万能薬の劇薬
「――やらせてください。今の俺にしか出せない声を、聴いてほしいんです」
俺の言葉に、スタジオ内の空気が凍りついた。
さっきまでパニックで逃げ出した男が、憑き物が落ちたような顔で戻ってきたのだから当然だ。
大友先生は、深すぎる眉間の皺をさらに深く刻み、鼻を鳴らした。
「……いいだろう。そこまで言うなら、死に体の芝居を晒してみろ」
俺はマイクの前に立つ。二十一歳の瑞々しい肉体。
肺活量も柔軟性も、三十五歳の時とは比べ物にならない。
手にした台本は、戦場で死にゆく兵士が、故郷の恋人へ最後に残すモノローグだ。
俺は目を閉じ、現実の自宅――あの氷のように冷え切ったリビングを思い浮かべた。
自分を蔑む美希の視線。居るだけで罪悪感を植え付けられるあの閉塞感。何一つ残せないまま、ただ砂のように消えていくだけの自分。
「……ああ、空が、あんなに青いなんて……」
声を出した瞬間、自分でも驚いた。
二十一歳の若く艶のある声に、三十五歳のドロドロとした怨念と後悔が混じり合い、聴く者の鼓膜を震わせる「音」になった。
スタジオが、静まり返る。ページをめくる音さえしない。
数秒の沈黙の後、大友先生はゆっくりと眼鏡を外した。
「藍原。……お前、何があった。今のテイク、悪くない。いや、化けたな」
三十五歳の俺が喉から手が出るほど欲しかった称賛が、今、二十一歳の俺の元に届いた。
「藍原、飯に行くぞ。お前の今の芝居、もう少し詳しく聞かせろ」
稽古後、大友先生に連れられた駅裏の居酒屋。二十一歳の俺には眩しすぎる「大人の社交場」で、酒を酌み交わし、演技論を戦わせる。
これこそが、俺がずっと送りたかった人生だ。
だが、ふとした瞬間に視界が揺れた。強烈な引き潮のような感覚。
「――ねえ! ちょっと! いつまで寝てるのよ!」
身体を乱暴に揺さぶられる衝撃。
目を開けると、そこには居酒屋の赤提灯ではなく、自宅の物置の、埃っぽい床があった。
「……っ」
「いつまでそこで死んでるの? 邪魔なんだけど。掃除機かけられないでしょ」
美希が、掃除機をガツガツと俺の足にぶつけながら吐き捨てる。
心配の欠片もない、苛立ちだけが剥き出しになった声。
(……あと少しだったのに。先生が、次の仕事の話をしようとしてたのに)
脳内を満たしていた万能感が、急速に現実の「悪意」に汚染されていく。
リビングに出ると、洋輔が食卓の端で小さくなってパンを齧っていた。
「おはよう、洋輔」
声をかけても、彼は返事すらしない。
「あ、昨日洋輔のサッカーの試合だったのよ。あんたが来なかったから、ママ友に『旦那さん、またお仕事(笑)?』って笑われたわ。本当に恥ずかしい」
掃除を終えた美希が冷めたコーヒーをすすりながら、トゲのある言葉を投げつけてくる。
「……仕事が抜けられなかったんだ」
「ふん、どうせ大した仕事じゃないくせに。あんた、自分の子供も作れないんだから、せめて洋輔の父親くらい完璧にやったらどうなの? 無能なんだからさ」
心臓の奥が、ギリリと痛んだ。
小麦の味もしないトーストを口に押し込む。
(……いいんだ。どうせここは、俺の場所じゃない)
彼女の罵声を聞き流しながら、俺は二十一歳の体で飲んだ、あの美味い酒の余韻と、大友先生の称賛だけを必死に手繰り寄せていた。
今日は休みで暇な時間がある。物置部屋に布団を敷くと、俺は再び、レコーダーのスイッチを入れた。
「――藍原、チャンスだ。急遽、現場に欠員が出た。行けるか?」
大友先生からの打診。
それは、二十一歳の俺が夢にまで見た、本物のアニメのアテレコ現場だった。
場所は都内の大手スタジオ。テレビで見ていたスター声優たちが、当たり前のようにそこに座っている。
挨拶をして席に着く。現場のピリついた空気、マイクの前に立つ時の独特の緊張。
「今の俺」には、若手にはない「現場の空気を読む力」と「失敗への開き直り」がある。
役は、死にゆく敵の兵士。セリフは三つ。
だが、テストで声を出した瞬間、ミキサー室にいた監督が立ち上がるのが見えた。
「……今の、誰? 良いね、一発で行こうか」
脳内にエンドルフィンが溢れ出し、指先まで痺れるような感覚。
美希に言われた「無能」という言葉が、監督の「良いね」という一言で上書きされていく。
これだ。これなんだよ。俺という人間が、今、確かにこの世界の中心にいるという確信。
その日の収録は大絶賛で終わった。
「君、良い声してるね。また別の現場でも呼ぶよ」
監督にかけられたその言葉は、俺にとって、どんな麻薬よりも中毒性の高い劇薬だった。
大友先生も、自分のことのように誇らしげに笑っている。
「藍原、次はもっと大きな役が来るぞ。準備しておけ」
次は。もっと。さらに。
俺の意識は、もはや三十五歳の現実になど戻りたくはなかった。
あの冷酷な女に罵倒され、子供もできず、ただ老いていくだけの藍原春一郎を、もう一秒だって生きたくない。
俺は、大友先生と別れた後の夜の街で、夜空を見上げた。
二十一歳の、澄み渡った視界。
次のチャンス、次のステージ、次の成功。
俺の頭の中は、その輝かしい未来への渇望で、はち切れんばかりに満たされていた。




