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三十 離れるな

 千珠がふと目を覚ますと、辺りは既に真っ暗だった。大分長く眠っていたらしく、すっかり夜も更けている。



 千珠は喉の乾きを覚えて、ゆっくりと起き上がる。

 ぼうっとした頭を覚ますためにも、冷たい水を頭から浴びたかった。

 立ち上がって人気のない城の中を歩いていると、轟々と降っていた雨がやんでいることに気付く。

 虫の声が響き、暗がりの中、屋根から水が滴る音も聞こえてくるような、静かな夜だ。



 千珠は冷たい木の床を音もなく進み、井戸で水を汲んで飲む。更に千珠は衣を全て脱ぎ去ると、頭から冷水を浴びた。

 意識が一気に冴え渡り、どこか淀んでいた自分の心持ちが凛としてゆくのが分かる。

 深く息を吐くと、細胞のひとつひとつが、息を吹き返す様な気がした。



 ふと、爪の間に血がこびりついているのを見つけ、どきりとする。そうして両手を見下ろしたときに、引き千切れたはずの数珠が手首に巻き付いている事に気づく。

 紅い珊瑚と共に、見慣れぬ水晶が織り交ぜてある。以前宇月が千珠に見せたものだ。

「あいつ……」

 きっと宇月は、道場から珊瑚の欠片を拾い集め、糸を通して再び数珠を作ってくれたのだ。



 千珠はもう一度水を浴びると、獣のように頭を振って、長い銀髪から水を振り払う。手についた血も洗い清める。



 舜海の顔が、見たいと思った。

 きちんと礼と侘びを言いたかった。



 千珠は衣をまた羽織ると、帯を締めて舜海の部屋に向かう。



 ✿



 舜海は、眠っていた。

 顔の腫れは少し引いており、目元の湿布はもう取り外されていたが、着物の襟口から覗く胸元に巻かれた白い晒しは痛々しい。

 千珠は枕元に座り込むと、暗がりの中で舜海の寝顔を見つめる。

「無茶をさせたな……」

 千珠がそう呟くと、舜海はゆっくりと目を開いた。そして、微笑む。

「何や、接吻でもしてくれるんかと思ってたら、見てるだけか」

「起きてたのか」

 千珠が驚いていると、舜海は顔をしかめつつ、ゆっくりと身体を起こす。そして、枕元の行灯に火を灯した。




「俺もずっと寝てたからな、いい加減眠れへんくなってきてたとこや」

「舜海、すまなかったな、無理させて……」

「何言ってんねん。お前が謝るなんて気色悪いわ」

「……ふん」

 舜海はいつものように明るい。千珠は、それに少し心が救われる想いがした。

「それに、お前は何も気にせんでええからな。今回のことは、全面的に兼胤が悪い」

「そう……だな」

 ふと、兼胤にされたことが身体に蘇り、ぞっとする。千珠は思わず右手で自分の身体を庇うような格好をした。



「何かされたんか、あいつに」

 舜海は険しい表情になってそう尋ねた。

「ちょっと体中舐め回されただけだ」

「……十分あかんわ」

 舜海は手を伸ばして、千珠の頬を撫でた。千珠が目を上げると、舜海の気遣わしげな目線とぶつかる。



 兼胤に触れられたときはあんなにも怖気がたったのに、舜海に触れられるのはとても心地良く、落ち着く。千珠は眼を閉じて、その手に自分の手を添えた。

「……暖かい」

「何やお前、びしょびしょやないか」

「ちょっと水を浴びてきたから」

「そんな格好でいたら、風邪ひくぞ」

 舜海は自分の羽織りを脱ぐと、千珠の背中に引っ掛けた。温もりの残る衣が千珠の冷えた身体を包み込み、ついでに心まで緩めてゆく。



「舜海……宇月が言っていた。俺がお前を求めるのは、お前が俺の気を高めることができるからなんだそうだ」

 千珠は、宇月の話を舜海に聞かせた。舜海は、真剣な表情で、何も言葉を挟まず聞いている。



「だから、俺たちの関係は、自然なことなんだそうだ」

「へぇ……」

「だから……俺から離れようなんて、思うな」

「え?」

 千珠は、迷子の子どものような不安げな表情で、舜海を見つめた。舜海はどきりとして、千珠を見る。



「お前は俺にとって、必要なんだ。だから俺の前から居なくなろうなんてこと、考えるな。お前はいつでも、俺のそばで馬鹿なこと言ってりゃいいんだ」

 最後の方は、泣き声に近かった。みるみる、千珠の目が潤み、大粒の涙が頬を滑り落ちる。舜海はそんな千珠から目が離せなかった。

「千珠……」



「だから、離れるなんてこと、言うな。どこにも行くな」

 小さな子どものように、涙を流しながらそう訴える千珠を、舜海は思わず抱きしめていた。千珠はしゃくり上げて、舜海にしがみついて泣いている。



「馬鹿のくせに、小難しいこと考えるな。抱きたい時に俺を抱けばいいんだ」

「ああ、そうやな……不安にさせたな。すまんかった」

 千珠の泣き声が舜海の胸に直接響いてくる。そして、千珠の孤独への不安も。



 それを感じながら、舜海もまた安堵していた。千珠を失わなくていい、千珠も自分を求めているのだと。



 いつか、お互いを必要としなくなる日が来るまで、ずっとこの細い背中を護っていようと思った。



 この美しい獣を。



「変なこと言って、悪かった」

 千珠の頭を撫でながら、舜海は何度もそう言った。そうしていると、千珠の呼吸が少しずつ落ち着き、真っ赤に泣き腫らした目が舜海を見上げる。



 か、可愛い……。



 舜海は、沸き上がってくる欲望をどうにか堪えた。今はそういう場面ではない、と理性を働かせながら。



「ほんまやで。お前はほっとくと、何をしでかすか分からへんからな」

「……」

 千珠の目元を親指で拭ってやると、安心させるように笑顔を見せた。

「だからそんな目で見るな、我慢できへんくなるやろ。場所が場所やし……」

「あ、そうか」

 千珠ははっとして、舜海から身体を離す。取り乱したことを、少し恥じているような表情である。

 


 それを見て舜海は無意識に呟く。

「……お前、ほんまに可愛いな」



 千珠はぴくりと顔を強張らせ、何か不気味なものを見るような眼差しを舜海に向けて、言った。



「薄気味悪いことを言うな」



 そんな反応を見て、舜海は吹き出す。

 そして、もう一度千珠を抱き寄せた。

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