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琥珀−木蝋燭編−  作者: 蔦川 岬
18/27

−2

 *


 この時ばかりはいつもと違っていた。

 何の前触れもなしに、ともしびが琥珀の前に現れたのだ。いつものように、温い風に乗って、ゆらゆらやってはこなかった。

 瞬きひとつした瞬間、ともしびが目の前にいたのだ。

 どこか逸脱した妖婉さを纏って、琥珀の真横にともしびは横たわっていた。

 鼻と鼻が触れそうなほど近くにともしびがいる。

 少し位置をずらせば、そのまま唇が重なるだろうという恐怖すら遠のく程に、ともしびの蒼い光を孕んだ瞳は琥珀を縛り上げた。


 ともしびの息づかいが聞こえる。

 口から漏れる吐息は腐臭でもなければ悪臭でもない。甘い金平糖のようでもあるし、穏やかに咲き乱れる桜の花の香りのようでもある。

 吸い寄せられるような透き通った肌に、漆黒の髪がさらさら揺れた。まるでその者は生きているかのように、今まで以上に生気漲った美しさであった。

 

 目の前に、ともしびがいる。

 いつになく、いつもより、うんと近くに。


「あなたが愛しいわ」

(あ…………)

 琥珀は声を上げることもできず、次第に実体を帯びたともしびの指が身体を這う感覚に戸惑っていた。

 戸惑いながら、心地が良い。

「このまま、ねぇ、いっしょに行こう」

 細い指先が琥珀の首筋を伝い、頬をなぞり唇に触れた。

(あ………)

 ともしびの指先が通った場所が、ひんやり冷え始めた。肌が冷たくなっていく。胸元から這い上がった五本の指は首筋を絡めて琥珀の頬を包んだ。

 そこそこが酷く冷たく感じる。肌が凍っているのかと思うほどに。冷たい感覚はじわりと肌から骨髄に浸透し、身体の一番深い所に集まるかのように琥珀の内部に染込んでいった。

(死ぬのか……俺は……) 

 抗えぬ琥珀を、ともしびはじっと見つめている。身体の感覚が薄くなり、やがて自分の鼓動の音が耳に殷々と鳴り響いた。

(死ぬ、のか…)

