第8話 女騎士は、敗残兵のままでは終われない
人は、捨てられた時に本性が出る。
泣く者もいる。
喚く者もいる。
怒りに身を任せる者もいれば、何もかも諦めて座り込む者もいる。
そして、ごく稀に、まだ背筋を折らない者がいる。
レオルドがそのことを強く意識したのは、昼を少し過ぎた頃だった。
第七日を終えた翌朝。
フロストゲート砦は、表面上こそ昨日までと変わらぬ顔をしていたが、内側では少しずつ動きが出ていた。門前の導線は多少ましになり、西浅瀬の見張り位置もようやく兵の身体に馴染み始めている。外集落の村図も、ミレナから借り写したものがレオルドの記録帳に加わった。
やるべきことは山積みだ。
それでも、「どこから手をつけるべきか」が前より見えているだけ、砦の空気は少し違う。
そんな折だった。
門前の方から、怒鳴り声と荒い足音が聞こえた。
ただ事ではないと分かる種類のざわめきだ。
見張りに緊急の色はない。敵襲ではない。だが、兵が騒ぐには十分な“何か”が来た時の音だった。
レオルドは内庭から顔を上げ、同じく音に気づいたアイザックと視線を交わした。
「門か」
副官が短く言う。
「そうですね」
「行くぞ」
二人が門へ向かうと、すでに数人の兵が半円を作るように囲んでいた。
その中心で、土と雪にまみれた女が、両腕を後ろ手に縛られたまま膝をついている。
最初に目についたのは、鎧だった。
擦り傷だらけの胸当て。片側の肩甲は外れ、白を基調にしていたはずの外套は灰と泥で汚れている。それでも意匠は隠し切れない。細身だが実戦向きの造り。飾りすぎず、しかし安物でもない。王国側の騎士階級、それも家付きの私兵ではなく、もっと正規に近い系統だろう。
次に見たのは姿勢だ。
膝をつかされ、腕を縛られてなお、背筋が折れていない。
呼吸は荒い。頬には裂けたような切り傷。唇も乾いている。何日もまともに食っていないのだろう。それでも首が落ちていない。
兵の一人が興奮気味に言った。
「東の林の向こうで見つけたんです、副官! 一人でうろついてて!」
「抵抗は?」
アイザックが問う。
「した。短剣で一人やられかけた」
囲みの外にいた若い兵が、頬の浅い切り傷を押さえてむっとした顔をする。
確かに、傷の線は細いが深さはある。躊躇のない切り返しだ。
「一人で?」
レオルドが訊くと、兵は頷いた。
「はい。最初は偵察かと思ったんですが、追ったら逃げ方が変で……林を抜けたところで脚がもつれて、それで」
「“変”とは?」
「こっちへ近づかないように逃げてるのに、完全には捨て切ってない感じで……」
言葉の選び方が曖昧だが、意味は分かった。
最初から砦を狙っていたわけではない。だが砦を避けきるほど余裕もなかった。逃亡の途中で、最後の最後に力尽きたような動きだったのだろう。
アイザックが女へ視線を落とす。
「名は」
女は答えない。
顔を上げもしない。
ただ、こちらへ膝を屈した形のまま、微かに呼吸を整えている。
兵の一人がいら立って言った。
「さっきから黙ったままです。王国兵でしょうし、どうせ碌な――」
「静かに」
レオルドが低く言うと、兵は思わず口を閉じた。
その一言で場が静まったのは、ここ数日で“軍配者の声をとりあえず聞く”空気が砦に生まれつつある証でもある。小さいが、大きな違いだ。
レオルドは膝を折り、女と視線の高さを揃えた。
近くで見ると、年齢は自分とそう変わらないか、少し上かもしれない。二十代前半。金に近い淡い色の髪は泥に汚れ、片方が雑に切れている。おそらく逃げる途中で刃にでも引っ掛けたのだろう。
目は、まだ伏せられている。
「名を聞いています」
レオルドは穏やかな声で言った。
「名乗れないなら、それでも構いません。ですが、敵意の有無だけは知りたい」
女の肩が、ほんのわずかに動いた。
そして初めて、顔が上がる。
澄んだ青の目だった。
ただし、その色は今、疲労と警戒で鋭く冷えている。
「……敵意がなければ、縛るの?」
声は掠れていたが、芯はあった。
兵たちの間に小さなざわめきが走る。
喋った。それだけでなく、返し方が強い。
レオルドは視線を逸らさない。
「縛ったのは私ではありません」
