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プロジェクト・スターライト:丸の内ストーリー

作者: 久遠 睦

第一部 日常という名の緩やかなハム音


第一章 26歳の岐路


私の名前は田中由美、26歳。丸の内に本社を構える大手総合商社の、総務部で働く会社員だ。

朝は7時15分に鳴るアラームで目を覚まし、前夜のうちに選んでおいた、当たり障りのないブラウスとスカートに着替える。キッチンでトーストをかじりながらスマホをチェックし、満員電車に揺られて大手町駅へ。丸の内仲通りの洗練された空気を吸い込みながら、きらびやかなガラス張りのオフィスビルへと吸い込まれていく。それが私の日常の始まりだった。

総務部の仕事は、ルーティンワークの連続だ。備品の管理、社内規定の更新、会議室の予約システムへの対応。どれも会社の円滑な運営には欠かせないけれど、心躍るような瞬間は、正直なところ、ない。定時は17時半。週に2、3回は同僚や大学時代の友人と食事に行く。恵比寿のビストロや銀座の個室ダイニングで、仕事の愚痴や恋愛の話、将来の漠然とした不安なんかを語り合う。休日はショッピングモールをぶらついたり、話題のカフェに行ったり。SNSのタイムラインは、友人たちの婚約報告や海外旅行の写真で埋め尽くされていく。いいね、とハートのアイコンをタップしながら、胸の奥に小さな棘が刺さるのを感じる 。

「それなりに毎日楽しい」。自分にそう言い聞かせていた。嘘じゃない。気の合う友人がいて、安定した給料をもらえて、東京という刺激的な街で暮らしている。不満なんて、ないはずだった。

それなのに、日曜日の夜になると、決まって胸がざわつく。サザエさん症候群、なんて陳腐な言葉では片付けられない、もっと根源的な焦燥感。このまま、今の仕事を続けて、いずれ誰かと出会って、結婚して、子供を産んで、育てて。多くの人が歩むであろう、ごく一般的な幸福のレール。そのレールが、目の前にくっきりと敷かれているのが見える。けれど、そのレールに足を乗せる自分の姿が、どうしても想像できなかった 。

「このままで、いいのかな」

その問いは、静かな部屋で一人になると、繰り返し頭の中で響いた。何か特別なスキルがあるわけじゃない。手堅い資格を持っているわけでもない 。ただ、年次を重ねてきただけの、取り替え可能な駒。そんな自己評価が、私を苛む。26歳。キャリアを考える上で、決して若くはないけれど、何かを始めるのに遅すぎるわけでもない、微妙な年齢 。選択肢はまだあるはずなのに、何を選べばいいのか分からない。そんな宙ぶらりんの不安が、ぬるま湯のような日常の底に、澱のように溜まっていた。


第二章 システムの綻び


その日も、いつもと変わらない午後だった。内線電話の応対を終え、一息つこうと受信トレイを開いた私の目に、一件の全社向けメールが飛び込んできた。

件名:【社内公募】新規部署「DXイノベーション・ハブ」メンバー募集のお知らせ

また何か、横文字の部署ができたんだな。そんな風に思いながら、何気なくメールを開いた。そこには、私の知らない言葉が躍っていた。デジタルトランスフォーメーション、アジャイル、イントレプレナーシップ。会社の未来を切り拓く、戦略的部署。そんな大仰な言葉が並んでいた 。

読み進めていくうちに、私の心臓が少しずつ速くなるのを感じた。

「DXイノベーション・ハブは、既存事業の枠組みにとらわれず、ゼロから新たなビジネスを創出することをミッションとします。社内の『知』と最新テクノロジーを融合させ、未来の収益の柱となる事業をインキュベート(孵化)させる、社内ベンチャー組織です」

社内ベンチャー。その言葉が、私の心を強く捉えた。募集要項には、求める人物像としてこう書かれていた。「前例のない課題に主体的に取り組める方」「高い学習意欲と柔軟性を持つ方」「曖昧な状況を楽しみ、チームで成果を出すことに喜びを感じられる方」。

それは、今の私に最も欠けている要素のすべてだった。総務部の仕事は、前例踏襲が基本だ。マニュアルにない事態は起こらないし、起こさせない。曖昧さは排除され、すべてが明確に規定されている。安定しているけれど、息が詰まる。その息苦しさから、ずっと逃れたいと思っていたのかもしれない 。

スクロールする指が止まる。勤務地は本社ビル内だが、既存のオフィスフロアとは別の、専用エリア。階層構造を排したフラットな組織で、意思決定は現場主導。評価軸は短期的な売上や利益ではなく、「学びの質」や「仮説検証のサイクル」 。

まるで、異世界への扉のようだった。今の私とは正反対の世界。変化がなく、安定した毎日。そこから抜け出すための、たった一つの、具体的な選択肢。

メールを閉じて、目の前のディスプレイに映る、整然と並んだフォルダを見つめる。静かで、秩序だった、私の世界。このまどろみの中から抜け出したい。心の奥底から、そんな声が聞こえた気がした。それは、漠然とした不安とは違う、もっと明確な衝動だった。


