僕が旅に出なければいけなくなったわけ――― ニノとタイチ
僕が旅に出なければいけなくなったわけ――― ニノとタイチ
この坂の上に僕の元恋人二ノのカフェ兼自宅がある。
僕は勢いよく道を駆け上がって、門をくぐり店の正面から入った。素早く店内を見回すと、彼女はキッチンの奥にいる。カウンターのいすに座り込みながら上がった息を整えて、そして彼女の顔を見ると肩の力が抜けた。
けれど僕はもうニノと何もなしに話すわけにはいかないのだ。彼女の表情を読み解くのが怖い。
「逃げてきたんだ。」
まだ少し荒い呼吸のままそれだけ言って、ニノが何か言う前に付け加える。
「コーヒーをくれないか?」
「アイス?ホット?」
「アイス」
しばらくして彼女が差し出したコーヒーを受け取って一息に半分ほど飲みほしてようやく僕は落ち着いた。ニノは冷静に僕のことを観察している。
「逃げるのは得策じゃないわ。」
僕は久々にニノの声を聞いて泣きそうになる。
「得策どころか、最悪だよ。」
走ってここまでやってきたんだ。朝からほとんど何も口にしていない。
「軽いものでいいんだ。何か作ってくれないか?パンでもおにぎりでも。軽食で構わないから。」
「コーヒーのおかわりは?」
「もらうよ。」
ニノがキッチンへ戻ってようやく僕は自分の馬鹿さ加減に気づいていた。逃げてきたなんてろくでもない。ニノの言うとおりだった。
彼女はまだ僕に話しかけてくれるけれど、そんなの何も事態を好転させるわけじゃない。
ニノの作ってくれたサンドイッチにかぶり付いてどうにか涙をこらえていた。本当に自分は情けない人間だ。元恋人のところに押し掛けたりして、これを食べ終えたら自分はいったいどこへ行けばいいのだろう。ニノはこれ以上僕と話してくれない。それも当然だった、別れたのだから。
ハムとチーズとトマトとレタス、そう言えばこのサンドイッチを初めて食べさせてもらったのは僕だったのだ。学校の調理室で彼女と僕は互いに照れて・・・。
ニノはもう顔を見せてくれなかった。店を出て僕は茫然と道に立ち尽くしていた。追手が来ないということは知っていた。だからといってそれでどうなるわけでもないのだが。
*
タイチの家に行ったのは何か計画があってのことじゃない。結局のところ何もすることが無くなったらみんなタイチの家に行くのだ。少なくとも僕ら5人の仲間内ではそういうことになっていた。そして僕の今の状況を鑑みても、うかつに繁華街になんて出るよりはそれが一番最良の選択であるといえた。
タイチは掛け値なしにいいやつだ。世話好きだし、家にやってきた人間を追い返すこともない。取りあえず今晩はタイチの家にいけばいい。それで明日のことは明日考えればいいだろう。
タイチの家はこの辺でも一番辺鄙な場所にあることで良く知られている。ここから歩けば急いでも2時間以上は掛かるだろう。なんだってタイチの両親はあんな場所に家を建てる気になったのか?――別に僕は知らなくてもいいことだが。
だれも通らない農道をひたすら自転車をこいではしる。タイチの家はずっとこの先の小さな山の下にあるのだ。こんな所からあいつは良く毎日学校に通っているものだ。今日なんてトラクター一台見掛けない。
「タイチいるかー?」
「ん?あー、ユウキか。ちょっと待ってくれ。」
ばたばたとでてきたタイチは機械でもいじっていたのかペンチを握りしめたまま窓から顔を出した。
「ユウキ久しぶりだなー。」
「昨日学校であっただろ?」
そうかーなんて呑気に笑うタイチに勧められるまま家に上がると相変わらずタイチの部屋は汚かった。
がらくたが散乱したその中に入る勇気がでなくて取りあえずリビングのソファーに座らせてもらう。
「ちょっと待ってろよー。俺が世界一うまいコーヒー入れてやるから。」
ふっとニノの顔とカフェでの会話がよぎって僕はうめいた。
「あ、悪いけど、僕のは紅茶にしてくれ。さっきコーヒーは飲んできたんだ。」
「お前またニノのところにいってきたんじゃないだろうな。うらやましいやつめ。」
