親衛隊、はてや大臣から城の侍従にいたるまで掛け合って味方を集めようとしました。しかし彼らの目はどこかうつろで生気がなく、わたしの言葉を聞こうとしてくれない。ただ淡々と日常の仕事をこなし、普通に食事をし、寝る。でもどこか普通の様子ではない。そんな感じなのです。その上、クルトー謀反という国家の一大事を告げているのに、国に関わるものが一人も興味を示さない。あまりに異常な状態でした」
味方が一人も集まらず、精彩らはクルトーが動く前に王都から逃げるしかなかった。だが黄鳥紙で玲花からの返信はもらっており、その指示に従ってこの寺院を目指した。
ここまでの話に、一輝は頷く。この黄鳥紙というのは霊峯山の大昔の魔術師たちが発明した、呪の施された紙である。その名の通り黄色をしている。この黄鳥紙にはオスとメスがあり、片方に文字をかいて魔力を通すと、文字がはがれて大地の気脈にとけていく、それは流れて対になっている相手の黄鳥紙へと移り、再び文字となって現れる。遠距離用の連絡手段であり、一輝もつねに持ち歩いているものだった。
雪の国はもともと民の暴動や山賊団の村への襲撃が多く。国に税を納めまいとする反乱も頻繁に起きていた。そういうお国柄である以上、黒衣が訪れることも多く、精彩は以前知り合った黒衣から黄鳥紙を分けてもらっていた。
「その魔科学者クルトーとは何者なのです?」
一輝は問う。精彩は悔しげに、あれは三年前です――、と語り出した。
「三年前、クルトーはふらりと王城にやってきて、王に謁見を求めたのです。自分は木の国の研究所から来た科学者なのですが、あなた方の国を豊かにするための発明品と持ってきました。どうか試してみてはいただけないでしょうか?と」
最初は胡散臭い話だと断ろうとした。しかし受付をした者たちは、物珍しさからか発明品が使用されるところを見たのであろう、
――これはすごい!
と騒ぎ始めていた。騒ぎを納めるために兵士長が向かうが、やはり、すばらしいものだ、と戻って皆にふれてまわる。ならばと一人の大臣が向かってみるが、今度は戻ってくるなり「これは試してみておいたほうがよろしいのでは?」と王に進言してきた。
ただちにクルトーは玉座の間に通された。クルトーは科学者らしく丈の長い白衣を着ており、前の部分ははだけて肩からかけていた。顔はやや細く頬がこけた印象がある。眼鏡をかけており、頭髪は金髪を短く刈り込んでいるが、前髪の部分だけくせ毛なのか上方向に跳ね上がっていた。彼は背後に付き人を二人連れているが、彼らは全身をフードと外套で隠すように覆っていた。彼らのうち一人は手に荷物を持っている。それは金属板と木箱をボルトとナットで組み合わせて作成された不思議な形の箱で、何やらいろいろと配線のようなものも見えた。箱の前面と後面には横長の細い穴が開いており、大きさは人の胴部分ほど。
クルトーはその箱を抱えると玉座の間の中央に置き、
「これはこう使うのです」
と、スイッチをいれた。さあ、とクルトーは促し、国官たちを招き寄せる。彼らは次々近づき、言われるがままに横長の穴に手を当てる。するとたちまち「おおッ!」と驚く声が上がった。
――暖かい!
