泳ぐ者
たまには庭の掃除をしなくては。
ふと思い立ち、延々と花弁が溢れ続ける掛け軸から目線を外して立ち上がった。
掃除嫌い、苦手と言うわけでは無いが、機会が無い限り動かないだろう自分の性格を考えるに思い立ったが吉日だ。
のそのそと雪駄を履いて表に出る。
いい天気だ。空は青く澄み切っていて、一片の雲さえ見当たらない。
小春日和であまり寒さを感じなかったが、吐いた息は真っ白で、今が冬の中頃である事をしっかりと伝えていた。
今更ながらにさて、掃除道具はどこだったかな、とはた表に立ち尽くす。
少なくとも玄関には無かった気がする。
ああ、そうだ。蔵の中だ。
素足に近い足先に感じる寒気と日差しをかき分けるように歩を進め、庭の隅にある小さな蔵へと向かった。
蔵の前に立ち、その重い戸に手を掛けた。
石と石の擦れる音を響かせながら僅かに開いた隙間に体を滑り込ませる。
蔵の中は青く薄暗かった。
床の上に積もった細かい埃が、唯一の格子窓から細く伸びる日に照らされて、白く立ち上っている様が、毎度のことながら経年を感じさせる。
そして目当てのそれは格子窓の側に立てかけられていた。
近付いてその竹箒を掴む。
冷たい竹の感触。柄を握り込むと、ひりつくような感覚が手の平に広がった。
竹箒を手に蔵を出ようとしたら、背後からぐいっと羽織の裾を引かれる。
か弱い力なのでこけることもなかったが、急な膂力に立ち止まる。
あと何が必要なものがあっただろうか。
そう思いながら辺りを見回し再度、格子窓の側を見ると先程まで竹箒があった場所に、今度はちりとりが鎮座していた。
古く錆が浮いているがまだ十分に使えるもののようだ。
それを確認するとその二つを掴んで蔵を締めた。
扉が閉まる直前、蔵の奥から凛、と澄んだ音が聞こえてきたような気がした。
いずれにせよ、これで準備は万端だ。
蔵での戦利品を手に庭へと向かった。
庭には枯葉や細かい枝が散乱していた。
庭の隅から中心に向かって枯れ葉を集めて、複数の小山を作る。
同じ作業を繰り返して小一時間。
これでほぼ片付け終わったはずだ。ぐっと腰を曲げて伸ばし、大きく背伸びをする。
集め残しがないか辺りに視線を巡らせると、庭の池が目に入った。
直径二メートル程のやや大きな池だ。
何故か池の表面に枯葉は浮かんでいない。
何となく気になり、池に近付いた。
池は深い緑で濁っている。
一見すると淀み腐った様に見えるが、停滞した水の臭いはしなかった。
こんなにも光すら通さないような暗緑に覆われているのに、清い水の匂いがした。
身を乗り出すように池の中を覗き込むと、周りをぐるりと囲む苔むした岩に爪先があたった。
水面は落ち着きはらっており、一片の動揺もない。
しばらく池を見つめていたが、足元の小石をそっと投げ込むと、どぷん、と粘土の高い音がした。
静まり返った水面に僅かな波紋が広がり、池の端を叩いた。
そう言えば、と僅かに揺らめく水面を眺めながらぼんやり思い出した。
そう言えばこの池には、何かいる、と大家さんが言っていたような。
家の注意事項というか、捕捉が長過ぎた為あまり覚えていないが、確かそんな事を言っていた気がする。
曰く、
ーその池には三匹の魚がいる。
一匹は赤い赤い金魚。
一匹は龍のなり損ないの鯉。
そしてもう一匹は、
ざぷん。
思考を巡らせて数瞬。
池の表面を何かが叩く音で意識が引き戻された。
水面を見れば、緑の中を泳ぐ、真っ白な何かがいた。
緑の幕の中に消えようとするそれは、まごう事なき、人の腕だった。
二の腕から下、手先までのふっくらした白い腕が、手の平を尾のようにぱたぱたと振り、緑の水をかき分けるように泳いでいる。
腕の先、本来ならば赤い肉と白い骨を晒すであろう切断面は、何事も無くのっぺりとした皮膚で覆われている。
どう見ても腕なのだが、動きは魚そのものだった。
そしてその、人の腕の形をした、魚のような何か、は。
瞬く間に深緑の奥深くに潜り、見えなくなった。
ー風が吹き、集めた枯葉を散らしていく。
慌てて再度葉を集めて山を作る。
目の前に白い花びらが落ちてきた。
見上げた木蓮の白さが、先程の腕を彷彿とさせる。
もう、冬も終わりだ。