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−−ともしびと助の記憶
蒸し暑い秘めた部屋の奥。
不揃いな隙間の開いた板間から僅かに入ってくる夜風は、真夏の篭った草の香りを乗せていた。
「助さん、わたしはあんたに心中立てしたいわ」
ともしびは潤んだ声で静かにそう囁いた。誰に聞かれても構わなかったが、助にさえ聞こえればそれでいい。
「きり指なんてそんなもんじゃない、この腕一本あんたになら差し出してもいいわ」
言葉の並びとは正反対の、甘い官能的な声色が色気を纏っていた。
ともしびという女は、その容姿より声色の方がずっと色気のある女だ。薄い唇から発せられる言葉は、妖艶な雰囲気をその身体に纏わせる。
助は痺れるような感情を抑えながら、地鳴りのように低い声で呟いた。
「やめろ」
「なんで?」
「そういうことはやめろ」
「なんでさ、助さん、わたしはあんたをどんだけ愛しているのか知って欲しいの」
「わかってる」
助はともしびの肩を抱き寄せた。
「そんな事はわかってる。だけど、お前の身体に傷がつくのは、俺はお前を失うよりずっとずっと辛い」
「……助さん」
「俺にはお前を身請けできない。だからお前の身請けが決まって、お前がようやく自由になれる事は、俺は喜ばなければいけない」
間男には間男らしい立場があるのだ。それを助は自覚していた。
「わたしが他の男のものになっても?」
「お前が他の男のものになっても、お前の自由こそがお前の望みだったろう、だったら俺はそれを喜ぶ」
まっすぐな目で助はともしびを見た。
助として、本心ではない。身請けが決まれば、ともしびと会えることは二度とないだろう。ましてやこうやって身体を抱き合う事は永遠とないのだ。
駆け落ちでもして二人で暮らして行く事も考えた。しかし、郭の外は生きて行くのに精一杯の生活ばかりだ。郭のように毎日畳の上で寝て起きる生活さえ、保証できやしない。
ともしびを身請けした相手を知った時、助は悔しくも安堵した。
「それが俺の愛だ」
そう言い終えてともしびの手を握った。少し不満そうなともしびの横顔があった。
他の男のものになって悔しいと、お前の全てを俺にくれと、がむしゃらに掻き抱いて欲しかったのだろうか。
だが、そうできなかった助には、それでも今のが精一杯の愛情表現だった。
**
「聞いたかよ」
作業場の若い衆が一服の合間に井戸の側にやってきた。
「遊郭の心中渡しの足がここまできているらしいぜ」
鑞作りの作業は熱が篭る。時々定期的に何人かが井戸に集まり水を飲む。そんなとき決まって井戸端会議が始るのはどこの時代も男女ともにあった。
「心中渡し?」
頭から井戸の水を被り、手ぬぐいで顔をまさぐっていた男が話に加わった。その後ろで、助は火照った手を水につけていた。左手指の関節炎を煩ってから、時々そうしているのだ。
「遊女達が男に愛を誓う為にやる行為だよ」
「それがどうしたってんだい」
「それがえげつないもんでさ、相手に自分の生爪や指を送るそうなんだと」
それ以外にも心中立てというものには、誓詞と呼ばれるものや、断髪、入れ墨などもあったが、世の興味はより痛みの伴う誓いをするという覚悟を見せる者ほど、その意思は大きいと関心を集めていた。
それ故に、それも出来ない女達は、地方の死人などから髪の毛や爪、指を買って相手に渡していたという。
その心中渡しの為の部位の売買人が、先日葬儀を挙げた村の家に夜半に訪れたのだ。
売買人は風呂敷から小判を数枚差し出し、これで亡骸の二本の指と交換してくれないか、と申し出たのだという。
墓荒らしなども横行している世に、売買人が直に訪れるのはある意味幸運でもあった。
その家の者は、売買人の申し出にどう応えたのかまではわからない。