「同じことよ」
「違います」
女の目がわずかに細まる。
「どう違うの」
「私が今、聞いている」
その返しに、彼女は一瞬だけ言葉を失ったようだった。
正論で押したわけではない。
ただ、責任の所在を曖昧にしなかっただけだ。
けれどそれは、今の彼女のような状態の相手には、案外効くことがある。
女は乾いた唇をわずかに動かした。
「……アイリス」
「姓は」
「言う必要がある?」
「立場によります」
「なら、今はないわ」
警戒は解けていない。
だが折れてもいない。
その返答で十分、レオルドは一つ理解した。
この女は、まだ“終わっていない”。
アイザックが腕を組んだまま言う。
「王国側の騎士か」
アイリスは答えない。
「所属は」
沈黙。
「命令で来たのか、逃げてきたのか」
そこでも、すぐには答えなかった。
代わりに彼女はレオルドを見た。副官ではなく、軍配者を見る。そこに何を測る意図があるのかまでは読めないが、少なくとも“誰に答えるか”を選んでいる。
レオルドは短く言った。
「水を」
セラではない別の女兵がぎょっとした顔になる。
「え?」
「水です。まずそれから」
アイザックが眉を寄せた。
「尋問の前にか」
「喉が死んでいます。このままでは何を聞いても浅くなる」
副官はほんの一瞬だけ考え、それから近くの兵へ顎をしゃくった。
「持って来い」
水袋が運ばれるまでの間、誰も余計なことを言わなかった。
兵たちは少し不満そうでもあり、少し好奇心もある顔で見守っている。王国側の女騎士が一人で現れた。普通ではない。
だが、だからこそ雑に扱うと情報もこぼれる。
水袋が届くと、レオルドは自分で受け取り、アイリスの前へしゃがんだ。
「少しずつ飲んでください」
「毒でも入ってる?」
掠れ声でそう返すのだから、相当気丈だ。
「入っていたら私も困ります」
「どうして」
「話が聞けなくなる」
アイリスは数秒、レオルドの目を見た。
それから、ゆっくりと水袋に口をつける。
本当に少しずつだ。喉が荒れている者の飲み方を知っている。無茶に流し込まない辺り、育ちか実戦経験のどちらか、あるいはその両方を感じさせた。
一口、二口、三口。
ようやく呼吸が少し整ったところで、アイザックが改めて訊く。
「今度は答えろ。逃げてきたのか」
アイリスは口元の水を拭い、静かに言った。
「捨てられたのよ」
門前が、一瞬だけ完全に静まった。
兵たちの間で誰かが息を呑む。
ラグが小さく眉を上げ、ベルトンは目を細めた。
捨てられた。
その言葉は、この砦では妙に重い。ここにいる者の多くが、形は違えど似た経験を知っているからだ。
アイザックが短く問う。
「どういう意味だ」
「そのまま」
アイリスの声には、自嘲も、泣き言もなかった。
ただ、事実として置かれた言葉の重さだけがある。
「退却の時に置いていかれた。わたしの隊は散って、指揮官は先に下がった。足を傷めた者、遅れた者、守る価値がないと判断された者は切られた」
兵たちの顔色が変わる。
敵だ味方だ以前に、その話はあまりにも現実的すぎた。
レオルドが静かに訊く。
「それで、一人でここまで」
「途中で二人までは一緒だった」
「二人“までは”」
アイリスはほんの少しだけ目を伏せた。
「一人は怪我で動けなくなった。もう一人は、別の方角へ逃げた」
その声音は変わらない。
だが、その平坦さがかえって痛々しかった。感情を抑え込んでいる時の声だ。
レオルドは数秒黙ってから言う。
「なるほど」
アイリスが少し険しい顔になる。
「なるほど?」
「あなたが、ただの偵察ではない理由が分かりました」
彼女の目がわずかに揺れる。
レオルドは続けた。
「装備は軽いが雑ではない。逃げ方に癖がないのに、砦を避け切る余裕もなかった。追手を切る動きの方が強く出ていた。加えて、水の飲み方を知っている。敗残兵ではありますが、崩れてはいない」
そこまで言ってから、少しだけ言葉を選び直す。
「……正確には、“敗残兵のまま終わっていない”」
アイリスはじっとレオルドを見た。
警戒はある。
だが、その奥に、わずかな驚きも混じっていた。ここへ連れてこられてから今まで、彼女はきっと「敵兵」「女騎士」「捕まえた獲物」として見られていたのだろう。
