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孤高の星

過去の世界、その熱気は本物だった。

 ついに始まった新作アニメ『銀河の葬列』の第一話アフレコ。スタジオには、画面の向こう側でしか見たことのない大御所声優たちが顔を揃えていた。

 「新人です。藍原春一郎、よろしくお願いします!」

 挨拶をする二十一歳の俺。だが、マイクの前に立った瞬間、俺の意識は三十五歳の「プロ」へと切り替わる。

 テスト開始。

 俺が演じる士官・カインが、戦場で散った部下を弔うシーン。

 「……死ぬのは怖くないと言ったな。だが、遺される者の恐怖を、お前は一度でも考えたか?」

 スタジオの空気が一変する。

 ただの悲しみではない。数多の理不尽な別れを経験してきた者にしか出せない、深みのある「枯れた声」。

 隣でマイクを待っていたベテラン声優が、思わずといった風に俺を二度見した。

 「はい、チェック終了。……藍原くん、今の最高。そのまま本番行こう」

 スピーカー越しに届く監督の声は、確信に満ちていた。

 これだ。この「認められている」という痺れるような感覚。

 収録後、大友先生が俺の背中を叩いた。

 「藍原。……正直、お前をなめていた。今の芝居、完璧だ」

 「ありがとうございます、先生」

 「今日、この後空いてるか? 現場の連中と飲みに行くぞ。お前を連れていきたい奴らが山ほどいる」

 最高だった。

 俺の人生は、今、間違いなく光の渦の中にいる。

 アニメの収録現場はスケジュールの都合上、別々で撮ったものを合流させることも多い。だから俺が最初に複数撮りの現場で出会った「本物の光」は、彼女だった。

 新作アニメ『銀河の葬列』のスタジオ。戻った俺が今までの経験を総動員してようやく食らいついた現場で、彼女はすでに若きエースとして君臨していた。

 松村あかり。弱冠二十歳にして、業界の大人たちを唸らせる憑依型の天才だ。

 「新人です、藍原春一郎。よろしくお願いします!」

 挨拶をする俺に対し、彼女は台本から目を離さず、短く「よろしく」とだけ答えた。

 凛とした横顔。スタジオの冷たい空気さえ、彼女の周囲では研ぎ澄まされた刃のように感じられた。

 当時の俺からすれば、彼女は遥か高い場所を飛ぶ一番星。憧れというよりは、畏怖に近い感情を抱かせる存在だった。

 「――藍原、今のセリフ。もう少し、カインの『迷い』を削ぎ落として」

 「……はい」

 現場での彼女は、先輩として容赦なかった。

 「今のままじゃ、私の声に負けます。このシーンは、彼が私を圧倒しないと成立しないんです」

 あかりの厳しさは、俺を「同じ土俵に立つ表現者」として認めているからこその熱量だった。

 その期待に応えたい。プライドではなく、純粋にこの人の隣で、対等な声を響かせたい。

 俺の「過去への執着」は、いつしか、あかりという光と並んで歩くための渇望に変わっていった。

 収録開始から数ヶ月。

 俺たちはよく、スタジオ近くの自販機の前で、冷めた缶コーヒーを飲みながら演技論を戦わせた。

 「私ね、藍原くんの声、好きよ。テクニックは荒削りだけど……なんだろう。あなたの声には、何十年も生けてきたみたいな、重い『痛み』が混ざってる。不思議な新人さん」

 不意に見せた、彼女の柔らかい微笑。

 スタジオで見せる戦士の顔ではない、俺より若い年相応の、どこか危ういほどに純粋な笑顔。

 「あかりに追いつきたい。ただ、それだけだ」

 「ふふ、呼び捨てにするようになったわね。いいよ、その意気」

 それからの俺たちは、文字通り「戦友」になった。

 芝居の壁にぶつかれば朝まで語り合い、辛いことがあれば一番に声を掛け合う。

 憧れの先輩だった彼女は、いつしか、この過酷な世界を共に泳ぐ唯一無二のパートナーになっていった。

