人肌−3
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時は子の刻。
一概の遊郭といえど、江戸の吉原とは規模も格も似てはおらず、ともしびが居る郭は明かりがぽつぽつと灯る宿場外れにあった。
遊郭は黒々とした山々に背後を囲まれている。
宿場や湯治宿と遊郭を隔てる小川には、源泉から流れ出た湯が川の水と交わり合い、朝も夕も湯気をあげていた。その立ち上る湯気が特に夜分になると、宿場の大通りから見ると狐火のような妖艶さがあると、いつからか〔お狐処〕等と呼ばれていた。
名前にあやかって、郭の入り口には朱の鳥居があり、小さな稲荷が祀られていた。
遊女が郭を抜け出すのは本来認められてはいなかった。
だが、お狐処の遊女達は自ら望んでここに来た者が多い故、世の遊郭のような厳しい見張りなどとは縁遠かった。
貧しい農村が多かった時勢、襤褸切れのような布を纏う世界からみれば、お狐処で華やかな着物を着る遊女を憧れの目で眺める女子も多かった。
今宵も一夜を共にする相手がいなかった遊女の影が数人、郭をするりと抜けて稲荷の社に一例する姿が月明かりに浮かんで見える。
近隣に湯治の出来る宿場街があるせいか、これほど深い山間にあってもなお、人は遊女以外にもちりぽりと目立っていた。
今宵、ともしびは一通りの仕事を終え、火照った肌を水浴びで収めていた。
藍色の夜空に白い月がぽっかりと見える。
木塀の向こうをケタケタと下駄を鳴らす音が聞こえると、沁みるように鈴虫の羽音が耳に入って来た。
夜風は残暑の温さを纏って、ともしびの濡れたうなじを通り抜けた。
ふいに昨夜の出来事を思い出す。
「お前、自由が欲しいなら、自由をくれてやろう」
岸原松衛門は、江戸に家を置く武家の嫡子だった。脚気を患った祖父に同行して年に何度か湯治にこの地を訪れていた。何度目かの冬に、松衛門は湯治宿の紹介でお狐処に足を伸ばし、そこでともしびと出逢った。
松衛門は至極ともしびを気に入り、湯治の際は毎回といっていいほどお狐処に通うようになった。
そんなある日、着衣を羽織ったともしびのうなじにそろりと指を這わせ、松衛門はその後ろ姿に囁いた。
「自由?」
言葉の意味を探りながらともしびは松衛門を振り返った。
助の店から卸している和蠟燭の灯籠がふわふわと明かりを宿す中、ともしびは松衛門という男の崩れたような柔らかい微笑みに目を奪われた。
「お前を身請けしよう」
「悪い話ではないだろう」
ほぼ全員といっていい程の人が、松衛門からの身請け話をともしびから聞いた後に返した言葉だ。
「江戸の遊郭でもあるまいし、こんな身請け話なんて、なんて光栄なこったい」
とりわけ喜んだのは郭の亭主だった。
「ともしびさん、すごいわぁ」
「身請け引き受けるんだろう、なんだなんだもう会えなくなるのかいな」
羨望と口惜しがる声がとぼしびの四方八方から取り囲んだ。
なんだか心地いいわ。
一瞬、脳裏に現れたのは助の無垢な顔だった。感情をいつも煮え切らないような表情に乗せて、それでいてどこか少年らしいまっすぐな面差しでともしびを見ていたその顔。
助の顔が、ともしびの心の隅にふっと現れて、ふいに消えた。その一瞬だけ、ともしびは例え様のない胸の締め付けを感じたのだったが、すぐに周りの声が引き寄せる快感に飲み込まれていった。
まるで吉原の花魁のようだわ。
郭中の遊女たち、ともしびに通った男たち、他の遊女の男たち、遊郭と取引のある商人たち。
誰もが羨ましがり、珍しがり、次々にともしびに声をかけた。
老若男女、宿場に訪れていた湯治客や旅人まで、お狐処に足を運び、ともしびのこの上ない幸せそうな顔を眺め口々に褒め讃えた。
これほど人々の視線と歓声を一身に浴びた事などあるのだろうか。
嗚呼、心地いい。すごくいい。
身請け話から七日後、江戸に発つ日を前に、ともしびは承諾の返事を松衛門にした。




