第七話 なぜあいつを
翌朝、レインは団長室に呼ばれた。
部屋は狭かった。騎士団長の執務室にしては、驚くほど狭い。机がひとつと椅子が三つ、あとは壁一面の地図だけだ。
バルド・ガイエンは、机の向こうで書類を読んでいた。
「アルディス、来たか」
「はい」
「座れ」
レインは座った。
バルドは書類を置き、両手を組んだ。組んだ手の甲に、古い傷が何本も走っていた。
「調査隊に入ってもらう」
「はい」
「即答するな」
「……はい」
「一度、断る機会をやろうと思ったんだが」
バルドは、少し笑った。
「無駄だったな」
「申し訳ありません」
「謝るところでもない」
彼は椅子を軋ませて、背をもたれた。
「編成を言う。総勢七名。少ないと思うか」
「少ないです」
「そうだ。少ない」
バルドは認めた。
「だが、これ以上は出せん。北東の八駐屯地は今、どこも手一杯だ。王都の守りも薄くできん。七名で行って、七名で帰ってくる。それが今回の任務だ」
「戦闘は」
「避けろ。これは調査だ。何がどうなっているかを見て、帰って報告する。それだけでいい」
「討伐は」
「するな」
バルドは、はっきりと言った。
「村が襲われていれば助けろ。だが、魔物を探しに行くな。お前たちは剣ではなく、目として行く」
レインは頷いた。
「編成だ。指揮はお前」
「……私が、ですか」
「不服か」
「二十歳です」
「知っている」
バルドは、机の上の紙を滑らせた。
「理由を言う。ひとつ、お前は辺境報告の数字を全部頭に入れている。現地で数字と実物を突き合わせられるのは、この団でお前だけだ」
「……」
「ふたつ、お前は逃げ方を教える男だ」
レインは、顔を上げた。
「西街道の話は聞いている。子どもに逃げ方を教えたそうだな」
「……はい」
「調査隊の指揮官は、それでいい。突っ込む男に指揮させたら、七人とも帰ってこん」
バルドは、紙をもう一枚滑らせた。
「残る六名。魔導兵団から一名、救護班から一名、本隊から三名、そして記録係を一名」
「記録係?」
「調査だからな。見たものを書き留める人間が要る。剣を振る人間に記録は書けん」
レインは、紙を見た。
名前が並んでいた。
魔導兵団第二——ルクレール、フィーナ。
第三救護班——ミラ、ノエル。
その下に、本隊から三名。ひとりはヴェルクの下にいた古参の騎士、あとの二人は名前だけ知っている中堅だった。
最後の一行が、空白だった。
『記録係——』
「記録係は、まだ決めておらん」
バルドが言った。
「文書課から二名ほど候補が上がっている。どちらも真面目な男だ。だが辺境まで馬で往復半月の道を、事務屋が保つかどうかは俺にもわからん」
レインは、その空白を見ていた。
見ていた時間は、五秒ほどだった。
「団長」
「なんだ」
「推薦したい者がいます」
バルドの眉が、わずかに動いた。
「言え」
「王都第七詰所、ユート・カルヴァン」
部屋が、静かになった。
バルドは、しばらくレインの顔を見ていた。
「……聞かん名だな」
「同期です。学院の」
「成績は」
「最下位付近です」
「剣は」
「使えません」
「魔法は」
「使えません」
「馬は」
「乗れます。それだけです」
バルドは、机に肘をついた。
「アルディス」
「はい」
「お前、俺をからかっているのか」
「いいえ」
「では説明しろ。なぜその男だ」
レインは、答えなかった。
正確には、答えを探して、見つからなかった。
言葉は、ある。ある場所もわかっている。だがそれを取り出すには、あまりにも古い箱を開けなければならない。開ければ埃が舞う。舞った埃の中に、まだ小さかった自分が立っている。
その箱を、この部屋で開けるわけにはいかなかった。
開けたところで、それは十年前の話だ。
——それは昔の話でしょう。
そう返されて終わる。
「……字が、書けます」
レインは、そう言った。
「字が書けん人間はおらん」
「速いです。詰所で二年、書類だけやっています」
「文書課の男も同じだ」
「……」
「他には」
「……」
バルドは、待った。
レインは、口を閉じていた。
沈黙が、十秒ほど続いた。
バルドは、ふう、と息を吐いた。
「アルディス。お前、この二年で、俺に何か頼んだことがあるか」
