第35話 味方の監査は、敵の襲撃より厄介だった
エドガルが本当に面倒だったのは、現場の理屈をすぐに踏みにじらなかったことではない。
むしろ問題は、そのあとだった。
少し理解を示したように見えた翌日から、使者は今度は別の形で砦へ手を入れ始めた。
「兵に少し話を聞きたい」
「村側の避難時の混乱を確認したい」
「旧中継小屋運用の実態を別口から知りたい」
どれも、言葉だけ聞けば筋が通っている。
だが、その全てが現場の“揃い始めた呼吸”を微妙に乱す。
兵は、聞かれれば答える。
村人も、中央の使者だと聞けば身構えながらも答える。
そうして少しずつ、「今のやり方は本当にこのままでいいのか」という、まだ形になっていない不安が砦の中へ混ざっていく。
それは敵の襲撃より厄介だった。
敵なら、見える。
見えれば止める線を引ける。
だがこういう面倒は、止めると余計に“何かある”ように見える。
レオルドがその厄介さを強く感じたのは、兵舎の前を通った時だった。
リドが珍しく硬い顔をしている。
若い弓兵に話しかけたのはレオルドではなく、エドガルだった。
「見張り位置の変更は、誰が最初に提案した?」
「レオルド……軍配者です」
「なるほど。
では、その変更に正式な承認があったことは確認したか?」
リドはそこで言葉に詰まった。
そんな確認を現場の若い弓兵がしているはずがない。
だが、問い方としては“当然しているべきこと”のように聞こえる。
レオルドはそこへ入った。
「彼にそれを聞くのは筋が違います」
エドガルが振り向く。
「見張りの兵が、自分の立つ位置の根拠を知らずに動いているのも問題だが」
「根拠は知っています」
レオルドは淡々と返す。
「誰が、どこを、なぜ見るか。それは説明済みです。
ただし、本営承認の形式までは彼の役目ではありません」
エドガルは少しだけ目を細めた。
「役目の切り分け、か」
「はい」
「便利な言い方だ」
「実務なので」
その場はそれで終わった。
だがリドの顔に、妙な影が残る。
あとでレオルドが声をかけると、若い弓兵は少し言いづらそうに言った。
「僕、何かまずかったですか」
「いいえ」
「でも、ああ言われると……」
リドは言葉を探す。
「今の僕らって、本当にちゃんとしてるのかなって」
それが、エドガルが一番起こしたかったことではないかとレオルドは思った。
責めるのではなく、迷わせる。
崩すにはそれで十分なことがある。
「ちゃんとはしていません」
レオルドははっきり言った。
リドが目を瞬く。
「え」
「足りないものだらけです。
でも、“足りない中で何を優先して持たせるか”は決めている」
「……」
「完璧じゃないことと、間違っていることは別です」
その言葉を聞いて、リドは少しだけ肩の力を抜いた。
「それ、誰にでも言ってるんですか」
「必要な時だけです」
「便利ですね」
「かなり」
若い弓兵が、ほんの少しだけ笑った。
その笑いが戻るだけで十分だった。
だが問題は兵舎だけではない。
村側でも、エドガルは妙に丁寧な聞き取りを始めていた。
ミレナが砦へ来るなり、椅子へ腰を下ろすより先に言う。
「腹が立つ」
かなり率直だった。
レオルドは静かに訊く。
「何を言われましたか」
「『砦に頼りすぎると、村の自立を損なう』ですって」
その場にいたセラが、あまりに馬鹿らしいものを聞いた顔をする。
「今さらかい」
ミレナは頷いた。
「今さらよ。
こっちは焼かれて、人も減って、やっと砦と噛み合い始めたところなのに」
アイザックが低く言う。
「分断したいわけじゃないだろうが、結果的にはそうなる」
「ええ」
レオルドも同意した。
「たぶん彼の中では“現場の行き過ぎを均す”つもりなんでしょう」
ミレナが吐き捨てるように言う。
「その“均す”で死ぬのはこっちよ」
そこへ、アイリスが壁際からぽつりと言った。
「王国側にもいるわ。
前線を見ずに、“今均すべきだ”って言う人間」
皆がそちらを見る。
「そういうのはだいたい、均したあとに何が欠けるかを知らない」
その言葉には、体温よりも実感があった。
夕方、レオルドとアイザックは内庭の端で短く話した。
「放っておくと、じわじわ効く」
副官が言う。
「はい」
「だが止めれば“何を隠してる”になる」
「そうでしょうね」
アイザックは空を見た。
曇りは相変わらず低い。
こういう空の下では、不穏はよく育つ。
「敵の襲撃より嫌だな」
「同感です」
「笑い事じゃない」
「笑ってはいません」
副官は小さく舌打ちし、それから言った。
「……だが、あいつの聞き方で一つ分かった」
「何です」
「内通の話、どこかで拾ってる」
レオルドの目が少し細くなる。
それは可能性として十分あった。
辺境で起きている“不自然な重なり”を、本営使者がまったく知らないとも思いにくい。
ただし、どこまで知っているかは別だ。
「探りを入れてる」
「ええ」
「しかも、変に触れればこっちの方が“何かある”になる」
「かなり、ですね」
副官が小さく笑った。
「お前、こういう時だけ本当にその言葉が合うな」
その夜、兵舎で小さなざわめきが起きた。
倉庫番のメズが、顔を青くして走ってくる。
「副官! ちょっと、来てください!」
レオルドもアイザックも、すぐに倉庫へ向かった。
荒らされているわけではない。
火が出たわけでもない。
だが、違和感がある。
「帳面の置き方が違うんです……」
メズが震える声で言う。
「あと、鍵を掛けたはずの棚が、一つだけ微妙にずれてる……」
小さい。
本当に小さい異変だ。
だが、こういう小ささほど厄介なこともある。
アイザックが低く言った。
「まだ誰にも言うな」
「は、はい……」
レオルドは棚のずれ、帳面の重なり、床の擦れを見た。
はっきり荒らした痕ではない。
むしろ、“見た”だけに近い。
だが、見た者は何かを探していた。
その瞬間、彼の中でほとんど確信に近いものが走る。
内通問題はまだ死んでいない。
そして本営使者の到着で、状況はさらに悪くなった。
記録帳へ、その夜こう書いた。
【第三十五日 所見】
・本営使者の聞き取りが現場の空気をじわじわ乱し始めている
・ 村側にも兵側にも“迷い”が混ざる
・ 倉庫周辺に微小な異変あり
・ 内通線はまだ生きている可能性高い
最後に一文。
【所感】
味方の監査は、敵の襲撃より厄介なことがある。
敵は壁を叩くが、監査は人の芯を揺らす。