“終わっていない”と見た者は、初めてかもしれない。
アイザックが低く言う。
「中へ移す。門前でやる話じゃない」
それは当然の判断だった。
アイリスは一瞬だけ身を固くしたが、抵抗はしなかった。
いや、できないのではなく、しないのだ。抵抗に意味がないと分かっている時の静けさだった。
兵たちが彼女を立たせようとすると、わずかによろめく。
レオルドはその一歩の崩れ方で、左足首を見た。靴の上からでも少し腫れているのが分かる。逃走の途中で捻ったか、元から傷めていたのか。
「待ってください」
レオルドが言うと、兵たちが怪訝そうに手を止める。
「縄、少し緩めて」
「おい」
アイザックが眉を寄せる。
「逃げたらどうする」
「逃げません」
「なぜ分かる」
レオルドはアイリスを見た。
「逃げるなら、水を飲んだ時点で顔つきが違うからです」
アイザックが小さく舌打ちした。
だが、その舌打ちは完全な否定ではない。ここ数日で、レオルドが“そういうところを見る男だ”と理解してきているからだろう。
「……手首だけだ。足はそのまま」
「ありがとうございます」
兵が縄を少し緩める。
アイリスは痛みに眉を寄せたが、文句は言わなかった。
内郭の一室へ移されたあと、改めて話を聞くことになった。
前回ミレナと向き合った時と似た、小さな机と椅子のある部屋。
ただし今回は、空気がもっと張り詰めている。外の村とは違い、こちらは敵側の騎士だ。兵も一人、扉脇に立たせたままだった。
アイリスは椅子に座らされ、手首の縄だけが前へ回された。
足はまだ自由ではない。逃走防止の最低限だ。
レオルドとアイザックが向かいに座る。
しばらく沈黙があった。
先に口を開いたのは、アイリスだった。
「……あなた」
「私ですか」
「軍配者って、本当にそういう顔で人を見るの?」
レオルドは少し首を傾げた。
「どういう顔でしょう」
「敵か味方かだけじゃなくて、もっと別のことまで見てる顔」
変わった表現だと思った。
だが間違ってはいない。
「職業病かもしれません」
「厄介ね」
「よく言われます」
アイリスの口元が、ほんの少しだけ動く。
笑いそうになって、やめたような動きだった。
アイザックが間に入る。
「まず確認だ。お前は王国軍所属で間違いないな」
「そうよ」
「どの国だ」
「聖王国の北辺隊」
やはりか、とレオルドは思う。
装備の意匠と、剣帯の留め金に入った小さな紋。それが一致する。
「階位は」
「騎士見習い上がり。今は半独立小隊付き」
「今は、か」
アイザックが低く繰り返す。
「今はもう、違うということ?」
アイリスは視線を落とさなかった。
「隊がもうないもの」
その一言で十分だった。
レオルドは訊く。
「こちらへ何しに来たわけでもない?」
「違う」
「では、どうするつもりだったんです」
そこだけは、アイリスは少し答えに詰まった。
唇が動きかけて、止まる。
答えがないのだろう。目的があってここまで来たのではなく、切り捨てられた先で生き延びることだけに必死だったのだ。
「……分からない」
やがて、そう言った。
「とにかく追手を切って、どこでもいいから隠れて、食べ物を探して、それから考えるつもりだった」
「砦に近づく気はなかった」
「なかった。でも、避ける足も残ってなかった」
レオルドは頷いた。
それで辻褄が合う。
アイザックは腕を組んだまま、しばらく彼女を見ていた。
そして、現実的な問いを投げる。
「お前をこのまま砦に置く理由は薄い。敵兵だ」
「そうね」
アイリスは淡々と返す。
「処刑する?」
その言葉に、部屋の空気がわずかに張った。
扉脇の兵が息を呑み、アイザックの目つきがわずかに鋭くなる。
だが彼女自身は挑発しているのではなかった。ただ、本当にそれもあり得る現実として言っているだけだ。
レオルドはそこで初めて、彼女が自分と似た種類の静けさを持っているのだと感じた。
捨てられた直後、人は妙に冷静になることがある。
泣くより先に、切られるなら切られると受け止めるしかない瞬間がある。
「しません」
