勢い
過去の世界での俺は、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
端役で爪痕を残した俺に、大友先生は次々と「現場」を繋いでくれた。二十一歳の若さと、三十五歳の老練な解釈。そのアンバランスな魅力に、監督やプロデューサーたちが色めき立つのを肌で感じた。
「藍原、今度の新作でレギュラーのオーディションがある。受けてみないか?」
大友先生から渡された、一冊の薄い台本。
そこには、近未来を舞台にしたSFアニメのタイトルが記されていた。役どころは、主人公のライバルであり、影を背負った士官の青年。
かつての俺――本当の二十一歳だった頃の俺は、このオーディションに書類選考で落ちた。声のサンプルさえ聴いてもらえなかった。
だが、今の俺は違う。
「……やらせてください。必ず、獲ってきます」
「いい面構えになったな。今の貴様なら、あるいは……」
大友先生が、期待を込めて俺の肩を叩く。
その手の重みが、筋肉の躍動が、肉体を通して生々しく伝わってくる。あっちの世界では決して味わえない、確かな「手応え」がここにはあった。
オーディション当日。
会場となる大手制作会社のロビーは、異様な緊張感に包まれていた。
周りを見渡せば、すでに名前の売れている若手や、養成所の精鋭たちが、死ぬ気で台本を読み込んでいる。
かつての俺なら、その空気に呑まれていただろう。
だが、今の俺は、彼らの焦りさえ「若さゆえの可愛らしさ」としか感じなかった。
「次、藍原春一郎さん。入ってください」
名前を呼ばれ、俺はスタジオの重い防音扉を開けた。
正面に座るのは、業界でも指折りの音響監督と、原作者。彼らの目は、新しい才能を渇望すると同時に、妥協を許さない鋭さを持っていた。
「……始めます」
俺はマイクの前に立ち、深く息を吸った。
演じるのは、自らの信念のために友を裏切り、孤独な戦いに身を投じる男。
俺は、美希に「無能」と罵られ、洋輔に無視され、居場所を失ったあの物置の寒さを思い出した。
自分の血を分けた子さえ持てず、ただ時間が過ぎ去るのを待つだけの、あの絶望的な「今」。
「――俺には、守るべき過去さえ、もう残っていないんだ」
声を出した瞬間、空気が変わった。
二十一歳の澄んだ響きの中に、人生を半ば諦めた男の、乾いた「諦念」が混ざり込む。
台本に書かれた言葉以上の何かが、俺の喉から溢れ出した。
演技ではない。これは、俺の人生そのものの叫びだった。
マイクから離れた後、数秒の静寂がスタジオを支配した。
音響監督がペンを置き、食い入るように俺の顔を見る。
「……藍原くん、だったね。君、どこかで現場踏んでた? その『間』の取り方、新人のそれじゃないよね」
「いえ、大友先生のところで勉強させていただいています」
「そうか。……面白い。非常に面白いよ」
監督の口角が上がる。その瞬間、俺は確信した。
(――獲った。この役は、俺のものだ)
結果は数日後、大友先生からの興奮した電話で伝えられた。
「藍原! 決まったぞ! 制作サイドの満場一致だそうだ。お前、一体何をした?」
「……ただ、必死にやっただけですよ」
電話を切った後、俺は誰もいない安アパートで、拳を握りしめて叫んだ。
報われた。俺の十五年間は無駄じゃなかった。
三十五歳までのあの泥をすするような日々があったからこそ、この栄光を掴み取れたんだ。
だが、その全能感に酔いしれる俺を、無慈悲な「引き潮」が現実へと引き戻す。
「――っ」
意識が切り替わった瞬間、鼻を突いたのはワックスの匂いではなく、カビ臭い物置の空気だった。
狭い隙間から差し込む朝の光。体中の関節が悲鳴を上げている。
「……あ、あ、ああ」
喉を鳴らしてみる。二十一歳の時のあの軽やかさはどこにもない。
三十五歳の、使い古されたボロ雑巾のような自分の体。
「ちょっと! さっさと起きなさいよ!」
物置の扉が乱暴に開け放たれる。美希だ。
彼女は掃除機を俺の脚に叩きつけるように押し当てながら、嫌悪感を隠そうともせずに吐き捨てた。
「いつまでそんなところで寝てるの? 気持ち悪い。あんた、会社はどうしたのよ」
「……今、行くよ」
「本当に無能ね。給料だって下がったくせに、せめて遅刻くらいしないようにしたらどう? あんたに残された価値なんて、それくらいしかないんだから」
美希の言葉は、以前よりもさらに鋭く、冷たくなっていた。
かつては愛し合っていたはずの女が、今では俺をゴミのように扱う。
「洋輔、学校行くわよ。……あ、不潔な人には近づかなくていいからね」
リビングから聞こえる、彼女の残酷な教育。
洋輔の、無言の肯定。
(……いいさ。もう、どうでもいい)
俺は冷え切った食卓に並んだ、カピカピに乾いたパンを口に運んだ。
味もしない。色彩もない。
だが、俺の心は不思議と穏やかだった。
なぜなら、俺の手元にはあのレコーダーがある。
あっちの世界に行けば、俺は必要とされ、賞賛され、光り輝く主役になれるのだ。
この現実なんて、あっちの素晴らしい人生を送るための「ただの待ち時間」に過ぎない。
俺は、ボロボロのスーツに身を包み、死んだ魚のような目で満員電車に揺られた。
同僚の失笑も、上司の罵倒も、美希の冷徹な言葉も、すべてが遠い世界の出来事のように感じられた。
俺の本体は、あのスタジオにある。
この肉体は、ただ呼吸をしているだけの抜け殻だ。
「……あと少し。夜になれば、また戻れる」
俺は、指先でポケットの中のレコーダーに触れた。
そのひんやりとした金属の感触だけが、俺を繋ぎ止める唯一の希望だった。
家庭が壊れていく音。美希の心が、完全に俺から離れていく気配。
そんなものは、あっちで手に入れる「レギュラー役」の輝きに比べれば、砂埃のようなものだった。
俺は、狂気へと足を踏み入れていることに気づかないまま、次の「同期」を、黄金の雨を、ただひたすらに渇望していた。




