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第五話 動物の前で

 二か月後。


「なんで、あんたと二人なわけ」


 馬上で、フィーナが開口一番にそう言った。


「団長がそう決めたからだ」


「またそれ」


「他に理由がない」


 北街道を、二頭の馬が並んで進んでいた。


 任務は護衛。北の外れにあるクレン村から、家畜の移送に護衛をつけてほしいという依頼が来ていた。羊を六十頭ばかり、隣の町の市まで運ぶ。それだけの話だ。


 本来なら騎士がひとり出れば済む。だが今回は「魔導兵団からも一名」という指定がついていた。


「羊の護衛に術者を寄越せって、どういう依頼よ」


「村がそう書いてきた」


「理由は」


「書いてない」


「書きなさいよ」


 フィーナは手綱を握り直した。


 朝の北街道は空いていた。すれ違うのは荷馬車が数台と、麦を積んだ荷車がひとつ。道の両側は牧草地で、点々と羊が散っている。風がその上を渡って、草がまとめて色を変えた。


 平和な道だった。


 だからこそ、レインは少しだけ引っかかっていた。


「……フィーナ」


「なによ」


「魔導兵団に、最近こういう依頼は多いか」


「こういうって?」


「規模の小さい任務に、術者の指定がつくやつだ」


 フィーナは、しばらく黙った。


「……多い」


「そうか」


「先月、七件。先々月は三件。今月はもう五件」


 数字が即座に出てきた。彼女はそういう女だった。


「理由は?」


「わからない。上も『たまたまだ』って言ってる」


「たまたまか」


「たまたまなんじゃない?」


 フィーナは前を向いたまま言った。


 その言い方が、自分でも信じていない言い方だった。


   ◆


 クレン村に着いたのは、昼過ぎだった。


 人口は二百人ほど。牧羊の村だ。家は石積みで、屋根には草が生えている。村の中央に井戸があり、その周りに人が集まっていた。


 集まっていた、というより——片付けていた。


 村の東側の納屋が、崩れていた。


「……あれ」


 フィーナが馬を止めた。


 崩れ方が、おかしかった。


 風で倒れたのでも、腐って落ちたのでもない。壁の一面が、内側から外へ向かって、まとめて剥がされていた。木材の断面が、ささくれている。


「引き裂かれてるわね」


「三日以内だ。断面がまだ白い」


 二人は馬を降りた。


 村人たちが振り返り、そして安堵の色を浮かべた。


「騎士様! よく来てくださった!」


 駆け寄ってきたのは、六十がらみの男だった。村長だという。


「依頼は羊の移送だったな」


「はい。ですが、その……」


 村長は、崩れた納屋を振り返った。


「三日前に、これが」


「魔物か」


「たぶん」


「たぶん?」


 村長は、言葉を探すように口を動かした。


「……見た者がおるんですが、その者の話が、どうも」


   ◆


 見た者は、老婆だった。


 名をマーサといった。八十を過ぎていて、腰が曲がっているが、目だけは驚くほどはっきりしている。


 彼女は井戸端の石に腰かけて、両手を杖の上に重ねていた。


「三日前の夜だよ。羊が騒いだから、窓から見た」


「何が見えた」


「黒いのが、納屋の壁を、こう、めくった」


 マーサは、両手で何かをめくる仕草をした。


「めくった?」


「めくった。破ったんじゃない。めくったんだよ。爪を引っかけて、こう、はがすみたいに」


 レインは、崩れた納屋の断面を思い出した。


 確かに、あれは「めくれて」いた。


「大きさは」


「牛くらい」


「形は」


 マーサは、そこで黙った。


 しばらく、杖の頭を親指でこすっていた。


「……あたしゃね、この村で八十二年生きてる」


「はい」


「魔物は、数え切れないほど見た。狼も、猪みたいなのも、蜘蛛みたいなのも、鳥みたいなのも見た。名前がついてるやつは、たいてい見てる」


「はい」


「あれは、知らない」


 マーサは、はっきりと言った。


「見たことのない形をしてた」


 風が吹いた。


 井戸の滑車が、きい、と鳴った。


「……脚は何本だった」


 レインが訊いた。


「六本」


「六本?」


「六本。前が四本で、後ろが二本。前の四本で壁を持って、後ろの二本で立ってた」


 フィーナが、レインを見た。


 レインは、フィーナを見返した。


 そんな魔物は、教本に載っていない。


「マーサさん。他に見た者は」


「いないよ。みんな寝てた」


「……そうか」