レオルドが言うと、アイザックが横目で見た。
「お前が決めることじゃない」
「ええ。ですが、今この場ではしない方がいい」
「理由は」
「彼女は情報を持っているかもしれない。加えて、戦える」
アイリスの青い目が、少しだけ揺れた。
レオルドは続ける。
「そして何より、捨てられた者の目をしています」
アイザックが一瞬だけ黙る。
その沈黙の意味は分かった。
自分もまた追放者を見ている。
そして砦の中にも、形は違えど“切り捨てられた側”の兵が多い。その現実を、言葉にされれば副官も無視はしにくい。
アイリスはレオルドを見つめたまま、静かに言った。
「あなたも?」
レオルドは頷いた。
「ええ」
「捨てられたの?」
「そうです」
「それで、まだそんな顔をしていられるのね」
それは皮肉ではなく、純粋な疑問に聞こえた。
レオルドは少しだけ考え、それから答える。
「まだ使えるからです」
アイリスの眉が動く。
「使える?」
「頭も、手も、足も、まだ動く。なら終わっていない」
しばらく沈黙が落ちた。
その沈黙は、不思議と悪くなかった。
部屋の中にいる全員が、それぞれ違う形で“その言葉の意味”を噛みしめていたからかもしれない。
やがて、アイリスがほんの少しだけ息を吐いた。
「……変な人」
「よく言われます」
「本当にそうなのね」
今度こそ、彼女はかすかに笑った。
疲労と警戒の奥に埋もれていた、人間らしい表情だった。
それを見て、アイザックが小さく頭を振る。
「軍配者、お前の話し方は本当に気味が悪い時がある」
「ありがとうございます」
「褒めていない」
「分かっています」
少しだけ、部屋の空気が緩む。
だが問題は何も解決していない。
アイリスをどう扱うか。敵兵として拘束を続けるのか、しばらく保護下に置くのか、情報を引き出すのか。どれも簡単ではない。
アイザックが立ち上がった。
「ひとまず医術師に見せる。足首も、頬もそのままじゃ腐る」
アイリスが少し驚いたように目を見開く。
「治療するの?」
「死なれると面倒だ」
副官らしい答えだった。
だがその“面倒”には、少しだけ情が混じり始めているのをレオルドは感じた。
扉脇の兵が前へ出る。
アイリスは立とうとして、やはり左足に痛みが走ったのか小さく顔をしかめた。
レオルドは立ち上がり、机の端へ手をつく彼女へ言う。
「無理はしないで」
「敵兵に優しいのね」
「そうではありません」
「じゃあ何」
「戦える人間は少ないので」
アイリスはその答えに、また少しだけ目を細めた。
「……やっぱり変」
医術師のところへ連れて行かれる彼女を見送りながら、アイザックが低く言う。
「置くつもりか」
「今すぐ追い出すのは悪手です」
「それは分かる」
「ただ、すぐ信用するのも違います」
「それも分かる」
アイザックは腕を組む。
「ならどうする」
レオルドは少しだけ考えた。
「少なくとも、彼女を“ただの敵兵”として扱うのはもったいない」
「理由は?」
「捨てられてなお背筋が折れていないからです」
副官は小さく息を吐いた。
「お前、本当にそういうところばかり見てるな」
「副官も見ているでしょう」
「……否定はしない」
それで十分だった。
その日の夕方、レオルドは記録帳に新しい頁を開いた。
【第八日 新規事項】
・王国側女騎士一名保護
・名:アイリス
・所属:聖王国北辺隊
・状況:隊より切り捨てられた可能性大
・身体状態:左足首損傷、頬に裂傷、脱水軽度
そこまで書いて、少しだけ止まる。
書くべきは情報だけではない。
彼女がこの砦にもたらす可能性だ。
【所見】
・ただの敗残兵ではない
・視線、受け答え、姿勢に崩れなし
・敵としてではなく、“終わっていない人間”として見る価値あり
最後に、ほんの少し迷って、こう書き加えた。
【備考】
捨てられた者は、時に最も粘る
蝋燭の火が揺れた。
外では見張り交代の声が響いている。
砦は相変わらず寒く、薄く、足りないものだらけだ。
それでも今日、新しく加わったものがある。
厄介で、扱いづらく、しかし目を逸らすには惜しい存在。
それは、この砦が少しずつ“ただ守るだけの場所”ではなくなっている証でもあった。




