番外編「凍てつく夜の終わりに」
◆橘朔也視点
当直室の空気は、深夜の病院特有の重苦しさに沈んでいた。
橘朔也はデスクランプの薄暗い光の下、海外の医学論文のページを機械的にめくっている。
活字の羅列は網膜を滑るだけで、脳髄には一切の情報を結ばない。
コーヒーメーカーから漂う焙煎の香りが、室内の淀んだ空気を僅かに紛らわせている。
マグカップの縁を指でなぞりながら、橘は数時間前の光景を反芻していた。
小児科の結城理玖。
新米でありながら、並外れた献身と執念で患者に向き合うオメガの医師。
彼が自身の体質を隠すために、致死量の一歩手前まで強力な抑制剤を服用していることには、出会った直後から気づいていた。
橘の鋭敏な嗅覚は、分厚い薬品の匂いの奥底に封じ込められた、甘く脆い香りの欠片を正確に捉えていたのだ。
自らを壊してまで、この残酷な医療現場にしがみつこうとする愚かさ。
そして、それほどの犠牲を払ってでも命を救おうとする純粋さ。
橘は結城の背中を見るたびに、かつての自分自身を突きつけられているような胸をかきむしられるような焦燥を感じていた。
救えなかった小さな命。
どれほど技術を磨き、完璧を求めても、死神の鎌を完全に防ぐことはできないという絶望。
橘はその無力感を封じ込めるため、自らを氷の鎧で覆い、冷徹な機械として生きることを選んだ。
しかし結城は違う。
彼は患者の痛みを自らの痛みとして引き受け、共に涙を流しながらも、決して逃げ出そうとはしなかった。
その危ういほどの真摯さが、橘の分厚い鎧の内側に、熱を帯びた楔を打ち込んできたのだ。
ドアノブが微かに音を立てて回る。
橘は論文から目を離さず、気配だけで侵入者の正体を特定した。
すり足のように頼りない足音。
浅く、乱れた呼吸。
結城だ。
彼は部屋の隅にある自分のデスクに向かい、力なく椅子に腰を下ろした。
橘の席からは、結城の丸まった背中が見える。
限界を超えた疲労が、彼の細い身体から立ち上っていた。
「……健太の術後経過はどうだ」
沈黙に耐えきれず、橘は声を投げた。
結城の肩が微かに跳ねる。
「はい。心不全の兆候は見られません。明日から、少しずつ食事を開始する予定です」
掠れた声だ。
無理をして取り繕っているのが痛いほどに分かる。
橘は本を閉じ、立ち上がって流し台へと向かった。
戸棚から結城のマグカップを取り出し、残っていたコーヒーを注ぐ。
湯気とともに立ち上る香りが、結城の封じ込められた味覚を少しでも刺激することを願いながら。
「橘先生。コーヒー、いただきます」
カップを受け取る結城の指先は、氷のように冷たかった。
橘は斜め向かいの椅子に座り、結城の横顔を観察する。
青白い肌、目の下の色濃い隈。
今にも崩れ落ちそうな硝子細工のようだ。
「……橘先生は、いつも夜遅くまで病院にいらっしゃいますね」
「家に帰る理由がないだけだ」
「ご家族は……」
「いない」
冷たく突き放すような言葉を返したのは、これ以上踏み込まれることを恐れたからだ。
誰かと関われば、また失う恐怖を味わうことになる。
孤独こそが、自身を守る唯一の盾だった。
しかし結城は、その盾の隙間を縫うようにして、自身の過去を語り始めた。
心臓の病で苦しんだ幼少期。
彼を救った医師への憧れ。
不器用で、まっすぐな動機。
橘の胸の奥で、長年凍りついていた何かが、音を立ててひび割れていく。
「……甘い、でしょうか」
不安げに揺れる瞳が、橘を捉える。
橘は自身の過去の亡霊と向き合うように、ゆっくりと口を開いた。
「医者の動機など、何でもいい。結果が全てだ。患者を生かして帰す。それ以外に我々の存在価値はない」
それは自身に言い聞かせるための言葉でもあった。
しかし、結城は橘の言葉の裏にある痛みを、正確に見抜いていた。
結城の手が伸び、デスクの上の橘の手に重なる。
微かな温もりと、薬の匂いに混じる柔らかなオメガの香り。
「橘先生は、たくさんの方を救ってこられました。僕も、その一人です」
その瞬間、橘の中で張り詰めていた糸が完全に切れた。
結城の存在が、自身の抱える深い喪失感を、静かに、しかし確実に埋めていくのを感じた。
この危うくも美しい魂を、理不尽な重圧から守り抜きたい。
結城が全てを背負い込んで壊れてしまう前に、俺が彼の盾となる。
橘は結城の瞳を見つめ返し、自らの意志を固めた。
この凍てつくような孤独な夜の終わりに、彼という唯一の熱を見つけたのだと。