「……ありません」
「一度もないな」
バルドは、机の抽斗を開けた。
中から名簿を取り出し、めくった。
「休暇の申請も、配置換えの希望も、装備の要求も、二年で一件もない。俺は最初、お前を欲のない男だと思っていた」
「……」
「今は違うと思っている。お前は、頼み方を知らんだけだ」
レインは、返す言葉を持たなかった。
バルドは名簿を閉じ、机の上の紙を引き寄せた。
そして、羽根ペンを取った。
「その男の詰所は、第七だったな」
「……はい」
「団長」
レインは、思わず身を乗り出した。
「理由を、言えません」
「知っている」
バルドは、書きながら答えた。
「言えん理由を持っている男が、二年に一度だけ頭を下げた。それで十分だ」
「ですが、危険です。あの男は、戦えません」
「戦うな、と言っただろう」
バルドは顔を上げた。
「これは調査だ。俺は目を七つ送る。そのうちの一つが、剣を持てなくても構わん」
彼は、羽根ペンを置いた。
『記録係——カルヴァン、ユート』
インクが、乾いていない。
「ただし、条件がある」
「はい」
「その男が死んだら、お前のせいだ」
バルドは、まっすぐにレインを見た。
「俺のせいではない。編成を決めたのは俺だが、名前を出したのはお前だ。俺はそれを一生忘れんし、お前にも忘れさせん」
レインは、背筋を伸ばした。
「……はい」
「それでも推すか」
「推します」
「即答するな」
「……申し訳ありません」
バルドは、笑わなかった。
書類に判を押し、それを脇に寄せた。
「出発は四日後だ。準備しろ」
◆
編成が張り出されたのは、その日の午後だった。
騎士団本部の掲示板の前に、人だかりができていた。
レインが近づくと、人だかりが少しだけ割れた。
「……アルディスが指揮か」
「二十歳だぞ」
「団長が決めたなら文句はないが」
ざわめきは、そこまでは想定内だった。
問題は、その次だった。
「おい、記録係、これ誰だ」
「カルヴァン? 聞かんな」
「第七詰所だと。詰所から?」
「なんで詰所の事務屋が辺境調査に」
ざわめきの質が、変わった。
背後から、足音が近づいてきた。
「——レイン」
振り向くまでもなかった。
「これ、どういうこと」
フィーナ・ルクレールが、掲示板を指していた。
指の先は、いちばん下の行だった。
「説明して」
「……俺が推薦した」
「はあ!?」
周囲の視線が集まった。
フィーナは構わなかった。
「あんた、正気? 辺境よ? 往復半月の道よ? 第十五駐屯地は三か月黙ってるのよ? そこにあいつを連れて行くの?」
「戦闘は避ける任務だ」
「避けられなかったら!?」
「その時は、俺が守る」
「守るって——」
フィーナは、そこで言葉を切った。
切って、深く息を吸った。
そして、声を落とした。
「……ねえ、レイン」
「ああ」
「私、あいつのこと、嫌いよ」
「知ってる」
「不真面目だし、女の子にすぐ声かけるし、遅刻するし、教本読まないし、危ないことを知らずにやるし」
「ああ」
「でも」
フィーナは、掲示板を見た。
「死んでほしいとは、思ってない」
レインは、彼女の横顔を見た。
「あんた、あいつを守れるつもりでいるでしょ。守るって言ったもんね。でもね、守るっていうのは、守る側の余裕が前提なの。余裕がなくなったらどうするの」
「……」
「あんた、余裕なくなったら、たぶん自分の分の余裕をあいつに回すのよ」
フィーナの声が、少し震えていた。
「それ、死ぬやつでしょ」
レインは、答えなかった。
答えられなかった。
フィーナは、しばらくレインの顔を見ていた。
それから、掲示板に向き直った。
「……理由は、聞かない」
「フィーナ」
「聞いても『いつか話す』って言うんでしょ」
「……」
「ほら」
彼女は、鼻を鳴らした。
鳴らして、歩き出した。
「四日後よね。準備しとく」
「……ああ」
「レイン」
三歩行って、彼女は立ち止まった。
振り返らずに言った。
「私、あんたの『いつか』を聞くために、生きて帰るから」
◆
その日の夕方、レインは第七詰所に行った。
王都の西の外れにある、小さな建物だった。人が三人いれば狭い。実際、中には三人しかいなかった。
