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名前を覚えられる席

 半年というのは、不思議な時間軸だと思う。

 長いようで短く、短いようで長い。銀座の夜という特殊な世界においてはなおさらで、私が「麗華」としてこの店に立ってから半年が経った頃、ようやく自分の立ち位置というものが、ぼんやりと見えてきた気がしていた。

 気づけば、席に呼ばれない夜がほとんどなくなっていた。

 フリーに付けば、ほぼ指名に繋がる。同伴も安定してきた。派手な爆発力があるわけではないけれど、空振りがない。常にトップではなく、三位前後に落ち着いている。それが悔しいかと問われれば、正直に言えば少し悔しい。でも同時に、あるルールのようなものが自分の中に育ちつつあるのも感じていた。

 無理をしない。でも、怠けない。

 その均衡をどこか身体で覚えてきた頃のことだった。

 オープン前の店内は、静かだ。

 シャンパンゴールドの照明が落ち着いた光を放つ中、私はドレスの裾を整えながら鏡に向かっていた。すると、麗奈さんに声をかけられた。

 オーナーの麗奈さんは、三十代半ばとは思えないほど美しい人だ。銀座で十年以上を生きてきた人間の持つ、独特の静けさがある。感情を表に出さないのではなく、感情をどこに置くかを知っている、そういう静けさだ。

 呼ばれること自体は珍しくない。ただその日の麗奈さんは、いつもと少し違った。言葉の端が、どこか曖昧に揺れていた。


「今日ね、あるお客様が来られるの」


 麗奈さんはそう切り出しながら、薄く紅茶を口に含んだ。


「だけど私はこの後、どうしても出かけないといけない用事があって。代わりに麗華、あなたに任せたいと思うの」

「そのお客様とは、どなたですか?」

「新撰組の党首、福永和寿さんよ」


 その名前は、私でも知っていた。

 新撰組とは、近年の保守ブームの波に乗って生まれた政治団体の一つだ。党首である福永和寿という人物は、元々は政治系番組の司会を長く務めていた。テレビで見る彼は、穏やかで知性的な語り口をしていた。視聴者受けの良さそうな、どこか整った印象の男だった。

 だが銀座では、話が違う。

 この仕事を始めてから半年。私が耳にしてきた噂はいくつかある。

 まず、彼は一切笑わない。正確には、笑わせようとするホステスを試すように黙り込む。盛り上げようとすれば盛り上げようとするほど、席の空気が重くなる。何人もの子が、彼の席を「沈んだ」と表現した。場を持たせようと必死になった結果、かえって無言の圧力に潰されてしまうのだと。

 次に、彼は話をほとんどしない。しかし聞いている。こちらの言葉を、どこかで静かに測っている。それが分かるから余計にやりにくい。

 そして最後に、彼は滅多に指名をしない。

 銀座でそれなりの期間、それなりの頻度で来ていながら、指名が一度もない。それ自体が、この店で語り草になっていた。


「……緊張、します」


 正直に言うと、麗奈さんは初めてその日、少しだけ口元を緩めた。


「それで良いわ。緊張しない子に、任せるつもりはないから」


 彼が来たのは、開店から一時間ほど経った頃だった。

 福永和寿は、噂通りの人物だった。

 五十代後半だろうか。スーツは高価なものだと一目で分かったが、誇示する気配がない。銀座に慣れた人間の、着慣れた高さというものがある。彼はそれを纏っていた。表情は穏やかに見えるが、目の奥が静かに何かを観察している。

 隣に座ると、すでに酒の匂いがうっすらとした。来る前にどこかで一杯やってきたのだろう。しかし乱れていない。こういう飲み方を知っている人間の、落ち着いた酔い方だった。


「いらっしゃいませ。麗華と申します」


 彼は頷いた。それだけだった。

 私はシャンパンを注ぎながら、少しだけ迷った。

 普段なら、ここで話の糸口を探す。「お仕事帰りですか」「今日は寒かったですね」。そういった他愛ない言葉で、会話の扉を開こうとする。でもその日の私は、何かが違った。

 試されている、と思った。

 盛り上げようとすることが、この人にとっての失点になる。そういう席だと、体が先に理解していた。

 だから、何も言わなかった。

 ただ、グラスを満たして、隣に座って、彼が口を開くのを待った。

 沈黙は長かった。体感で二、三分はあったと思う。普段の席では永遠に感じる時間だ。でもその夜、私はそれを乱す気になれなかった。無理に埋めることの方が、ずっと失礼な気がした。

