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第1話:死んだ情報の海で

 俺の「今」は、砂のようにこぼれ落ちる。

 「本日は、お忙しい中お時間をいただき……」

 自分の声が、営業先の会議室に虚しく響く。

 藍原春一郎、三十五歳。中堅商社の冴えない営業マン。

 かつて養成所の講師に「お前の声には、聴く者の心を締め付けるような切実さがある」と評されたその喉は、今では取引先の機嫌を伺うための、滑らかな、そして何の特徴もない「愛想笑い」を吐き出す装置に成り下がっていた。

 商談を終え、オフィスに戻る途中の地下鉄。

 冷房の効きすぎた車内で、俺はドアの窓に映る自分を見つめる。

 (……ああ、まただ。また消えていく)

 ふとした瞬間に、強烈な恐怖が俺を襲う。

 数時間前、確かに俺は笑っていた記憶がある。

 昼飯が美味かった記憶も、誰かと冗談を言った事実も、脳の記録媒体には残っている。

 でも、その時の「楽しさ」や「美味さ」といった、生々しい感覚そのものを、今の俺はもう思い出せない。

 時が経てば経つほどに、それは顕著に現れる。

 感覚は、指の間からこぼれ落ちる砂のようだ。

 「今」という一点をどれだけ強く握りしめても、次の瞬間にはただの「死んだ情報」に変わっている。

 このままいけば、次の瞬きをした時には数年が経ち、その次の瞬間には俺の人生は終わっているのではないか。

 何も残せず、何も刻めず、ただ透明な時間が過ぎ去っていく。

 それが死ぬほど怖かった。

         ---

 「ただいま……」

 玄関を開けても、温かい出迎えなんてものはない。

 代わりに聞こえてくるのは、テレビの音と、それよりもうるさい舌打ちの音だ。

 「ちょっと、遅かったじゃない。スーパーの割引、終わっちゃったんだけど」

 ソファでスマホをいじりながら、妻の美希が顔も上げずに言い放つ。

 藍原美希、三十三歳。バツイチの子持ち。俺の妻だ。

 「……悪かった。トラブルがあって」

 「言い訳はいいわよ。あんたの安月給で、私と洋輔がどれだけ我慢してるか分かってる? せめて時間くらい守りなさいよ、無能なんだから」

 食卓には冷めきった惣菜がポツンと置かれていた。

 「洋輔は?」

 「部屋にいるわよ」

 洋輔は自分の部屋に閉じこもっている。

 美希が日頃から俺の陰口を叩いているせいか、最近では俺と目を合わせることすらしない。

 三人で撮った家族写真。そこにある俺の笑顔は、今の俺から見れば他人のそれだ。

 洋輔はいい子だ。

 だが結婚して3年経つが、結局他人の息子のままの感覚なのは俺が悪いのだろうか……。

 未だにわからない。

 俺と美希の間には、結局子供ができなかった。

 「あんたのせいで、もう一人は無理になったんだから」

 不妊治療を諦めた夜、彼女が吐き捨てた言葉が、今も棘のように刺さっている。

 彼女には洋輔という「生きた証」がある。

 でも、俺がこの世に生み出したものは何もない。

 自分の「今」を、何一つ未来へ残せていない恐怖が、俺を蝕んでいた。

 その夜、俺は居場所を求めて物置へ逃げ込んだ。

 リビングにいれば美希に「視界に入るだけで不愉快」と言われ、寝室に行けば「こっちに来ないで」と背を向けられる。

 四畳半ほどの狭い物置。

 そこだけが、この家で俺が唯一、誰にも否定されずに呼吸できる場所だった。

 「……捨てるって言ってたな、これ」

 隅に積まれた、引越しの時から一度も開けていない段ボールが目に入る。

 美希から「ガラクタばかり場所を取って邪魔。明日全部捨てるから」と宣告されていた箱だ。

 俺はせめて、自分がかつて「何者か」になろうとしていた証拠だけは、最後に一度だけ確認しておきたかった。

 ガムテープを剥がし、埃まみれの奥底から取り出したのは、一台のポータブルレコーダーだった。

 二十一歳の俺が、自分の声を録音し続けていた残骸。