 美しいまでのともしびの姿がぼんやりと見え、代わりに部屋の風景が見えた。

 部屋の入り口が視野に入った瞬間、琥珀は心臓が止まるかと思うほど動揺した。目の前に自分の命を狙おうとする怨念がいるというのにだ。


 冷え冷えとした黒い霧までが、一瞬動きを止める。

 蒼く滲んだ闇の中に、白いワンピースの裾が見えた。

 どこからともなく吹く風は、ともしびの念が押し出している空気の流れ。それに合わせてワンプースの裾が波打つ。

 長い髪が闇の中でさえ尚、七色の輝きを携えてゆらりゆらりそよめいていた。

「……る、瑠璃」

 唸るように琥珀はそこに立つ少女の名を呼んだ。

「どうして……ここに……」

他人ひとの事より、自分の事を理解しなさいよ」

 つっけんどんに言い放ってから、瑠璃は目を細めて琥珀の上に渦巻いている黒い霧を見据えた。

 黒い霧の中に、確かに居る。

 蒼いヒトガタの女の念。

「わぁ、ほんとうに可視化しちゃっているのねぇ」

 瑠璃は琥珀の斜め上を見据えたまま、抑揚のない声色で呟いた。


 ともしびの視線が扉の前の瑠璃をゆるりと捉えた。

「どこのあばずれだい?」

 穏やかだったともしびの顔に、今宵の楽しみを邪魔された不機嫌さが浮かんだ。

 明らかに部屋を取り巻く空気が変わったのに対して、瑠璃は顔色一つ変えずにじっとともしびを見つめている。

「わたしにはわかるよ、あんたは相当なあばずれだ」

 ざわりと髪を逆立てたともしびは、突然の訪問者である瑠璃に鋭い視線を落とす。ゆらゆらと宙を浮く黒い髪は、黒い霧となって部屋の中に充満した。

「靖彦さん」

 突然瑠璃は声を上げて後ろに控えている路旗を呼んだ。

「なんだい、瑠璃姫」

 路旗も路旗で、目の前の状況に似つかわしくないゆったりとした口調で返す。

「あばずれって、どういう意味ですかぁ」

「うーん、品行が悪くて、厚かましい人のことかな」

 路旗は答える。

「それってどっからどう汲んでみても悪い表現?」

「うん、よろしくないね」

「ふぅん」

 何か考えこんだように瑠璃が一瞬視線を落とす。そこから、ともしびに対して最初の一言を発する僅かな合間、瑠璃の白いワンピースの裾が空気を含んだように脹らんだ。

 瑠璃の放つ気が、足元から湧き出ているのだ。

「あなた、私の何が視えるの?」

 普段のハスキーさに幾重と重圧が掛かった声が、瑠璃の喉からするりと出る。途端、ともしびを取り巻く空気が氷のように凍てついた。

 瑠璃の口から出た言葉が文字の帯のようになって、ともしびに纏わりついた。

 そのエネルギーは大きかった。見えているのか見えていないのか、路旗は部屋の入り口でじっと目を細めて瑠璃と琥珀を見守っている。

「あんた見てくれはまだ幼子だけど、中身は随分なあばずれだね」

 目に見えないエネルギーに気圧される事なく、ともしびは薄ら笑った。

「だからどうしたっていうの」

 鋭い目線のまま瑠璃は静かに続けた。

「霊魂でもなんでもないただの念の分際で」

「……念?」

 やや間があって、ともしびに一瞬の気の緩みがあった。

「……念とな……」

「他人の事は知ったかぶって、自分の事は何もわかっていないのねぇ」

 ともしびの緩んだ気の隙間に一筋の光の帯が入り込んだ。--瞬間、壷の中に入り込んだ蜂のように、光は数多の輝く針となってともしびの周りを取り囲んだ。

 一瞬の出来事である。

 まばゆい黄金の光がともしびを包み込み、そして大きく弾けた。

「く、く、く」

 残光の残る空間の中で、ともしびは己の身体がほろほろと崩れゆくのを悟ると、もの惜しそうに琥珀に向かって手を差し伸べた。

「わたしの魂はどこにいった? わたしの身体はどこにいった?」

 まるでわらべ歌のように、ともしびの唇は言葉を綴る。

「わたしは、ただ……。ただ……」

 抱き込むように腕を伸ばし、ともしびは琥珀の上に覆い被さった。

「わたし……は……」

 琥珀の意識があるのかどうかは判らない。その姿はただ仰向けにじっと宙を見つめているだけだ。

 部屋の前に居る路旗を見つけた莉子は、部屋を覗き込んでその有様を目にした。

 眩い光が琥珀の上にある。 

「……わたしは……だれ……」

 ともしびの声にならない言葉が途切れると、瑠璃の放つ気が濃くなった。

「最後まで足掻くんだね、ともしび」

「わたしは、この男が欲しいのよ……欲しい……ほしい……ほ…しい」

 光の中で呻くようなともしびの声が、次第に嗄れて低い地鳴りのようになる。

「ほしい……ほし、い…ほしい……ほしいだけ……ほし………」

「兄をあなたには渡せない」

 黄金の鎖がともしびの足元から放線状に花開き、輝くばかりの光の粉を纏ってともしびを飲み込もうとしている。まるで大きな金色の蓮の花のようだ。

 ともしびはその黄金の光に包まれてもまだ、花の中央で鈍い淀んだ青い念を消してはいない。

 瑠璃の持つ気が、そのままともしびを縛り尽くそうとしたその時。

 鎖の間から布の様な腕が伸び、その腕は琥珀の襟元をしっかり掴んだ。

「はな、さ、ない」

「駄目!」

 ともしびに吸われるように浮き上がった琥珀の身体を見て、莉子は咄嗟に部屋に飛び込んで彼の腕を掴んだ。

 その瞬間、微睡みの意識だった琥珀の中で形のない爆風が吹き荒れる。


 

 

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