再会−3
3
路旗と琥珀は古くからある住宅街の一角に居た。振興の分譲地に出来た住宅街と違って、ここは戦前から存在している歴史のある住宅街だ。
古い厳格な佇まいを残すものや、真新しく立て替えられた家など乱立している中でも、家々は皆少しばかりの庭を持っている。
依頼人の家もまた、そんな少しばかりの庭と敷地があった。
外観は至って普通の古い、昭和の後期にでも建てられた風情の一般的な家屋だった。
その家屋の裏に、古めかしい蔵がある。ほとんど需要などなくなったかのような、草の覆い茂った庭に、のっそりと建っているのだ。
琥珀たちはその蔵の前で、依頼人を見ていた。
「神社のホームページの、とある場所にリンクがあって、そこをクリックすると、何でも相談できるって噂があってね」
男はそう言うと、後ろに控え目に立っている路旗と琥珀をよそに、倉の鍵を乱暴に金槌でたたき落とした。
男の年齢は四十代前半か半ば程である。
「あのばばぁ、こんなチンケな南京錠掛けやがって」
語気は随分と乱暴な男だった。
見てくれは細面の長身で、顔立ちもいたって優男である。服装もとりわけ派手ではなく、クラブチェックのシャツにスラックスといったスタイルで、その外見からでは想像もつかない口調だ。
「それでさ、お宅のホームページの〔その他〕のページの〔お問い合わせ〕をクリックしたってわけ」
男は名を如月信二と名乗った。
路旗たちの裏家業の噂を、どうやら聞きつけた連中の一人らしい。
彼はその経緯を一通り二人に話した。
「そうしたら〔記入欄〕があってそこに、今回のこの件、依頼したってわけだ」
如月がいう「なんでも相談できる秘密の依頼のページ」というのは、ただの〔ウェブサイトからのお問い合わせページ〕だったのだが、実際ネット経由で依頼をしてくる人はほとんどいない。
おおよそ御山の紹介か、その口コミ系列の依頼がほとんどで、こうやって神社のサイトから依頼にたどり着いた人は、如月が初めてといっても嘘ではなかった。
「なんでも、というのにも限度がありまして。まずは現物を見せていただいてから、ご依頼を引き受けれるかどうか決めさせていただきます」
路旗がこの台詞をこの男にしたのは、メール返信も含めて四回目である。
「最悪ダメならこれ、引き取ってもらいたいんだよ」
そう忌々しく言い放って、男は古びた蔵の扉を開けた。
彼の生い立ちはどうも複雑だった。
彼の母親は四回目の結婚の末に、十四歳になる連れ子の信二を如月家の養子にしていた。
義父が亡くなったのは、信二が三十歳になってから。その四年後に実の母親も病死した。信二に残されたのは、如月という家と、血の繋がりのない一人の老人だった。
義父の母親、つまり義理の祖母である。
齢八十七になる如月の祖母は、非常に気丈な人物だったらしい。故に、痴呆が始ると癇癪玉が弾けたように手に負えなかった。
信二の方は、ほとんど二世帯住宅のようなこの家で、顔を合わす事もあまりないという生活をしていた。見かねた親戚連中が、いよいよ施設入居を進めにかかったという話だったのだ。
「俺的にこの家のものには執着ないんでね、金になるものは全部金に替えたくて色々売ったんだけどさ。どうしても気持ち悪いものがあってさ。誰も買ってくれないんだよ。そうしたら、ばばぁが突然シャシャリでてきて『その箱は現世で開けちゃダメだ』なんて叫びやがってさ」
物凄い形相で、オカルトホラー並みだったと如月は苦い顔をした。
蔵の中は、思った以上に埃臭かった。広さは外見から見たイメージよりは随分こじんまりしている。
如月が壁沿いに腕を伸ばし、スイッチを付けると、裸電球の赤い灯りがぼんやり部屋の中を映し出した。
部屋はなるほど、ガランとしていた。
金銭になるものは金銭に換えると言っていただけの事はある。大きなタンスが一つと、長持らしき箱が一つ蓋が開いたままで、中も同様にほとんど何かが入っている様子もなかった。
奥の方に、木椅子がちょこんとあり、その上に黒っぽい布で包まれた箱のようなものが見えた。
(あれか)
琥珀は目を細めた。
嫌な予感がした。
「ばばぁが施設に行ったら、このボロい蔵を壊してガレージにしたいんだよ。でもね、あれを家の中に入れる気にはならなくてさ。別におかしな事は信じちゃいないけど、なんせモノが毒々しいんだよね。だから引き取ってもらいたいっていうのが本心なんだけどさ」