 やがて、彼がぽつりと言った。


「……最近、静かな店が少なくなった」


 独り言に近い言い方だった。私に向けられた言葉というより、空気に向けて呟かれたような。

 それでも私は、丁寧に受け取った。


「銀座も、賑やかになりましたよね」

「賑やかというか……」彼は少し間を置いた。「うるさいんだ」


 私は笑わなかった。同意も急がなかった。


「うるさい、とうるさくない、どこで変わるんでしょうね」


 また沈黙があった。でも今度は、少し違う質感だった。


「音じゃないんだろうな」


 彼が、自分に言い聞かせるように言った。


「密度、みたいなものか。言葉の」

「言葉の密度」


 私は繰り返した。問い返すのではなく、ただその言葉を空気に置くように。

 彼が初めて、私の方を見た。


「……そう思ったことはないか。言葉が多いほど、伝わらなくなる、って」

「あります」


 嘘ではなかった。この仕事を始めてから、何度もそれを感じてきた。何とかしなければと言葉を重ねるほど、席の空気が薄くなっていく夜が。


「私もよく、言いすぎて失敗します」


 彼は少し、苦く笑った。

 それが、その夜最初の彼の笑顔だった。

 会話は、盛り上がったとは言えない。

 でも、途切れなかった。

 政治の話は一切出なかった。テレビの話も。彼が何者であるかとは無関係に、言葉が静かに往復した。お互いに少しずつ、少しずつ。

 時間が、不思議に流れた。急ぎも、滞りもせずに。

 閉店の時間が近づいて、彼が立ち上がる前に、グラスを静かにテーブルに置いた。そして何かを確認するように、ひとつ息をついてから言った。


「……君、名前は?」


 麗華ですと名乗ったばかりだった。だからその問いは、もう一度聞き直したのではないと分かった。

 ホステスネームではなく、もう少し近い場所にある何かを、彼は聞いていた。

 私はその意味をまだ正確には知らなかった。でも、軽くない問いだとは感じた。


「麗華といいます」


 彼は頷いて、それ以上何も言わなかった。

 仕事が終わると、麗奈さんに呼ばれた。

 戻ってきた彼女は、コートも脱がないままテーブルに数枚の書類を広げた。売上の集計表だった。


「今日の席、特別高いわけじゃないわ」


 麗奈さんは事実として言った。責めているのではない。数字の話をしている。

「でもね」彼女は一点を指でなぞった。「指名率と、滞在時間が綺麗すぎるの」

 私は黙って、その数字を見ていた。


「感情じゃなく、これが全部を語ってる」


 麗奈さんが続けた。


「派手じゃない。爆発もない。でもあなたは、残る接客をしてる」


 残る、という言葉が、胸のどこかに引っかかった。


「残る、とはどういう意味ですか」

「お客様の記憶に残る、ってこと」麗奈さんはようやくコートを脱いだ。「席を離れた後も、ふと思い出す。そういう子が、長く続くの」

 更衣室に戻って、ドレスを脱ぎながら、今夜の席を思い返していた。

 大した会話ではなかった。笑いがあったわけでも、感動があったわけでもない。言葉の密度の話を少ししただけだ。でも何か、重いものを手渡されたような感覚が残っていた。

 名前を聞かれた瞬間のことを、もう一度思った。

 フルネームでなく、名前だけ。

 ドアが開いた。麗奈さんが去り際振り返り、彼女は私を一瞥して、静かに言った。


「合格」


 それだけ言って、また立ち去ろうとした。


「麗奈さん」


 思わず声をかけると、彼女は振り返った。


「今日の席、覚えておきなさい」


 麗奈さんの声は、柔らかくも厳しくもなく、ただ真っ直ぐだった。


「"選ばれる"って、こういうことよ」


 ドアが閉まった。

 私はしばらく、脱いだドレスを手に持ったまま、その言葉の重さを測っていた。

 選ばれること。

 それがどういうことか、まだ半分しか分かっていない気がした。でも今夜、その半分に、初めて触れた気はしていた。

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