と言う者も。
「これは暖房機と言うのです」
クルトーは眼鏡の位置を治しながら、自信に満ちた表情で言う。
「皆さんは極北の国である雪の国の人々。冬には何もかもが雪に埋もれてお困りでしょう? 皆、冬を越すおりに凍死しないため、大量の炭を買い集めなければならない。民はその負担で苦しんでいるはず。炭を買うための資金は秋の実りで賄うもの。しかし全部売ってしまえば食料は尽き、冬は越せられません。雪に覆われて動けぬときに物資が尽きれば餓死するのみ。必ず蓄えを作っておく必要があります。そのせいで村々の生活は厳しい。民は貧しく、食糧を奪い合って乱も起こる。これはそんな問題を解決する発明品なのです」
言われて、少なくとも国官の内の幾人かは恥ずかしいやら情けないやらで下を向く。クルトーの言う通りだった。雪の国は貧しい。各国の中で最も貧しい国とも言われている。それは生きるための負担が他国より多すぎるからである。この国の冬は野宿など出来ない。確実に凍死してしまう。野宿どころか家屋の中にいても、炭を焚いていなければ死んでしまう。この国では毎年のように凍死者が出る。冬への備えを怠ると、春の雪解けとともに一家三人冷たくなって発見されたというのもよくある話だ。国としての特産品も特になく、主な収入は大地の実りだけである。だがその実りが細い。少なくとも南に位置する国と比べれば。
他にも一応、産業はあった。わずかだが鉱石の取れる場所があり、山々ではそこそこの材木が取れる。海もあり、その恵みもあるのだが、北方の国というのは荒波で有名で、小型船などはよく難破していた。温泉などもあり、観光目的に訪れる他国の民もいるのだが、その程度のものは国の財政を豊かにするほどのものではない。
しかし逆にいえば何でもあるにはあるとは言えた。特に他国にだけあって雪の国だけないものというのも思いつかない。ただその収穫量が低いだけだ。国や民を潤すほどには足りなかった。
クルトーは、そんなこの国の窮状を何とかしてくれるという。暖房機によって。
「良いですか皆さん。これはわずかな気脈の力を使い、暖かい空気を送り続けてくれる装置なのです。冬になったら炭など買わず、これを付けっ放しにしておけばいい。あとはなにもする必要はなく、皆さん暖かい部屋で普通に生活するだけ。もう身を寄せ合って凍えぬよう、抱きあって寝ることもなくなるのです」
それは画期的な話だった。それは願ってもない話だった。この国では国民が労働で稼いだものの多くが、炭を買うために使われる。やがてそれは灰となり、後には何も残らない。財が蓄積されないのだ、いくら働いても。
炭に使用される金銭が不要になるという。それなら財は溜まっていき、民は豊かになる。争いも起こらなくなる。
玉座の間にいる国官たちがにわかにざわつき始めた。新たな雪の王が即位してからすでに四十七年が経過している。彼らも王も、なんとか国を前に進めようと頑張ってきたのだ。だが変わらない。何も変わらない四十七年だった。民からの評価は低く、他国との差は開くばかり。しかし今、奇跡が起ころうとしている。
――しかし、
「まてッ!さっきおまえは気脈の力を使うと言っていなかったか?」
声を発したのは女剣士の精彩将軍である。精彩の問いにクルトーは「言いましたが、何か問題が?」と返す。
精彩は、落ち着き払っているクルトーに向けて、やや厳しい視線を向けて詰問する。
「それは問題だろうッ!気脈の力は大地の実りの力。それを使って減らし、歪ませると国の営みも歪む。歪みを介して妖魔が来るぞ! それでは国がめちゃくちゃになる。民は殺され、軍は各地を転戦して疲弊し、やがて王は愚王と呼ばれ初め、その権威は地に落ちる。誰も白陽様に着いてこなくなるではないかッ‼」
精彩の言を聞き、国官からは、「……たしかに」、という意見が多数上がる。炭の問題は金銭の問題だが、気脈の問題は秋の実りの問題であり妖魔の問題であった。どちらがより重要なのかは言うまでもない。
だがクルトーは
「いいえ、ご心配なく皆さん」
と両手を広げ、自信満々の口調で言った。これは大地の気脈を吸い上げる装置は組み込んでいません。皆さんご自身の中にある気脈を使用するのです、と。
自分自身の気脈? と国官は問う。確かに人は皆気脈の力を体内に持っている。それを魔力に変えて放つ魔術師という者たちもいる。それは体内で生み出され続けており、霊魂という器の中で流れ、生命活動により消費されていく。それをどう使うと言うのか?
「良いですか、みなさん?」
クルトーは良く通る声で――
「魔術師が魔法を使う理屈からも分かる通り、生命が作りだす気脈の量は生きる分にはちと多いのです。その余剰分は魔術師以外の人間には無駄なもの。まったく使われずにいるものなのです。この機械はそれを吸い出して熱エネルギーに変えて吐き出す装置です。つまり要らないものを使って大切なものを得ようと言う、そういう画期的な発明品なのですよ!」
