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現実の中の

 現実いまの俺を動かしていたのは、もはや生存本能ではなく、レコーダーの磁気テープを回すための惰性だけだった。

 あっちの世界で、あかりと並び立ち、喝采を浴びる。その眩い光に触れれば触れるほど、現実の風景はモノクロの砂嵐のように色褪せていった。

 美希が何かを叫んでいる。洋輔が怯えた目で俺を見ている。

 だが、その声は水中にいるように遠く、何を言っているのか理解できない。いや、理解したくなかった。

 

「……ねえ、聞いてるの!?」

 

 食卓で、美希が皿を叩きつけた。

 俺は、無意識に左耳を塞いでいた。イヤホンは外している。だが、俺の鼓膜にはまだ、あっちの世界で聞いたあかりの「藍原くん」という囁きが残響としてこびりついているのだ。

 

 「……ああ、聞こえてるよ」

 「嘘よ。あんた、ずっと空を見てニヤニヤして……気持ち悪い。洋輔が怖がってるじゃない。いい加減にしてよ!」

 

 美希の怒声が、俺の神聖な残響を汚す。

 苛立ちがせり上がった。俺は、自分でも驚くほど冷酷な声で言い放った。

 

 「うるさいな。静かにしてくれないか。今、大事なところなんだ」

 

 大事なところ。

 それは、あっちの世界で次にどんな芝居をするか、どうやってあかりを喜ばせるかという空想だった。

 美希は絶句し、やがて力なく笑った。

 

 「……大事なところ? 家族の食事より、そのボロいレコーダーの中身が大事なの? あんた、本当におかしくなったのね」

 

 その日を境に、俺の異常行動は加速した。

 仕事には行かず、物置に引きこもって一日中レコーダーを抱えていた。

 食事は喉を通らず、ただあかりの声を聴くことで精神の飢えを満たす。

 風呂にも入らず、髭も剃らない。鏡に映るのは、目が血走り、頬がこけ、死臭を漂わせる男の成れの果てだ。

 

 「藍原くん、大好きだよ」

 

 レコーダーから流れるその声を聴きながら、俺は物置の壁に頭を打ち付けていた。

 幸せで、苦しくて、たまらない。

 現実の空気が、肺を焼く毒ガスのように感じられた。

 そして、ついにその日が来た。

 あっちの世界で、俺を庇ってあかりが死んだ夜。

 俺は物置の中で発狂した。

 

 「あああああ! あかり! あかりいいい!!」

 

 壁を殴り、床を掻きむしり、獣のような咆哮を上げた。

 あかりの血の感触が、まだ手のひらに残っている。あっちの世界の絶望が、現実の俺の脳を焼き切ったのだ。

 

 「いい加減にしてッ!!」

 

 扉が蹴破るように開いた。

 そこには、震える手で離婚届を握りしめた美希が立っていた。

 背後では、洋輔が泣きじゃくりながら、実家の祖母に電話をかけている。

 

 「もう無理。一分一秒だって、あんたと同じ屋根の下にいたくない。……あんた、自分が今どんな顔をしてるか分かってるの? 怪物よ。ただの不気味な怪物!」

 

 美希は俺の荷物をゴミ袋に詰め、玄関へと放り投げた。

 俺は抵抗しなかった。いや、できなかった。

 俺の魂は、あかりの死と共にあの夜のアスファルトに置き去りにされていた。

 

 「出て行って。二度と、私たちの前に現れないで」

 

 叩きつけられた離婚届。

 降りしきる雨。

 俺は、ボロ雑巾のように街へと放り出された。

 家族を捨て、正気を捨て、過去の栄光さえも最愛の人の死で塗り潰された。

 俺の手元に残ったのは、あかりを救えなかったという、録音された絶望だけだった。




 あかりが俺を庇って死んだ、あの雨の夜から、俺の時間は止まった。

 レコーダーのスイッチを入れるたび、聞こえてくるのは彼女が冷たくなった後の、静止したノイズだけ。あっちの世界へ戻っても、そこには最愛の人の亡き後を悼む、空虚な「成功者」の椅子が用意されているだけだった。

 俺は、あかりのいない過去に耐えられず、かといって美希に追い出された現実にも居場所はなく、ただ数ヶ月の間、街を彷徨う亡霊となった。

 仕事はとうにクビになった。

 離婚届に判を押し、手元に残った僅かな金も底をついた。

 身なりを整える気力もなく、頬はこけ、目は落ち窪み、かつての面影はどこにもない。

 俺は、あかりを死なせた自分の右腕を呪いながら、公園のベンチや高架下で、ただ死を待つだけの日々を過ごしていた。

 