「ご依頼の物を引き取るというような事は、うちではできかねません」
珍しく慎重な口調の路旗だった。
最初から消極的だったのは、精神的にも不調な琥珀を思いやっての事だったのだが、どうやらそれだけでもなさそうな気配を琥珀は感じ取っていた。
「まぁ見てみてくれよ」
ズカズカと如月は蔵の中に入って行き、その物体を手に取って差し出した。
受け取ったのは路旗だった。
長さは二十五センチ程の長方形の箱だ。深さは十センチ程はあるだろうか。黒っぽい布は大判の風呂敷だった。綿素材の感触だったが、随分古いものだろう。触れた部分から粉のように崩れてしまいそうな感覚を覚えた。
路旗はそれを丁寧に椅子の上に置き直し、その前に立ち膝をしてから、ゆっくり結び目を解いて行った。
「なるほど」
古びた風呂敷が包み隠していたもの。
それは古い木箱だった。
気持ちが悪くて毒々しいという如月の表現が、そのままだったのだ。
古い木箱の木肌をほぼ覆い隠す程のお札が、何枚も幾重に貼られていたのだ。お札は茶色に変色していたが、元々は朱色で書かれていただろう呪符の文様は、まるで皮膚に出来たミミズ腫れのような脹らみをもっているかに見えた。
そういった意味深な呪符が何枚も重ねられるように、箱の表面、側面、裏に至るまで張られているのだ。
「気持ち悪いだろう」
路旗の後ろから覗き込んだ如月は、忌々しげに二人に同意を求めた。
「随分とインパクトが強いですね」
横にいた琥珀をちらりと横目で見た路旗は、そっと箱を包みで覆い直した。
「一体何なんだか気になるんだけど、さすがの俺も開ける気にはならなくてさ」
「ごもっともです」
「これ持って行ってくれる?」
如月の言葉に返答があったのは、しばらく時間が流れてからだった。
「これは、この蔵から出した事はありますか」
後ろの如月に路旗は訪ねた。
「いいや、一度もない。ここの中のは、骨董屋やリサイクルショップの連中にここまで来てもらって引き取ってもらったんだけど、誰もそれだけは持って行こうともしなかったんだ」
「それは元々は、この長い箱の中にあったんですよね」
蔵の壁沿いにある、蓋が開いたままの長持に琥珀は目をやった。未知の世界がその向こうに広がっているかのように、魔物の黒々とした大きな口に見えた。
仄暗い灯りから落ちた影が、余計に箱の底に未曾有の空間を作っているように見える。浅黒い瘴気が漂っているかのように思えるのは、恐らくは琥珀自身の恐怖心が見せている幻だろう。
しかし、幻ではないものが、目の前にある。
路旗が風呂敷でそっと隠してくれた木箱。その黒い風呂敷の繊維の間から滲み出るように、何かが琥珀の右手に纏わりつこうとするのだ。
琥珀の右手には記憶を吸い込む入り口がある。木箱から漂う瘴気は、その入り口を知っているかのように、琥珀の周りをゆっくり漂い始めた。
琥珀は掌に力を籠めた。
木箱の持つ記憶が、己から誘ってくる。
みて。
わたしをみて。
だれか、みて。そしてあいして。
ぐっと、琥珀は生唾を飲んだ。
「これだけは今はまだ、ここから出してはいけないです」
きっぱりと琥珀は言って如月を真っすぐに見た。
この蔵の中を引き取っていった骨董屋やリサイクルショップの店員に、超能力や霊感があったかどうかはわからない。それでも、如月のような一般人に「気持ちが悪い」と言わせるだけの不穏なエネルギーが、この箱からは出ているのだ。
この箱が唯一ここに残っているのは、この箱がここを出る事を拒んでいる証だった。
それなのに、何故だろう。
箱から滲み出る浅黒い霧のような記憶−−念−−は、琥珀の中に入り込もうとしているように感じる。
みて。
かなしや さみしや 人恋しや
この想いを だれか みて。
握りしめた五本の指の隙間から、僅かに沁み込んだ霧がそう訴えてきた。
かなしや さみしや 人恋しや だれかあいして。
わたしを みて。
「路旗さん、その風呂敷を少しどけてくれますか」
琥珀は目を伏せたまま木椅子の方を向き直った。路旗が風呂敷を除けたのが、目を伏せたままでも瞬時に判る。
古い風呂敷が除けられると、重い鉛のような空気が一気に広がったからだ。目を瞑ったまま琥珀は深く深呼吸をした。
しんと意識を澄ますと、じわりじわりと入ってくる記憶がある。
たゆとう水のような穏やかな記憶ではなかった。
くすんで泡立つ濁った風景だった。
みて。
わたしを。
だ れ か。