装置の原理は簡単です。とクルトーは説明する。まずスイッチには弱い呪が仕掛けられており、それをエネルギーとして最初の機動がなされる。この機械の内部にはクルトーが木の国で作りだした気脈電熱線が巻かれている。それにつながっている部品が体内の気脈を回収する部分だという。スイッチを入れると気脈回収装置を通って風が流れ始める。そのとき空気中のわずかな水分に気脈を吸収する呪がかかるようになっており、その空気はやがて部屋を満たしていく。部屋にいる人々がそれを吸い込むと、吐き出した空気にはほんの少し、ほんの薄ら、ほんのわずかな気脈の力が含まれる。それを装置の後方にあるもう一つの横長の穴から吸い込んで回収し、電熱線を温める。今度通った空気は電熱線で温められており、それが温風となって再び吐き出されるのだ。
魔科学というものです、とクルトーは言った。魔術の亜流である呪と、科学の力による発明品の融合体。その技術が発明されて数百年が経ち、今までなかったものが作れるようになりました、と。
にわかに国官たちがどよめき始めた。もしそれが本当なら大地の気脈は乱れない。もともと不要とされるものを使うのだから費用はいらぬ。この雪の国は炭を大量に必要としない豊かな国になる。
クルトーは腕を組むと、どうでしょうか? と自慢げに問うてくる。国官たちは次々と質問を投げかけた。生まれつき気脈の力か弱いものはどうするのか? 余剰分を少しずつ回収するので大丈夫です。余剰分とは皆が確実に持っているものですから。では成長に気脈が必要な赤ん坊からは回収しても問題ないのか? 回収を防ぐ呪というものもあります。非常に弱い力で良いので簡単に作れます。クルトーは的確にきびきびと質問に答えていく。その答えには隙がなく、理論立っている。だが――
まて、と精彩が声をかけた。多くの国官が興奮する中、彼女は冷静だった。
「それらの話、まことに魅力的で素晴らしいものに思える。だがそれらの話はまだお前が言っただけの話であり、確証はない。お前が言うことがまことに真実であるのか調べねばならぬ」
聞いた国官たちの口からは、それは確かに、と次々に同意の声が上がった。
実験がおこなわれることがその時の朝議で決まった。王城のどこかの部屋でスイッチを入れ、その部屋で城の侍従の一人に寝食をさせる。問題はどのくらいの期間行えば良いのかということ。六か月がよいであろうと話し合いで決まった。この機械は冬の間付けっ放しで使用される。ならばその倍の期間の六か月。それで異常が起きなければ問題はないだろう、と。
直ちにそれが議題に上がり、ではどの部屋でやるのか? 誰にやらせるのか? など次々決議が下されていく。にわかに活気立つ朝議であったが、その中でクルトーは一人、議論の輪には入らず玉座のほうへと歩みを進めた。「なにか?」と聞く宰相。するとクルトーは雪の王の前に跪き、こう言った。
「国王陛下、わたしはこの国に仕えたいと思います。この国の貧困にあえぐ人々を救うためにわたしの魔科学をご利用ください。必ずお役に立てます。新たな研究所を建てて新たな品々を生みだし、この国をきっと豊かにして見せます。ですから――」
クルトーは顔を上げ、雪の王に言う。
「われら三名に女神の祝福をお与えになり、どうか臣下にお加えください――」
「その後クルトーには宰相からの女神の祝福が与えられ、宰相着き第二位の魔科学省の大臣に任命されました。実験が行われている六か月の間に予算配分を決める朝議がありましたが、その時には魔科学省にも少なからず予算が回され、クルトーはそれを使って王都の中に研究所を建てて暖房機の生産を始めたようでした。やがて六か月が経ち侍従の身体を医者に検査してもらいましたが、特に何の異常も見られない。よって暖房機の配布は直ちに始まりました。王都、城塞都市、地方にある各村々。生産しては次々と配られ、みな使い方の説明を受けました。やがて冬が訪れ、国中が雪に閉ざされてからは期待と不安を込めた三カ月を国官は過ごします。なにせこのようなことは前代未聞であったからです。しかし国官たちはこの四十七年間で国の運営というものに失望を繰り返しており、奇跡にでもすがりたかった。国民の賛辞が欲しかった。この国を前へと進めたかった」
そして春。国中に歓喜の声が溢れていた。皆が雪の王を称える言葉を口にし、国民の顔には笑顔が満ち溢れていた。
宰相は雪の王に進言し、クルトーになにか報奨を与えることとした。クルトーは玉座の間に呼び出されて跪くと、褒章など不要です、と雪の王に言った。
「国王陛下、いまは始まったばかりなのです。国民の生活はまだまだ苦しい。ならばその予算はすべて魔科学省に回したいと思います。もっと暖房機を生産して各地に配り、もっと研究所を大きくして新たなる発明をする。そしてこの国はこれからどんどん豊かになっていくのです。全てわたしにお任せください」
国官たちはそれを聞き、何と立派な御人なのかとつくづく感心したようだった。本当に良き人がこの国に仕えてくれたものと、みながこの幸運を感謝した。
直ちに魔科学省の予算は倍増され、クルトーの望む物は次々と生産の許可が下りた。クルトーはやがて「少々研究に手間取っています。しばらくは研究に専念させてはいただけないでしょうか?」と付き人の二人と王都の研究施設に籠ることが多くなった。