「信じてないだろ」


 マーサは、少し笑った。


「いいんだよ。村の連中も信じてないんだから。八十過ぎの婆が夜中に見たもんなんて、みんな夢だと思う」


「俺は信じる」


 レインが言うと、マーサは杖から手を離しかけた。


「……なんでだい」


「あなたが、脚の本数を数えていたからだ」


 レインは言った。


「夢を見た人間は、脚の数を数えない」


 マーサは、しばらくレインの顔を見ていた。


 それから、目を細めた。


「あんた、いい顔してるね」


「……はあ」


「昔、そういう顔した騎士を見たことがある」


   ◆


 納屋の中には、羊の死骸が四頭分あった。


 正確には、四頭分の残骸だった。


「……食べてないわね、これ」


 フィーナが、鼻と口を布で押さえながら言った。


「殺しただけ」


「そうだ」


 レインは屈み込み、断ち切られた木材の端を指でなぞった。


「魔物は、腹が減って襲う。食い残しはあるが、丸ごと残すのは珍しい」


「じゃあ、なんで殺したの」


「わからない」


 レインは立ち上がった。


 納屋の奥、崩れた壁材の陰から、かすかな音がした。


「——待て」


 フィーナが杖を構えた。


 レインが手で制する。


 音が、もう一度した。


 高い、細い音だった。


 レインは壁材をひとつ、静かに退けた。


 その下に、白い塊がいた。


 子犬だった。


 牧羊犬の仔だろう。生後二か月ほど。麦藁色の毛が土で汚れていて、後ろ脚をかばうようにして震えている。


 三日間、ここにいたらしい。


「……生きてる」


 レインが言った。


「三日も?」


「水が溜まってた。そこの、材木の窪みに」


 子犬は、レインを見上げた。


 それから、きゅう、と鳴いた。


   ◆


「ふ」


「ふ?」


「ふぁあああああああ」


 次の瞬間、フィーナ・ルクレールは杖を投げ捨てていた。


「投げるな。杖を」


「うそでしょ待ってこの子なに!? かわいい!! かわいすぎない!? ちょっと待って足! 足が! 足が小さい!!」


「フィーナ」


「小さい!!」


 彼女は納屋の床に膝をつき、両手を子犬の前に差し出した。


 子犬は、警戒して一歩下がった。


「あっ。あー、うん、そうだね、うん。怖いよね。うん。急にごめんね。うん」


 声が、完全に変わっていた。


 半オクターブ上がって、語尾が丸くなり、すべての語頭に「うん」がついていた。


「大丈夫だよー。こわくないよー。ねー。ねー?」


「フィーナ」


「なによ」


「後ろ脚をやられてる。触るなら気をつけろ」


「わかってるわよそんなの!」


 振り向いた顔は完全に通常のフィーナだったが、子犬に向き直った瞬間にまた戻った。


「ねー、足いたいねー。いたいねー。よしよし。よしよーし」


 レインは、立ち尽くしていた。


 学院に三年いた。魔導兵団の演習でも二度見た。城壁の上から想定敵を焼き払う姿も、判定官を困らせる火力も、守衛を三度追い返す執念も知っている。


 だが、これは知らなかった。


「……フィーナ」


「なによ」


「お前、そういう」


「言うな」


 声が戻った。


「一言でも言ったら焼くから」


「……わかった」


 子犬は、まだ警戒していた。


 フィーナは差し出した手を動かさなかった。


 動かさないまま、待っていた。


 一分。二分。


 子犬が、鼻先をひくつかせた。


 そろそろと、前脚を一歩出す。


 もう一歩。


 そして、フィーナの指先に、鼻を触れさせた。


「————」


 フィーナが、息を止めた。


 止めたまま、動かなくなった。


「フィーナ」


「しゃべるな」


「息をしろ」


「今、大事なとこだから」


 子犬が、彼女の指を舐めた。


「ぐ」


 フィーナが、うめいた。


「……ぐ、う、うう」


「泣いてるのか」


「泣いてない!!」


   ◆


 結局、子犬は連れて帰ることになった。


 村に飼い主はいなかった。母犬は死骸の中にあった。四頭殺された羊の脇に、五つ目の残骸として。


「……この子、守ろうとしたのね」


 フィーナが、それを見て言った。


 彼女の声から、さっきまでの甘さが完全に抜けていた。


「たぶんな」


「……ねえ、レイン」


「なんだ」


「マーサさんの言ってた魔物。六本足のやつ」


「ああ」


「もし本当にいるとしたら、それ、報告した方がいいわよね」


「する」


「上、信じるかしら」


「信じないだろうな」


 レインは正直に答えた。


