人肌−1
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噎せ返るような鑞の匂いが篭っていた。
板戸を閉め切られた部屋は、独特の饐えた匂いで溢れている。
琥珀の意識はその闇に紛れていた。
部屋には行灯から漏れた光が、ゆらゆら大きく不規則に揺れている。まるで大きな乗り物にでも乗っているかのような、船酔いに似た不愉快さに琥珀は軽い胸焼けを感じていた。
逃げようとする自分の意識を、琥珀は懸命に奮い立てて集中力を保った。
行灯の油は魚類のものだろうか。生臭さと焦げ臭さの混じった何とも慣れない匂いだった。
ふっと琥珀の意識は鮮明になっていく。
床を踏む足の感触がはっきりする。意識が誰かの身体に降りたようだ。琥珀の意識の主は、軋む床を裸足で踏みしめて行灯の灯りの点る方へ歩いていく。
「ともしび」
ずんぐりとした声が琥珀の中に響いた。男性の意識の中に琥珀は居るようだった。
目の前には、薄い布団にもたれた女が見える。
行灯の灯りは余りにも心細すぎて、室内はほぼ闇といっていい暗さだった。それでもその灯りは、女の身体の柔らかな曲線をくっきり闇の中から引き出して揺れていた。
女は既に胸元をはだけて琥珀の方に顔を向けるなり、その薄い妖艶な唇から男の名を呼んだ。
「助さん、遅かったじゃないの。忙しかったの?」
女が上半身を起こすと、行灯の灯りが一際大きくゆらりと揺れた。
その揺らめきに同調するかのように、男はゆっくりゆらりと言った。
「すまないね」
口数の少ない男だろうか。それだけを言うと当たり前のように女の上に身体を重ねた。
「油が臭うな」
男は行灯にちらりと目をやる。
「しょうがないでしょう」
くすりと女は笑った。着物の袂から男の背中に腕を回し、その首にまとわりついた。
男の背中に回った女の腕の冷たさと、触れた胸元の暖かさが印象的だった。
「わたしは港町の出だから、魚油の匂いが落ち着くの。でも、助さんの鑞の匂いはもっと好きよ、落ち着くわ」
「ともしび」
男は女をそう呼んだ。
そして琥珀の意識には「ともしび」という名は〔偽わりの名〕だとも伝わって来た。
「助さん」
ともしびという名の女は、若い小柄な女だったが、弾力のある豊満でしなやかな身体をしていた。
狭い部屋の中の明かりで確認できるのは、すっと細い目で肉付きのよい頬の顔立ちだという事だけだ。助という男の恋人だろうか。情事を交わす仲なのは確かだ。
ともしびは愛しそうに助の頬を何度も細い指でなぞった。
「忙しい時期にすまなかったな」
その指先の感触を感じながら、助はゆっくり目を閉じた。
「忙しいのは助さんもでしょう。逢いたかったのよ」
「ああ、逢いたかった」
助の手は荒く硬かった。ともしびのように柔らかく細い指ではない。
彼の仕事は、晩秋に和蠟燭の原料となるハゼの実を集める事から始る。秋風に曝されながら硬い木の枝を相手に、その実をすり搾る作業にかじかみ、いつしか無骨な節くれだった手指が彼の人生そのものを表していた。
その荒々しい手で、助はともしびを掻き抱いた。餅のような弾力に、陶器のような滑らかな肌。それは、丹精籠めて絞り上げた鑞の、その不純物を取り除いた後に現れる神々しいまでの白さに似ていて、助はともしびを敬い、愛しんだ。
しっとりと湿った髪からは僅かに椿油の匂いがした。助は頬から耳にかけて唇を這わした。
「ともしび」
椿油のそれとは違う、嗅いだ事のない香りが女の首筋から漂って来たのを、琥珀は助という男の意識の中で、えも言われぬ快楽を感じた。
これが女の匂いというものだろう。
ふと、−−琥珀は異様な視線を感じた。
目の前のともしびが助を真っすぐ見ている。蝋燭の炎が時折大きく揺れ、黒い瞳が潤むように暗闇に浮かんだ。
助の中で、琥珀は背筋が凍るのを感じた。
ともしびは、助を見ていない。
助の中に居る、琥珀を真っすぐ見ていた。
(どういうことだ)
そう確信した瞬間、琥珀の意識は助の中からずり落ち、暗闇の中にともしびと向き合って立っていた。
(どういうことだ)
これは物の持つ記憶だ。
記憶の中の人物が、琥珀の存在に気がつくはずはない。
(どういうことだ)
視る事ができるのは琥珀なのだ。ましてや、物の持つ記憶の中に入り、その中に居る人物と会話など出来る事などありはしない。
あり得ないはずなのに。
ともしびは、その白い手をすぅっと琥珀に差し出した。
触れるはずもない。
そこにいる琥珀は実態のないものだから。
だが、ともしびの白い手はそのまま琥珀の頬を触れ、髪を触れ、促すように琥珀の頭部を両腕で抱え込んだ。
(どういうことだ)
ともしびの胸に抱かれたまま、琥珀は動けないでいた。