やがて二年目の冬が過ぎ、春を迎えたころ、国中におかしな病が流行り始めた。王都の中、城塞都市の中、各地方都市の中のいろいろなところで生気を失ったような人々が現れ始めたのだという。どことなく目が虚ろであり、どことなく動きに生彩さが欠けている。だが特に生活に変化は見られないので、元気がないという風でもない。
風邪でもひいたのか? どこかからだが弱っているのかと問われれば、そうでもないように見られる。その状態の農夫はちゃんと畑仕事をして、食事を食べ、夜になったら住居に帰って寝ている。話しかけたら普通に返事をし、友人が遊びに来ればくだらない話に「ははは」と笑いを返してくる。だが何かおかしいようにも感じられた。
その状態のものは、その村々や城塞都市で生活している者の三割ほどの数に上った。それは無視できないほどに多い数字である。もしや重大な流行病が広まっているのかと国が調査を始めるが、その者たちの身体を医者が調べてもなにもない。健康であり、普通に会話に受け答え出来、仕事も生活もこなしている。だがほんの少し今までと違うような違和感があった。どことなく他人に無関心であり、どことなくやる気がない。
軍の中にもそのような者たちがじわりじわりと増えていき、城の中でもちらほらと見かけるようになった。どこか生気のない瞳。なにか感じる違和感。しかし彼らは普通に軍の任務をこなし、普通に犯罪を取り締まっている。犯罪者の中にもその状態の者はいたが、彼らは普通に犯罪を犯していた。
――憑かれる
やがてそんな言葉が雪の国に流れ始めていた。なにかキツネに憑かれたような状態の者たちのことを皆はそう呼んだ。病になったわけではない。おかしくなったわけでもない。しかしなにかが違う。
雪の国の医者では治せなかった。クルトーにも相談が行われたが、
「さて、私は魔科学者であって医者ではございませんので。それにわたしの研究が遅れるのは雪の国の損失でしょう?」と返ってくる。
そこで朝議では最も医療技術が進歩している木の国に助けを求めてみては? との意見があがった。直ちに連絡がかわされて木の国の了承が得られた。木の国からは医者が数名派遣されて来て、憑かれたもの何名かを診察してもらう。彼らは半日調べると、これはしっかりとした研究設備がある場所で何カ月も調べてみないと分からない。患者の何人かを木の国に連れて行ってもいいだろうか? と言ってきた。もちろんそれは了承され、彼らは帰って行った。かならず治せる医者を派遣すると約束して。
「憑きもののことに多少不安を感じてはいましたけども、もたらされた恵みの量がそれを吹き消していました。一年目は冬を越した後の城下町からは、国民たちの歓喜の声が王城にまで届いたものです。二年目からは国民も、田畑で取れた収穫を売って贅沢をするようになりました。民は雪の王をほめたたえ、我々もようやく国の運営に自信が付いてきました。しかし――」
三年目の冬が明け、春が来た最初の一日目に事態は一変した。王都に住まう国民の全てが憑かれてしまったのだ。無論王城の国官から兵士たちまですべてである。しかもかれらは以前と様子が一変していた。誰も精彩の言葉を聞かず、無視し、命令に従わなくなっていたのである。
王城の中で憑かれていないものは王と精彩の二人だけだった。それから黄鳥紙で玲花と連絡をとり、逃げ出し、ずいぶんな日数を逃亡生活に費やしながら、今に至るということになる。
「いまになってみると、原因だけは分かります。あの暖房機です。あれになにか仕掛けがあり、王都と城塞都市の全員が憑かれたのです。かれらはクルトーの命令しか聞かない存在となっています」
ならばあれを何とかすれば、と思う。しかし仕組みが精彩にはわからない。ただ暖房機を取り上げればいいのか? おそらくそんなものではないはずだ。この現象は三年間もかけて準備され、実行された。ちゃんとした仕組みを理解しなければだめだ。
これで話は終わりです、と精彩は結んだ。ようやく黒衣に出会えて一息つけたが、これからどうすればよいのだろうか? なにが出来ると言うのだろうか? 国の全てが奪われてしまった。それに対しこちらの戦力は自分と黒衣の二人である。王の白陽は終始黙っていた。一輝もしばらく黙っていたが、やがて、村まで下りてみませんか? と精彩に言う。様子が見たいのだと。
「おれが今回呼ばれた場所は街道からも遠く離れたこの寺院だったので、転々と村に立ち寄りながらここまで来ました。そのとき確かに妙だなとは思ったのですが、彼らは普通に生活しており、特に襲ってくる様子もない。ただ少し他人に無関心すぎるかな? という程度に思っただけです。我々が村の中に入って見回ったとしても、特に危険はないでしょう。――どうせいつまでもここにいても仕方がありません。朝になったらこの山を下りて、麓の村へ向かいましょう」
一輝はそう言い、この寺院の住職を呼ぶと、二人を眠れる場所に案内してくれと頼んだ。住職はふすまを開けると「こちらです」と二人に向けて言った。
やがて二人は姿を消す。残された一輝は黒い対刃スーツの胸元から黄鳥紙とペンを取りだした。さらさらと文字を書いていく、それは――
(玲花様、大至急援軍を送ってください。それも大勢)