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秋の日はつるべ落とし。日没と同時に辺りは真っ暗闇になった。
行灯の灯る部屋の中。
洗い髪を長く背中に流し、一人の女が手入れした爪を集めて懐紙に包む姿があった。
武家の嫁ともなれば、文字のひとつやふたつ読み書きしなければならないと嗜められ、連日読み書きの勉強ばかりさせられている。ともしびは楼閣の遊女だったが、江戸の吉原の花魁のように読み書きや芸が達者なわけではなかった。しがない温泉街の一角にある楼閣の、少しばかり人気があった遊女だ。
それでも夫はともしびを迎えてくれた。
その想いに報いようと、ともしびも必死に勉学にも励んだ。毎日夫の顔を見るより、懐紙を見る時間が長い気がするほど。
ともしびは憂いな目で墨箱を眺めていた。漆塗りの黒々とした面に七色に光る螺鈿が細く繊細に施されている。恐らくは高価なものであろう。職人が丹誠込めて作りあげた品物だというのは一目瞭然だ。
ふと、思い立ったように。
棚から風呂敷に包まれた箱を取り出した。そこには七本の和蝋燭が入っている。そのうちの一本をともしびは静かに取り出し、蝋燭の側面に行灯の炎を当て、柔らかくなった鑞に自分の切った爪の欠片を押し付けて埋め込んだ。
行灯の火に炙された蝋燭の側面が暖かい。まるで熱いあの人のように−−。
畳に置いた手鏡に映るその顔には、艶やかな若い女の健康的な顔には似つかわしくない、哀しみの表情とそこに流れる涙があった。
「ともしびもまた、助に恋をしていた。恋多き女性の、いくつかの本気の恋だったのかもしれないです」
琥珀はそう付け足した。
身請けとなったともしびには、指を切り落とす等はもってのほか、髪の毛を切るのも夫の居る身ではできなくなった。
夫にも知られずにできること−−。
ともしびは常日頃の身だしなみの一部である爪切りに目をつけた。
その日早々に爪を切ったともしびは、夜半静かに助から送られた木箱を開けた。
そして、そのうちの一本を取り出し、蝋燭であぶって少し柔らかくなった蝋燭に、自分の切った爪を埋め込んだ。
ともしびはともしびなりの心中立てをひっそり行っていたのかもしれない。
女の想いというのは、男の想いより濃く深いという。
助に対する愛なのか、身請けをした後悔なのか、婚姻生活の窮屈さなのか。
琥珀に流れ込んで来たともしびの記憶は、一様には言えないほど様々なものだった。
そうして、ともしびの想いはその爪に宿った−−のだと琥珀は思う。
「宿ったのは〔その時の〕ともしびの念なんだと思います」
琥珀は言った。
「助から送られた蝋燭の中に、助の指が入れられていたことは、もしかしたら、ともしびは知らなかったかもしれないけれど、ともしびの彼女なりの心中立てを意味して切った爪を埋めた行為そのものが、助の籠めた気持ちと作用してここまで念が濃く残ったのではないでしょうか」
助には決して届かない、心中立て。
藍色の霧になって降り注いで来たともしびの念という記憶には、琥珀には到底共鳴できない歯痒さが滲む感情が流れて来たのだ。
ともしびは、元々想いが強い女性だったのだろう。それ故に念となり、物に憑くほどの念が宿ったともいえた。もちろん、助の心中立ての想いが篭った木鑞が、偶然にも媒体となって、そのエネルギーが強まったという考えも否めない。
身請けをされて郭を出た彼女には、念願の郭を出るという夢と引き換えに、逆にその時が一番寂しい時期だったのかもしれない。
大勢の男が彼女を欲し、愛し、慈しみ。そして助という愛しい存在が居た、捕われた鳥の籠のような郭。
そこを出た先には、ただ一人の男を待つだけの生活だった。
何不自由なく生活でき、夫を待ち、子を産み育てる。どれだけ夢見たその世界が、ともしびにはとてつもない寂しい世界だったのかもしれない。
しかし彼女は普通に歳をとり、子を産み育て、この如月家の先祖として没したはずだ。
箱に残っていた念は、心中立てをした若い頃のともしびの念だ。
夢見た世界がこんなに虚しいもので、生き甲斐のないものだったとは。
人の肌が恋しくて、人の声が恋しくて、自分をかき抱く熱が欲しくて、そして何より、愛しい助の存在がいないのが辛かった。
若くして肉欲的な、慕っていた相手と離れた女の寂しさが、ともしびという怨念だったのだろう。
一同は琥珀の言葉を聞き、しばし誰もが声をださなかった。
「−−それで、なんでばばぁがこれを持っていたんだ?」
開口一番、単純な疑問を投げつけたのは依頼人の如月だった。
彼は今でも、曰く付きの箱を鬼の形相でこの蔵から出すなと叫んだ、祖母の姿を思い出す。




