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少し開けた窓から、温い風がのっそりと入って来た。
その風はゆらゆらと部屋を一周し、琥珀の側に忍び寄る。
温い風は夏の夜風だ。
そして、ともしびが訪れる前触れでもある。
怖くはなかった。
琥珀自身でも驚くほど、ともしびという怨念は恐怖を与えない。その反面、酷く憎悪感を感じるのだ。
理由は琥珀にはわからない。
ともしびに対してなのかそれとも--自分に対してなのか。
ぬるりと、ともしびはその日もやってきた。
床を這いずるようにベッドの側まで近づき、それから一気に天井まで上昇する。そうして、いつものように上から琥珀を見下ろすのだ。
よく世間で言う女の幽霊というおどろおどろしい風貌ではない。結った髪はしっかり束ねられて着衣の乱れもなく、その上どこか色っぽい色情を含んだ目線で琥珀を見つめる。
そうして柔らかいねっとりとした声で囁くのだ。
「愛しいねえ」
「何がだよ」
そう毒づくのは琥珀だ。
「あんたの存在よ」
ともしびは応えてくれる。
「助さんという男の事はもう忘れたのかよ」
「……助さん」
「想い人だったんだろう」
「そうよ、でもあの人はもういない」
「だからってそんな容易く鞍替えでもしてりゃいいのか」
ともしびの想いはそんなものか、と言う直前に、琥珀はひんやりした冷気を唇に感じて口を閉じた。
ともしびの細い指が、そっと琥珀の唇に触れたのだ。
「さみしいの」
目の前のともしびの顔は苦痛に絶える表情にも似ていた。
「さみしいの、ただ、さみしいの」
この身が寂しいのだと、ともしびは嘆いた。
誰かに触れていたい。触れられていたい。
誰かに思われていたい、思っていたい。
ただそれだけなのに、それすらもできない。
「愛しい人はもういないわ」
ともしびの空気がゆっくり琥珀を離れた。
「私は心だけ置かれていった」
「……助さんに?」
琥珀は静かに訊いた。
温い空気がふわりと窓から入ってくる。
その瞬間にふっと、琥珀を取り巻いていた蒼く冷え冷えとした空気の層が離れた。
(いいえ、わたしに)
ともしびの声が鼓膜に木霊する。
そして、一瞬の静寂。
ともしびの気配はすでになかった。
風鈴の音が聞こえた。
レースのカーテンがふんわり揺れた窓の外は、藍色の夜が広がっている。
琥珀はゆっくり起き上がり、窓辺に腰を掛けた。
月明かりが参道を照らしている。
その仄暗い月明かりに照らされた石畳に、僅かばかりの月光が木々の葉を抜けて木漏れ日のように落ちていた。
日中の木漏れ日とは比べ物にならないほどの微かな明暗。この世には闇より深い闇があり、それよりもっと深い闇がどこかに存在しているかのような不安さを覚えた。
そして琥珀は初めて、心の奥に広がる静かな寂しさを共感したような気がした。