そんな話をぼんやり聞きながら、助は自分の痛む指を桶の中で動かした。
やはり思うように動かないのは、薬指と小指だ。
黙っていても酷く痛む時がある。
「心中立てか」
独り言のように呟いて、助はじっと自分の指を見ていた。
「そこまでして、やっぱり身請けされてぇんだろうな」
誰かがそう言って笑った。
「そりゃそうだろうよ、いいところに身請けされるんじゃ指の一本二本なくなったところでなんとだろうかよ」
男達は重い腰を挙げると、誰と言わずにそれぞれの持ち場に戻って行く。
「おい、助。お前最近、木型を作っているそうじゃないか」
男の一人が立ち去り際に、助を見下ろした。
木型とは、鑞を流し込む型の事だ。
「ああ、ええ。一つ落としてヒビが入ってしまったんで、少し修繕しようとしてました」
気まずそうに助ははにかんだ。
「おいそりゃ、ちゃんと木型の職人に直してもらった方がいいぞ」
「ええ、でもほんの少しなんで直りそうなんですが、一度だけ試してそれから修理に出します」
**
助には迷いはなかった。
−−願おうと。
自分がどれほどともしびに惚れ込んでいたのか、どれほど本気だったのか。それがいつか伝わればいい。
それだけでいい。
そんな自虐的なまでに、ともしびは助の心を蝕むように占めていた。筒状に丸めた手ぬぐいをくわえると、これでもかというほど歯を食いしばった。
ザン
日暮れの部屋に音が響く。
ぐっと助の呼吸が荒くなり、右手に持っていた短刀を静かに床に落とした。きつく傷口を縛ると、落ちて転がった自分の小指の先を拾った。
ゆびきりげんまん。
巷の遊女の間で信憑的に流行していた、女達が恋に狂った見せしめにやる事を助はした。
きつく巻き付けた手ぬぐいの上から、更に布を巻き付けて助は町医者に貰っていた痛み止めの丸薬を水なしで飲み込んだ。
人間なんぞは指一本失っても死ぬるものではない。山では数多の仕事仲間が手足を失う怪我をしている。脈打つような痛みをぐっと堪えながら、助はそれでもやるべき事の為に腰掛けに腰を座り直した。
赤く熱した鉄を火ばさみで取り出し、小指に押し付ける。
「おぐ、うぐぐぐっ」
出血と感染症を押さえる荒治療をし、助は荒く息をついた。
想像していた以上の痛みが助の鼓動を掻き立てる。がたがたと両足が貧乏揺すりのように動きだし、今にも床を転がってしまいそうな衝動に駆られた。
ぐっと己の意思を鮮明にし、助は渾身の力で自分の身体を押さえつける。
涙が出た。
痛みに耐えれぬ涙か、それともともしびを失う哀しみの涙か、ともしびを奪われた悔し涙か。
天井を仰ぎ見て、助は銜えていた手ぬぐいをこれでもかと噛み締めた。
今、誤って小指を落としたという理由だとでもいって、町医者に駆け込む気は助にはさらさらなかった。
燭台をみっつ手前に引き寄せ、この日の為だけに拵えた木型に鑞を流し込む。もう二度と使う事はないだろうその木型は、助の小指を収める為だけに、型を幾分太くした蝋燭の木型だった。
痛みの向こう側に、ともしびの横顔が浮かぶ。
心中立ての申し出を断り、身請けの話すら喜んでみせた自分に対する、不満そうな女の横顔だ。
(俺の想いは決して嘘ではない--愛していることは嘘ではない)
それを証明したかった。
だが、それを今のともしびに伝えようものなら、彼女はきっと情死や駆け落ち等を企てるだろう。ともしびには、そういう異常な情熱さがあった。
だから敢えて助は堪えた。
ともしびを遊郭から身請けしてやれる程の財力がない自分が出来る事は、なにもない。
だが、自分の想いが嘘偽りではなかったという事だけは伝えたかった。
いつか、いつの日か。
そう願って、助は自分の心中立てを蝋燭の中に潜めた。
ともしびに贈る最後の和蠟燭だった。