 そして最終話の収録前夜。

 「藍原くん。私、この作品が終わったら、あなたに伝えたいことがあるの」

 少し顔を赤らめた彼女の言葉に、俺の胸は熱くなった。

 ずっと冷め切った家庭で「無能」と罵られ、愛を諦めていた俺に、久しぶりに訪れた本当の恋。

 俺は誓った。この作品を成功させて、必ず彼女に想いを返そうと。

 だが、運命はあまりに残酷だった。

 最終話の収録後、打ち上げに向かう途中の夜道。

 「あかり! ずっと、ずっと俺のものだと思ってたのに……! うわぁぁぁ!!!!」

 狂気的な叫びと共に、男の手から光る刃が突き出された。

 「っ!? あかり――っ!」

 俺は咄嗟にあかりを突き飛ばした。

 かろうじて包丁をかわすと右腕に痛みが走る。包丁が擦れ、俺の腕の皮膚を裂いた。

 「ッ!? ……いってぇーな!」

 「お、……お前が悪いんだ!! ぼ、僕のあかりちゃんに……うわぁぁあ!!」

 錯乱した男が出鱈目に包丁を振り回す。

 あかりは俺が突き飛ばしたせいで脚を擦りむいたようで立ち上がれずにいる。男はそんなあかりに向かって走り出す。

 「やめろッ!」

 「あかりちゃん、あかりちゃん……! 君が汚れるくらいなら、僕が、僕がっ!」

 男の掲げた刃が、街灯の光を反射して白く光った。

 あかりは恐怖に顔を引き攣らせ、見開いた瞳で死を待つことしかできない。

 「逃げろッ! あかり――ッ!!」

 俺は必死で手を伸ばした。

 あかりの腕を掴み、自分の背中に隠そうと、無理やり彼女を抱き寄せる。

 だが、重心を崩した俺の懐に、男の狂気が潜り込んだ。

 「死ねえええええ!!」

 ドスッ、という鈍い音が耳元で響いた。

 ……痛みがない。

 代わりに感じたのは、腕の中にいたはずのあかりが、俺の胸を強く突き飛ばした感触だった。

 「……藍原……くん……」

 力が抜けたような、掠れた声。

 よろめきながら彼女の顔を覗き込んだ俺は、息が止まった。

 彼女の白いワンピースの腹部が、急速に赤く染まっていく。

 男が振り下ろした刃は、俺を庇うようにして割り込んだ、あかりの身体を深く貫いていた。

 「あ……あかり? なんで……なんでだよ!」

 「よかった……。藍原くん、怪我……してない……?」

 彼女は力なく笑い、崩れ落ちた。

 俺は狂ったように彼女を抱きかかえる。温かい。温かすぎる血が、俺の手を、服を、地面を染めていく。

 「嫌だ! 待て、あかり! 止まれ、止まれよッ!」

 俺は必死で傷口を塞ごうとした。だが、指の間から命がこぼれ落ちていく感覚を、止める術を俺は知らない。

 「藍原、くん……大好き、だよ。……あなたの声……もっと、聴きたかっ……」

 彼女の瞳から光が失われ、その華奢な身体から力が抜けていく。

 世界で一番美しかった「藍原くん」という響きが、二度とこの世から失われた瞬間だった。

 俺は絶叫した。

 あかりの亡骸を抱きしめ、天を仰いで、喉が裂けるほどに泣き叫んだ。そしてそんな声もアスファルトに溶けて消えた。

 暴れる男を近くの人達が抑えこんでくれている。辺りの喧騒も、騒がしい悲鳴も今の俺には届かない。

 元の世界に戻った俺は狂ったようにレコーダーを握りしめ、再生ボタンを押した。

 (戻れ! 戻ってくれ! あかりを助けさせろ!)

 だが、レコーダーが示す「現在地」は、無情にも彼女が倒れた直後の時間のままだった。

 このレコーダーは、タイムマシンのように任意の場所へ飛べる道具ではない。

 あくまで、あっちの世界の「最新の記憶」までしか戻れないのだ。

 死んだ人間を生き返らせることはできない。

 俺は、自分が作り上げた「栄光の過去」の中で、最愛の女性を永遠に失うという最悪の結末を確定させてしまったのだった。

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