第13話 拾われた者たちは、少しずつ同じ砦を向き始める
勝ったあとの空気ほど、扱いの難しいものはない。
勝ったと思った瞬間に緩む者がいる。
やっと息をつけると気が抜ける者もいる。
逆に、ようやく報われたような気がして、一気に前へ出たくなる者もいる。
そのどれも間違いではない。
ただ、今のフロストゲート砦に必要なのは、浮かれることではなく、噛み合うことだった。
第十二日の迎撃から一夜明けた朝、砦の空気は確かに昨日までと違っていた。
兵たちの顔に、まだ疲れはある。
飯は薄いまま。寝台も固い。東柵の仮補強も一度持っただけで、盤石にはほど遠い。
それでも、見張りへ向かう足取りに、昨日までにはなかった芯が入っている。
「来ても持つ」
その感覚は、言葉にしなくても人の背筋を少し変える。
東壁上でリドが矢羽を整えている。
若い弓兵は、以前なら誰かに声をかけられるまで黙って作業することが多かったが、今日は自分からベルトンに何かを確認していた。
「昨日の二列目、あのくらいの間ならまだ射てますか」
老兵は横目で見て答える。
「風がなけりゃな」
「じゃあ今日、風が出たら少し寄せます」
「自分で考えるようになったか」
「……少しだけです」
「十分だ」
そのやりとりを遠目に見ながら、レオルドは小さく息を吐いた。
こういう変化こそが、砦の根を太くする。
誰かに言われた通り動くだけでなく、自分で見て、自分で次を考える兵が一人増える。それは数以上に大きい。
「何にやにやしてる」
背後からラグの声がした。
振り向くと、若い槍兵が肩に槍を担いだまま不満げな顔をしている。
ただし、その不満の色も以前ほど尖ってはいない。
「していません」
「してる」
「しているように見えるなら、たぶん気のせいです」
「気のせいでそんな顔になるかよ」
ラグは鼻を鳴らし、それから少しだけ声を落とした。
「……昨日、リドのやつ、夜までずっと弓の話してたぞ」
「良いことです」
「うるせえなって思ったけど、まあ……ああいう方がましなのかもな」
レオルドは頷いた。
「たぶん、そうです」
ラグは一瞬だけ気まずそうに視線を逸らす。
「俺は別に、浮かれてるわけじゃねえぞ」
「分かっています」
「本当か」
「ええ。浮かれるより先に、次に来たらどうするか考えている顔です」
ラグはむっとした。
「お前、本当に人の顔ばっか見てんな」
「役に立つので」
「気持ち悪い」
「褒め言葉として」
「違うって何回言わせる」
そう言いながらも、ラグの口元は少しだけ緩んでいた。
午前のうち、レオルドは砦の中をひと巡りした。
東柵ではドルゼンがすでに来ていて、昨日持ちこたえた仮補強のどこが軋み、どこが効いたかを確かめている。
片手に木槌、もう片手に炭。柵材へ何やら印をつけながら、ぶつぶつ文句を言っていた。
「そこを踏むな、若造! 昨日持ったからって今日も持つと思うなよ、木は生き物だ!」
ラグがすぐ反発する。
「木は生き物じゃねえだろ!」
「お前より気分屋だ!」
「何だそれ!」
そのやり取りに、近くの兵が吹き出す。
ドルゼンは文句を言いながらも、誰に何を持たせればいいか、どこを締め直せばいいかを即座に指示していた。口は悪いが、現場の流れを止めない。
レオルドが柵の横木へ手を当てると、ドルゼンがちらりと見た。
「昨日の持ち方は悪くなかったな」
「あなたの案のおかげです」
「俺の案を、お前らがちゃんと雑にしなかったからだ」
「褒め言葉として受け取ります」
「それ流行ってんのか?」
「最近よく使います」
ドルゼンは鼻を鳴らした。
「気色悪い軍配者だな」
だが、その声音には前回より明らかに棘が少ない。
気に入ったかどうかは別として、少なくとも“話が通じる相手”としては認め始めているらしい。
東柵を離れると、次は炊事場へ寄った。
セラが大鍋をかき回しながら、こちらを見るなり言った。
「今日の粥は昨日よりちょっとましだよ」
「豆が増えましたか」
「増えたってほどじゃないけど、倉庫の奥で生きてた袋があった」
「良かった」
「良かったじゃないよ、あんたが棚と床の間隔をうるさく言わなかったら、あれも湿気って終わってたかもしれないんだ」
その言葉は、炊事係なりの礼なのだろう。
セラは鍋杓子を振りながら続ける。
「あと、昨日火消しに走った若いのが、今朝から妙に偉そうなんだけど、どうにかしてくれないかい」
「自信がついたのでは」
「それ自体は結構。でも二回水を運んだくらいで英雄面は早い」
「伝えておきます」
「言うだけでいいよ。あんたが言うと、たぶん無駄に効くから」