「ニノとは別れたって教えただろ。どうしてそうなるんだよ。」
じゃあどこで飲んできたんだ?不貞腐れたタイチに僕は返す言葉もなくて。
「ほらみろ、やっぱりニノのところで飲んできたんじゃないか。」
意外に鋭い友人に僕は早々と降参しておく。
「久々に会ったニノに怖い顔されてさ、お前のところに逃げてきたんだよ。」
タイチの“俺特製ブレンド”の紅茶は単にティーバッグで入れた安心のおいしさだ。
「そうか、タイチ様に癒されにきたのか。しかたねぇな。今日は両親いないから無礼講で構わないぞ。」
ともかくいつもよくわからないテンションの友人の下にまで辿り着いたことで僕は心底安心していた。どうせならここに住まわせてもらいたいくらいだ。無理だとわかっていても余計なことは考えたくない。一体どうしてこんな目にあっているのか。
二人で大騒ぎしてインスタントラーメンを作って、タイチがなんでも入れるから鍋みたいになったそれを食べながら深夜まで映画を見た。
タイチはどうやら収集がつかなくなるほど汚くなった自分の部屋を見捨てて寝るときはリビングのソファーで寝るらしい。僕もソファーの下に布団を敷かせてもらって横になる。
「明日から学校だな。やだなぁ。毎日日曜だったらいいのに,な。」
タイチがいつものごとくぼやくのが頭上でうっすらと聞こえる。今日はいろいろあって疲れた。なんにせよ、安心して眠れる場所まで辿り着けてよかった。今朝なんて・・・いや考えないで置こう。
瞼を閉じた僕はすっかり寝る体制に入っていた。今日寝れば明日はもう少しましな考えが出てくることを祈ろう。そうするしかない。ぼんやりとした思考の中で、考えられることなんて・・・
「で結局どうなんだよ?」
急にはっきりとした語調になったタイチに僕ははっとさせられた。あぁ聞かれないはずなんてないのだ、いくらのタイチでも。
「どういうことも何もないって。別に僕はいつもと変わらない日曜日を過ごしたぞ。」
そうだ、いつものことじゃないか。朝から家の前で張っていた地元の不良どもに追われて、やっとの思いで行きついた元彼女にまでそっぽを向かれてむざむざと友人に泣きついて、よくあることじゃないか。そう、いつもと変わらない。毎日僕はこんな生活を送っていますが、なにか?・・・タイチに言えるはずもない。
「はぁ、お前ってほんとトラブル体質だよな。ニノにしたって。・・・俺に全部話せとは言わないけど、かなりやばいんだろ?詳しい事まで知ってるわけじゃないけど、みんなそのくらいわかってるぜ。」
確かにそうだろうな、そこまで考えつかなかった、というよりも考える余裕のなかった自分に改めて言いようのない不安を感じる。タイチに言われるまでもないことだ、普段だったら。
「あーもう、・・・心配掛けてすまないな。・・・正直にいうよ。かなりやばい。明日の学校どころじゃないって。」
そう言って笑って見せた僕にタイチは笑い返さなかった。
「・・・お前ここを離れてちょっと旅に行って来い。」
「へ?なんだよ藪から棒に。」
「だから、お前少し旅に出てこいよ。この町を出てさ。ちょっと都会にでも顔出してこい。」
「急に何言い出すんだって?いくらニノに振られたからって失恋旅行でも勧めてるのか?・・・僕だってそこまでやわじゃない。」
「やわとかそんな話ししてるんじゃないぞ。とにかく明日は出立だ。俺が全部準備してやるよ。まかせとけ。」
なにやら勝手に決心したらしいタイチは既に僕のことなんてお構いなしに明日の計画をぶつぶつとタイチらしからぬ真面目さで呟いている。まさか本気ではないだろうな?いやいくらタイチが僕をどこか遠くへやろうとしていても単に僕が行かなければいいだけの話で・・・そうだタイチのことだ、どこまで本気かなんてわかったものじゃないだろ?
ソファーに寝そべるタイチの声は次第に寝ぼけたように小声になって僕も頭の痛くなるような一日の締めくくりに友人の突飛な提案を聞かされて、これ以上何か頭で考えるのは容量を超えている。取りあえず寝よう。すべてはそれからだ。