 「……あかり……ごめん……」

 

 冬の入り口の冷たい雨が降る、ある夜のことだった。

 高架下の湿った地面に横たわりながら、俺は電池の切れかかったレコーダーを抱きしめていた。もう、彼女の声すら満足に再生できない。

 (ああ……もう、いいかな。俺も、そっちへ行こう……)

 意識が薄れゆく中、俺の視界に、雨を弾く一足のスニーカーが映った。

 

 「……あの。大丈夫ですか?」

 

 その声が鼓膜を震わせた瞬間、俺の全身が痙攣した。

 幻聴だ。死ぬ間際に見る、幸福な幻に違いない。

 だが、その声は雨音を切り裂き、あまりにも鮮明に、俺の魂の底を叩いた。

 俺は泥水に顔をつけながら、必死で顔を上げた。

 視界が、涙と泥で濁る。

 そこには、壊れかけのビニール傘を差した、一人の女性が立っていた。

 

 「あ…………っ」

 

 喉の奥から、言葉にならない、獣のような叫びが漏れた。

 数ヶ月間、一滴も出なかったはずの涙が、堰を切ったように溢れ出す。

 

 「あかり! あかり! あああああああああッ!!」

 

 俺は這いずり回り、泥まみれの手で彼女の足首を掴んだ。

 

 「生きていた……! 生きていてくれたのか! ごめん、ごめんあかり! 俺が……俺が馬鹿だったんだ! 全部俺のせいだ……!」

 「きゃああっ!? 何……!? 放して!」

 

 彼女は悲鳴を上げ、必死に俺を振り払おうとする。

 だが、今の俺にとって、この足の温もりだけが、唯一の現実だった。

 「行かないでくれ! もう二度と離さない! 君が死ぬくらいなら、俺が……俺が死ねばよかったんだ……!」

 

 「誰よ、あなた!? 警察を呼びますよ! 助けて!」

 

 彼女の拒絶の声。

 その冷たさに、俺の熱狂した脳が、氷水を浴びせられたように凍りついた。

 

 ……見上げた先。

 あかりの瞳には、かつて俺に向けてくれた信頼も、慈愛もなかった。

 そこにあるのは、薄汚い、狂気に取り憑かれたホームレスに対する、剥き出しの「恐怖」と「嫌悪」だけだった。

 

 「……あ…………」

 

 俺は、彼女の服を汚していた自分の泥だらけの手を、ゆっくりと離した。

 

 あっちの世界で死んだ彼女が、この世界では「俺など知らない他人」として生きている。

 

 「……すみません。……死なせてしまった人に、あまりにも……似ていたから……」

 

 俺は、力なく地面に突っ伏した。

 そのあまりに深く、救いようのない絶望の響きに、彼女は通報しようと取り出したスマホを握ったまま、立ち尽くした。

 

 雨の中、沈黙が流れる。

 

 「……藍原……春一郎、です。……松村さん……すみません、忘れてください」

 

 俺が掠れた声で喋ると、彼女の肩が、びくりと跳ねた。

 

 「……藍原……さん? どうして、私の名字を……それに名前も……」

 「え……?」

 

 今度は俺が驚く番だった。

 あかりは、震える手で傘を握り直し、泥にまみれた俺を凝視した。

 

 「私、松村あかり。……あなた、何者なの? どうして私の名前を……」

 

 その瞬間、俺は理解した。

 この現実世界では、彼女は同じ名前で、同じ人間として存在しているのだ。

 ただ、あっちではスター声優になり、こっちでは……。

 

 「……あなたの、声。……昔、養成所で聞いたことがあったんだ。……ずっと、忘れてなかった」

 

 咄嗟に吐いた嘘だった。だが、あかりは、何かに打たれたように目を見開いた。

 彼女もまた、この数ヶ月、いや数年、誰にも自分の声を「覚えていてもらえていない」孤独の中にいたのだ。

 

 「……変な人。……でも、そんなに私の声を覚えていてくれた人が、こんなところで死ぬのは……なんか、嫌」

 

 あかりは、震える細い指を俺に差し出した。

 

 「立ちなよ、藍原さん。……服、貸してあげるから。私の部屋、すぐそこだし」

 

 それは愛ではなく、同じ泥濘の中にいる者同士の、共鳴だった。

 俺は、彼女の生きた温もりを求めて、震える手を伸ばした。

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