ユートは、机に突っ伏していた。
寝ていた。
「……起きろ」
「んあ」
ユートは顔を上げ、頬についた書類を剥がし、目をこすった。
「レイン? なんでここに」
「話がある」
「金は貸せねえぞ」
「借りに来てない」
レインは、辞令の写しを机に置いた。
ユートは、それを見た。
見て、二度読んで、それから顔を上げた。
「……なにこれ」
「辞令だ」
「いや、読めてるけど。なにこれ」
「北東の辺境調査だ。七名。お前は記録係だ」
ユートは、もう一度紙を見た。
そして、笑った。
「無理無理無理無理」
「無理じゃない」
「無理だって! 俺、辺境なんか行ったことねえよ! 王都から一番遠く行ったの、去年の市場の買い出しで隣町まで!」
「馬には乗れるだろう」
「乗れるけど! 乗れるけども!」
ユートは椅子から立ち上がり、両手で頭を抱えた。
「なんで俺? なあ、なんで俺なんだよ。文書課とかいるだろ。あそこの奴ら、字めちゃくちゃ綺麗だぞ」
「お前の方が速い」
「速さで選ぶ!?」
「速さも要る」
レインは、椅子を引いて座った。
「ユート」
「なんだよ」
「断ってもいい」
ユートが、動きを止めた。
「団長には、俺から言う。無理に連れて行くつもりはない」
レインは、まっすぐに彼を見た。
「ただ、これだけは言っておく。危険だ。往復半月、第十五駐屯地は三か月黙ってる。村がふたつ消えてる。生きて帰れない可能性が、ゼロじゃない」
「……脅してんの?」
「事実を言ってる」
「脅しじゃん、それ」
ユートは、椅子に座り直した。
座って、机の上の辞令を、指で押さえた。
しばらく、そうしていた。
「……なあ、レイン」
「なんだ」
「なんで俺なの」
同じ質問だった。
団長室で答えられなかった質問と、同じものだった。
レインは、口を開いた。
開いて、閉じた。
「……お前が、要るからだ」
「答えになってねえ」
「なってない」
「認めるのかよ」
ユートは、少し笑った。
それから、辞令を持ち上げて、天井の灯りに透かした。
「……俺さ」
「ああ」
「ここ二年、なんもしてないんだよ」
彼は、紙を透かしたまま言った。
「書類書いて、寝て、また書類書いて。誰にも文句言われないし、誰にも期待されないし。楽なんだよ、これ。すげえ楽」
「……」
「たまにさ、お前の話が聞こえてくるわけ。西街道の灰狼が十四頭だったとか、新卒二年目で指揮補佐だとか。そういうの聞くたびに、へえ、すごいなって思う。
本気で思うんだよ。嫉妬とかじゃなくて」
ユートは、紙を下ろした。
「思って、で、その日の夜も、俺は普通に寝るんだよ」
彼は、レインを見た。
笑っていた。
あの笑い方だった。殴られる前に、先に笑ってしまう子どもの笑い方。
「そういう二年だった」
レインは、何も言わなかった。
「……行くわ」
ユートが言った。
「え」
「行くって言った」
「……いいのか」
「よくねえよ。全然よくねえ」
ユートは、辞令を机に叩きつけるように置いた。
「怖いし、寒いし、疲れるし、絶対途中で泣くと思う。俺、野宿とか無理だからな。虫が無理」
「……」
「でも、お前が来たから」
彼は、頭を掻いた。
「お前、二年間一度も俺んとこ来なかっただろ。忙しいんだろうなって思ってた。それが今日来て、辞令持ってきて、断ってもいいって言った」
ユートは、そこで少しだけ、声を落とした。
「断ってもいいなら、来なくてよかっただろ」
レインは、返す言葉を探した。
見つからなかった。
「……お前、ずるいんだよ、昔から」
ユートは、また笑った。
今度は、少し違う笑い方だった。
「四日後だっけ」
「四日後だ」
「準備するもん、教えてくれよ。俺、なんも知らねえから」
「教える」
「あと」
「なんだ」
「ノエルちゃんも行くの、これ」
ユートは、辞令の中ほどを指した。
「行く」
「……マジで?」
「マジだ」
「よっしゃ」
彼は、拳を握った。
「行く! 絶対行く!」
「今それか」
「今それだよ! 大事だろ!」
レインは、深く息を吐いた。
吐いて、少しだけ笑った。
その夜、第七詰所の灯りは、いつもより遅くまでついていた。
ユートは、生まれて初めて装備目録というものを読んでいた。