「八十二歳の目撃者ひとりで、他に証言がない。物証は納屋の壁の断面だけだ。断面は、大型の魔物なら似た跡がつく」


「じゃあ、揉み消されるじゃない」


「揉み消されはしない。記録には残る」


「記録に残るだけでしょ」


「今はそれでいい」


 レインは、崩れた納屋を振り返った。


「記録が積み上がれば、いつか誰かが気づく」


「……いつか、ね」


 フィーナは、また「いつか」と繰り返した。


 それから、腕の中の子犬を見た。


 子犬は、彼女のローブの袖を噛んでいた。


   ◆


 羊の移送は、何事もなく終わった。


 六十頭を隣町まで運び、市に引き渡し、書類に判子を押して、それで任務は完了した。所要は二日。魔物の一頭も出なかった。


 帰り道、フィーナの馬の鞍には、布で作った即席の袋がぶら下がっていた。


 その中から、子犬の頭が出ていた。


「で、どうするんだ、それ」


「飼うわよ」


「宿舎、動物いいのか」


「よくない」


「……」


「よくないけど、飼う」


 きっぱりと言い切った。


「だいたいね、規則ってのは、書いた人間が想定した状況にしか使えないの。魔導兵団の宿舎規則を書いた人が、三日間瓦礫の下にいた子犬のことを考えてたと思う?」


「思わない」


「でしょ」


 フィーナは前を向いたまま、鼻を鳴らした。


「文句言われたら、書いた人間を連れてきなさいって言う」


「たぶん死んでるぞ、その人は」


「都合がいいじゃない」


 レインは、少し笑った。


 笑ったことに、自分で驚いた。


 フィーナが、こちらを見た。


「……今、笑った?」


「笑った」


「へえ」


 彼女は、それきり何も言わなかった。


 しばらく、蹄の音だけが続いた。


「名前」


「ん?」


「その犬の。決めたのか」


「まだ」


 フィーナは袋の中を覗き込んだ。


 子犬は寝ていた。


「……ムギ」


「ムギ?」


「色が、麦だから」


「そのままだな」


「うるさいわね。じゃああんたが考えなさいよ」


「ムギでいい」


「即答するな!」


 フィーナは怒鳴り、それから、袋の中に小さく言った。


「……ムギ。あんた、今日からムギね」


 子犬は起きなかった。


   ◆


 王都が見えてきた頃、日が傾いていた。


 城壁が夕日を受けて、赤く縁取られている。


「レイン」


 フィーナが、前を向いたまま言った。


「なんだ」


「あのさ」


「ああ」


「……」


 彼女は、しばらく黙った。


 馬が三十歩ほど進んだ。


「あんた、辺境の報告書って読める立場?」


「読める」


「……最近の、見た?」


「一部は」


「どう?」


「厚い」


 レインはそう答えた。


「北の駐屯地からのが、特に。いつもの三倍近い」


「中身は」


「読んでない。上が読んでる」


「……読みなさいよ」


「言われた」


「誰に」


「ヴェルクさんに。『お前は橋をやれ』と」


「橋!?」


「橋だ」


 フィーナは、心底信じられないという顔をした。


 それから、深く息を吐いた。


「……ねえ、レイン」


「なんだ」


「私、たぶん、心配性なんだと思うのよ」


 彼女は、袋の中の子犬に手を触れた。


「魔導兵団の依頼が増えてるのも、報告書が厚いのも、六本足の魔物の話も、全部、たまたま関係ないことかもしれない。私が勝手に線で結んでるだけかも」


「かもしれない」


「でしょ。だから、こんなこと言うの、変なんだけど」


 フィーナは、そこで一度、言葉を切った。


「……嫌な感じがするの」


 レインは、彼女を見た。


 彼女は前を向いていた。夕日が横顔を照らしていて、表情はよく見えなかった。


「私、勘とか信じないタイプなのよ。数字と理屈しか信じない。それは自分でわかってる」


「ああ」


「でも、嫌な感じがする」


 王都の門が近づいてきた。


 門番が二人、いつもの位置に立っている。市場から帰る荷車が列を作っている。誰かが門の脇で果物を売っている。


 いつもの光景だった。


「……気のせいだといいわね」


 フィーナは、そう言った。


 レインは、答えなかった。


 答える代わりに、頷いた。


 その夜、レインは詰所に寄った。


 ヴェルクの机の隅に、辺境からの報告書がまだ置いてあった。


 二か月前より、さらに厚くなっていた。


 レインは、それを手に取った。

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