それもどうなのかと思ったが、レオルドは黙って頷いた。
村との連絡に使っている小部屋では、ミレナが帳面を広げていた。
焼けた村の家屋、残った人数、炊き出し場所、仮設の寝床。
そこへ、砦から回した板材と縄の数、昨日の迎撃での避難時間まで書き足されている。
「昨日の避難、思ったより早かったですね」
レオルドが言うと、ミレナは顔を上げずに答えた。
「砦の方から先に声が飛んだから」
「間に合いましたか」
「ぎりぎり」
彼女はそこでようやく視線を上げた。
「でも、ぎりぎりで間に合うなら、前よりずっといい」
その表情は厳しいままだが、以前ほど壁一枚隔てた感じはない。
机の上には村図と砦図が並んでいた。
前なら別々に存在していたはずの二枚が、今は自然に同じ机へ置かれている。それだけでも大きな変化だった。
「こっちの導線、少し変えたい」
ミレナが指したのは、村から砦へ逃げ込む際の西寄りの小道だった。
「昨日は間に合ったけど、子どもと老人がここで少し詰まった」
「幅が足りない」
「あと、荷を抱えたまま動く人がいる」
「当然ですね」
「当然だけど困るの」
レオルドは頷く。
「捨てる物と持つ物を、先に分けた方がいいかもしれません」
ミレナは少し考えるように目を細めた。
「逃げる前提で荷を分けるの?」
「嫌な話ですが」
「ええ。嫌な話」
それでも彼女はその案を帳面の端へ書きつけた。
感情で止めない。そういうところが、やはり頼もしい。
「アイリスは?」
レオルドがふと訊くと、ミレナがわずかに眉を上げた。
「女騎士のこと?」
「ええ」
「医術師のところで足を見てもらったあと、今はまだ砦内で様子見でしょう。村の方には顔を出していない」
「そうですか」
ミレナは少しだけレオルドを見る目を変えた。
「気になるの」
「戦える人間は少ないので」
「便利な言い方ね」
「便利です」
彼女は小さく、呆れたように息を吐いた。
アイリスがいる部屋へ行くと、扉は半開きだった。
中では、彼女が壁際の椅子に座って窓の外を見ている。
足首には布が巻かれ、頬の傷も昨日よりましだ。拘束は解かれているが、完全に自由でもない。逃げようと思えば逃げられるが、逃げた先に何があるかは彼女自身も分かっているのだろう。
気配に気づいたのか、アイリスがこちらを見た。
「軍配者」
「レオルドで構いません」
「じゃあレオルド」
少しだけ間を置いてから、彼女は言う。
「昨日、外が騒がしかった」
「ええ。迎撃がありました」
「勝ったの?」
「崩れませんでした」
その答えに、アイリスはほんの少しだけ首を傾げる。
「変な言い方」
「この砦では、今はそれが一番大事なので」
彼女は窓の外へ視線を戻した。
「……分かる気がする」
その返答は少し意外だった。
だが敵味方を問わず、戦場を知る者なら、崩れないことの意味は分かるのかもしれない。
「足はどうです」
「走れるほどじゃない。でも斬るだけなら問題ない」
「斬らなくて済むと助かります」
「私もよ」
そこへ、ちょうどアイザックが通りかかった。
副官は部屋の入り口で立ち止まり、アイリスを見る。
「体はどうだ」
「死んでない」
「それは見れば分かる」
「なら聞かないで」
間髪入れず返す辺り、やはり気丈だ。
アイザックもそれを理解したのか、鼻を鳴らすだけで怒らない。
「医術師が言うには、数日は無茶するなだと」
「聞いてる」
「聞いてて守る奴に見えない」
「失礼ね」
「事実だ」
二人の会話を聞きながら、レオルドはふと思った。
この砦に今、必要な人間は明確だ。
前で支える者。
後ろで整える者。
繋ぐ者。
直す者。
見張る者。
そして、戦える者。
レオルド自身は前に立って剣を振る人間ではない。
だからこそ余計に、“誰をどこへ置くか”が見えてくる。
その日の午後、レオルドは簡単な軍議めいたものを開いた。
といっても、本格的なものではない。
内庭の端に木箱を寄せ、そこへアイザック、ドルゼン、ミレナ、ベルトン、ラグ、リド、そしてセラまで集まっただけだ。だがフロストゲート砦にとっては、それだけで十分“大げさ”だった。
「で?」
ラグが最初に言う。
「何だよ急に」
レオルドは木箱の上に簡単な図を置いた。
砦。
東柵。
西浅瀬。
南東林。
外集落。
倉庫。
炊事場。
「役割の整理です」
ドルゼンが眉をしかめる。
「役割ぃ?」
「誰が何を見るか、です」
アイザックは黙っている。
おそらく、必要性は分かっているのだろう。
レオルドは順に言った。
「副官は全体指揮。これは今まで通り。
東壁と射線はベルトンとリド。