 電池を入れ、再生ボタンを押す。

 ノイズ混じりの音の中から、傲慢なほどに澄んだ、若い自分の声が流れてきた。

 『――俺は、ここにいる。お前たちがいくら否定しようと、この声は届くはずだ!』

 その声を聴いた瞬間、脳の奥が焦げ付くような熱を持った。

 視界がぐにゃりと歪む。

 安っぽい芳香剤の匂いが消え、代わりに、ワックスと汗の入り混じった、強烈に懐かしい匂いが鼻を突いた。

 「――おい、藍原! 何ボサッとしてるんだ!」

 鼓膜を突き刺す怒号。

 気づくと、俺は立っていた。

 目の前には、白髪混じりの厳しい目をした男――養成所の鬼講師、大友がいた。

 「え……? 大友、先生……?」

 俺は呆然としながら辺りを見回した。

 そこは、十四年前に通っていた養成所のスタジオだった。

 周りには、同じジャージ姿の若い塾生たちが、怯えたような、あるいは蔑むような目で俺を見ている。

 「先生? 寝ぼけてるのか? お前の番だと言ってるんだ。マイクの前に立て!」

 俺の頭はパニックで真っ白になった。

 足の裏に伝わる床の硬さ、喉の奥の乾燥した感じが、あまりにもリアルすぎる。

 俺は部屋着だったはずだ。なのに、今は薄汚れたジャージを着ている。

 手も、さっきまでの節くれ立った三十五歳のそれじゃない。

 「あの、すみません……ここ、どこですか? 俺、仕事の途中で……あ、いや、家で……」

 「何をわけのわからんことを! 嫌なら帰れ! 代わりはいくらでもいるんだぞ!」

 大友が机を叩く。その大きな音に、俺の肩が跳ねた。

 「す、すみません……ちょっと気分が……」

 「帰れ! 芝居をなめるな!」

 怒鳴り散らされ、俺は逃げるようにスタジオを飛び出した。

 廊下を走り、トイレに飛び込む。

 鏡を覗くとそこに映っていたのは、疲れ果てた三十五歳の営業マンではなく、まだ何者でもなかった、二十一歳の藍原春一郎だった。

 「嘘だろ……」

 自分の頬を叩く。痛い。

 冷たい水で顔を洗う。あまりの冷たさに心臓が跳ねる。

 これは夢じゃない。夢であってほしくない。

 そう思った瞬間、急激な眩暈に襲われた。

 視界が暗転し、引きずり込まれるような感覚――。

 「……っ、はぁ、はぁっ!」

 気づくと、俺は自宅の物置の床に倒れ込んでいた。

 手の中には、まだ動き続けているレコーダー。

 窓の外からは、深夜の静かな雨の音が聞こえる。

 全身が嫌な汗で濡れている。

 だが、あのスタジオの床の感触、大友先生の声、そして何より、あの「若かった自分の体の軽さ」が、右手に残るレコーダーの感触よりも鮮烈に焼き付いていた。

 俺は震える手で、もう一度再生ボタンに指をかけた。

 さっきと同じ、自分の声。

 それを聴きながら、今度は「あの場所」を強くイメージする。

 再び、視界が裏返った。

 「――帰れと言ったのが聞こえなかったか、藍原!」

 また、あのスタジオだ。

 大友先生が、さっきと同じ憤怒の表情で俺を睨みつけている。

 ここで、俺は確信した。

 これは、俺の「意識」が、録音された自分の声を依り代にして、過去の自分と「同期」しているんだ。

 今の俺には何もない。

 この後、自分が声優として一度も芽が出ずに挫折することも、冷酷な女に人生を搾取される日々を送ることも、全部知っている。

 「……大友先生」

 俺は、震える脚を叱咤して、マイクの前に戻った。

 「いえ。……やらせてください。今の俺にしか出せない声を、聴いてほしいんです」

 俺は台本を握りしめた。

 三十五歳の絶望と、今この瞬間に手に入れた「生々しい感覚」を。

 それを全部、この声に乗せてやる。

 現実の世界では、俺は何一つ残せなかった。

 でも、この「同期」している世界なら……。

 これが、俺の家庭が、そして人生が崩壊していく始まりだとは、この時の俺はまだ、微塵も思っていなかった。

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