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琥珀がゆっくり目を開けると、やわらかい風が揺らすレースのカーテンが目に入った。
同時に懐かしい香りが意識をくすぐる。この香りは何だったのか、まだ目覚めて間もない意識の中で、琥珀は瞼の裏に莉子の姿を見た。
またしても莉子の残像だ。いつだって沼地の暗い闇の向こうに莉子の姿が見える。
微睡む意識を少し押さえ気味に、琥珀は横を向いて驚いた。
思いがけず真横に莉子の顔があったのだ。
「……お、おはよう」
ふいに口から出た言葉があまりにも平凡すぎて、琥珀自身でも間抜けに思ってしまう。
「おはよう琥珀さん」
莉子は少しげっそりした顔で、それでも笑顔を見せた。それがとてつもなく眩しい。
「琥珀さんさっきの事、覚えている?」
遠慮気味に莉子は琥珀の言葉を待つ。あんな事があったのだ、覚えていても覚えていなくても気の毒に思えた。
「……ともしびの記憶がみっちり入って来て、全て覚えているよ」
頬を真っ赤にして朧げに涙ぐむともしびの最後の顔が、琥珀の目頭に浮かんだ。いつも妖艶にどこか傲慢な色を乗せて微笑していた女の、最期の顔だった。
「じゃあ、瑠璃姫さんの事も覚えているのね」
「……うん」
「よかった」
「よかった? ……どうして?」
「だって……ううん、何でもない。でもよかった」
琥珀と瑠璃の間に、目には見えない絆がある。確かではないけれど、莉子にはそれを感じた。改めて琥珀にそれを問うほど野暮でもないだろう。
不思議そうな顔で見つめる琥珀を見ていると、莉子はどっとした疲れをようやく感じた。思えば一睡もしていない。自分は全く時間の経過を感じていなかったのだ。
窓を見やれば夏の朝らしい日差しが木の葉を抜け、窓辺に注いでいた。朝の空気は心地がいい。
長い一晩だった。
重い睡魔が津波のようにやってきて、莉子は思いきりため息をついてみた。
長く長く、安堵のため息。
「どうしたんだよ」
おとなしく俯いている莉子を横目でみやって、琥珀はため息まじりに聞いてみた。
「お腹空いちゃった。それにとっても眠い」
「……こんな事に付き合わせてしまって、悪かったと思ってる。後は喜和子さんに頼んで今日はもう少し寝た方がいいよ」
そう言って莉子をみやると、当の莉子は琥珀のベッドに頭を伏せて静かに寝息を立てていた。
柔らかなフローラルの香る長い髪がベッドに流れる。
(……いい香りだ)
その美しい髪を触ってみたい衝撃に駆られる自分への、嫌悪感と罪悪感が押し寄せる。それらに苛まれながらも琥珀の手は静かに伸ばされて行く。
頭部から流れゆく毛先の一端を、人差し指で静かに触れてみた。
「!」
電流のような衝撃を受け、琥珀は反射的に差し伸べた腕を引いた。莉子のストラップを拾った時とは違った衝撃だった。
何が見えたわけではない。
あるいは琥珀自身が、それを見ようとしなかったからか。眩い光が脳裏に行き渡り、琥珀の心の闇を消し去ろうとするかのように満たす。
(なんだ、いまのは?)
恐怖はなかった。ただ、強い衝撃だ。痛みというものでもない、ただ凄まじいばかりの衝撃が肌を抜けて骨髄まで染み渡り、琥珀の全身に行き渡る頃には、柔らかな心地よさに変わっている。
何かとてつもない波動。
(……これが、ソウルメイトというのか?)
自分にとって特別な存在である少女。
目の前で柔らかな寝息をたてている莉子に複雑な心境を覚えたまま、琥珀は悩ましげに頭を項垂れた。
わかっていた。
初めて莉子のストラップに触れたときから。
まじない仕掛けの歪なストラップからは、彼女の切なる願いが籠められていたのだろう。
溢れ流れてきた想いは、年上の男性に対する憧れ。
恋心。
淡く切なく、どうしようもない、夢のように儚くも確かなもの。
霞むような靄の中で、パステルカラーの空気が色とりどりに流れゆく。
その人をもっと知りたい、理解したい。そういう好奇心が沸き立っていた。
相手は、おそらく路旗だ。
そしてそれを知った琥珀自身は--。
どうだろう。
--莉子を、好きなのだろうか。