門前と東柵の前線はラグたち槍兵。
西浅瀬と音仕掛けは副官直轄で兵を二名固定。
ドルゼンは柵と倉庫、それから材木の転用。
セラは炊事だけでなく、水桶と火消しの流れも見る。
ミレナは村側の避難導線と人数整理」
セラが鍋杓子こそ持っていないが、癖で腕を組みながら言う。
「私、随分忙しくないかい」
「今までも忙しかったでしょう」
「それはそう」
ミレナは図を見ながら静かに言う。
「要するに、“誰に聞けば早いか”をはっきりさせるのね」
「はい」
「兵たちにとっても必要ね」
アイザックがそこで口を開いた。
「今までは、全部が曖昧だった」
ラグが少し意外そうな顔をする。
副官が自分からそこを認めるとは思わなかったのだろう。
アイザックは続ける。
「兵が少ないから何でも兼ねるしかなかった。だが、そのせいで何か起きるたび、誰に従えばいいか一拍遅れていた」
ベルトンが低く頷く。
「それはある」
「だから、今の人数でも“まず誰が動くか”だけは決める」
副官のその言葉で、木箱の周りの空気が少し締まった。
レオルド一人の考えではなく、砦の副官の言葉として落ちたことが大きい。
ドルゼンが面倒くさそうに頭を掻く。
「俺は職人だぞ。指揮系統に入れるな」
「入っているというより、聞かれる側です」
レオルドが言う。
「現場で柵材のことを兵が毎回副官に聞きに行くのは無駄なので」
「……それはそうだが」
「ではお願いします」
「勝手に決めやがったな」
「嫌ですか」
「嫌だが、間違ってはいねえ」
それは承諾と同じだった。
ラグが何とも言えない顔で周囲を見回す。
「何か……急にちゃんとしてきたな」
セラが吹き出す。
「あんた、それ言うの今かい」
「だって昨日まで鍋と柵と見張りでそれぞれ好き勝手だったじゃねえか」
「好き勝手って言い方はやめろ」
アイザックが眉をひそめる。
「間違ってはいないけどな」とベルトンが小さく付け足した。
その場に小さな笑いが広がった。
重すぎない。だが軽くもない。ちょうどいい笑いだった。
やがて話は、次に備えて何を急ぐかへ移った。
東柵の増し締め。
西浅瀬の杭列。
村の避難荷の選別。
音仕掛け用の枝束。
倉庫の床離し。
そして、アイリスをいつまで様子見にしておくか。
そこまで話が及んだ時、ラグが思い切ったように言った。
「……あいつ、使えんのか」
レオルドが視線を向ける。
「あいつ、とは」
「女騎士だよ」
ラグは少しだけ口ごもりながら続ける。
「敵ってのは分かってる。でも、昨日廊下で見たら、足引いてるくせに背筋だけは伸びてた。ああいうの、前で立つ奴の顔だろ」
ベルトンが低く唸る。
「見るとこ見てんな、若造」
「うるせえ」
レオルドは少し考えた。
「使えるかどうかは、まだ分かりません」
ラグが舌打ちしかける。
「でも」
レオルドは続けた。
「終わっていない人間ではあります」
ミレナがその言葉に、ほんの少しだけ反応した。
たぶん、自分やガルグ、砦の兵たちにも通じる表現だと感じたのだろう。
その日の軍議もどきが終わる頃には、陽はかなり傾いていた。
皆が散っていく中で、レオルドは木箱の上に残った図を見下ろした。
まだ不揃いだ。
噛み合っているとは言っても、完璧にはほど遠い。
ラグとガルグが顔を合わせれば今でも火花が散るし、ドルゼンは口より先に文句が出る。ミレナも砦側を完全には信用していない。アイザックも自分の中でまだ背負いすぎている。
それでも、前とは違う。
誰が前に立ち、誰が見て、誰が直し、誰が繋ぐか。
その輪郭が、ようやく砦の中に生まれ始めていた。
レオルドは部屋へ戻り、記録帳を開く。
【第十三日 所見】
・迎撃後、兵の空気やや上向き
・リド、自発的に射線調整を考え始める
・ラグ、前線での役割意識強まる
・ドルゼン、現場判断役として有効
・セラ、水と火消しの流れ管理適性あり
・ミレナ、村側統括として不可欠
そこまで書いてから、少しだけ考えた。
この砦は、捨てられた者ばかりが集まる場所だ。
追放軍配者。見捨てられた兵。焼けた村。切り捨てられた女騎士。
だが、だからこそ拾い直せるものもあるのかもしれない。
最後に、こう書き足した。
【所感】
拾われた者たちは、まだ不揃いだ。
だが不揃いなままでも、同じ方向を向き始めることはできる。
記録帳を閉じる。
外では、見張り交代の声がする。
その声はまだ洗練されていない。だが、前より確かに迷いが少ない。
フロストゲート砦は、ようやく“誰か一人が支える場所”から、“何人かで持たせる場所”へ変わり始めていた。