第三章 後戻りできない選択


「DXイノベーション・ハブ」への応募を決意したものの、その道筋は平坦ではなかった。会社のイントラネットで「社内公募制度」について調べると、聞こえの良い言葉の裏に、様々なリスクが潜んでいることが分かった 。それは、転職活動とは全く異なる、社内政治と人間関係が複雑に絡み合う、特殊なゲームだった 。

ある調査によれば、社内公募制度が導入されている企業は全体の4割程度に過ぎず、さらにその運用実態には課題を感じている社員が87%にも上るという 。特に「気軽に応募できる雰囲気ではない」という声が多い。その意味を、私はすぐに痛感することになった。

まず、直属の上司である佐藤課長に相談した。課長は勤続30年のベテランで、総務部の生き字引のような人だ。悪気はないのだろう。けれど、私の話を聞いた彼の顔には、困惑と、ほんの少しの失望が浮かんでいた。

「田中さん、総務の仕事に何か不満でもあったのか? ここは会社の土台を支える重要な部署だ。君には、将来的にここの中核を担ってもらいたいと思っていたんだが……」

それは、裏切り行為だとでも言いたげな口ぶりだった 。彼の価値観の中では、配属された部署で経験を積み、その中でキャリアを築いていくのが当たり前なのだ。自ら手を挙げて他の部署へ移ることは、現在の持ち場を放棄する行為に等しいのかもしれない。この世代間の価値観の断絶は、私が思っていたよりもずっと深かった 。

噂はすぐに広まった。「田中さん、新しい部署に行くらしいよ」。廊下ですれ違う同僚たちのひそひそ話が耳に入る。ランチに誘われる回数が、少し減ったような気もした。誰もが私を「今の仕事に満足できず、外に逃げようとしている人」として見ている。その視線が、重く私の肩にのしかかった。社内公募にかかる「気まずさ」とは、こういうことだったのか 。

それでも、私は諦めなかった。応募書類には、現状への不満ではなく、未来への希望だけを書いた。「総務部での経験を通じて培った調整能力と課題整理能力を活かし、新しい事業というカオスの状態から価値を生み出すプロセスに貢献したい」。そう、ポジティブな言葉を並べた 。


そして、面接の日が来た。面接官は三人。人事部の担当者に加え、DXイノベーション・ハブの部長と、現場のリーダーらしき男性だった。部屋の空気は、新卒の採用面接とは比較にならないほど張り詰めている。

「なぜ、安定した総務部から、先の見えない新規事業へ?」「あなたが入ることで、私たちのチームに何がもたらされますか?」

矢継ぎ早に飛んでくる質問は、私の覚悟を試しているようだった 。私は必死に、準備してきた言葉を紡いだ。今の部署を否定するのではなく、そこで得た経験が、新しい挑戦の土台になるのだと。これは「逃げ」ではなく「成長」なのだと。

面接が終わった時、全身から力が抜けていくのを感じた。合否は、一週間後。結果がどうであれ、もう後戻りはできない。私は、自らの手で、日常という名のレールから、一歩踏み出してしまったのだから。


第二部 ベータ版の世界


第四章 ファースト・コミット


合格通知のメールを受け取った一週間後、私はDXイノベーション・ハブの専用エリアの前に立っていた。フロアの隅に設けられた、ガラス張りの一角。カードキーをかざしてドアを開けた瞬間、私はカルチャーショックという言葉の意味を、身をもって知ることになった。

そこは、私が知っている「会社」の風景ではなかった。整然と並んだスチールデスクはなく、大きさも形もバラバラなテーブルがランダムに配置されている。壁という壁はホワイトボードで埋め尽くされ、色とりどりの付箋がびっしりと貼られていた。服装も自由で、Tシャツにジーンズ姿の男性もいれば、パーカーを羽織った女性もいる。静寂に包まれた総務部とは対照的に、活気と、どこか切迫したような熱気が空間に満ちていた 。

「今日から配属になった、田中由美です。よろしくお願いします」

緊張で声が上ずる私に、部署のメンバーたちが顔を上げた。全部で8人。少数精鋭という言葉がしっくりくる、多様なバックグラウンドを持つ集団だった。皆、どこか自信に満ちていて、自分の仕事に強い意志を持っているように見えた 。

佐藤海渡かいとです。よろしく。とりあえず、君の席はあそこだから」

声をかけてきたのは、面接にも同席していた男性だった。佐藤海渡さん、28歳。私より二つ年上の、このチームのシニアメンバーらしい。彼の声は低く、口調は簡潔で、どこか人を寄せ付けない雰囲気があった。彼が指さした先には、ぽつんと一つだけ空いているデスクがあった。

彼から渡されたのは、分厚い資料の束と、プロジェクト管理ツールへのログイン情報だけだった。「まずはこれに目を通して、全体のキャッチアップをしておいて」。それだけ言うと、彼はすぐに自分の席に戻り、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。

資料をめくっても、専門用語の羅列で頭に入ってこない。管理ツールを開いても、何がどう連携しているのかさっぱり分からない。誰も、手取り足取り教えてくれる様子はなかった。ここは、自ら課題を見つけ、解決していくことが求められる場所なのだ 。新規事業の「カオス」の洗礼を、私は初日から浴びることになった 。


第五章 デイリー・スクラム


DXイノベーション・ハブでの日々は、アジャイル開発という、私にとって全く新しいリズムで動いていた。その心臓部とも言えるのが、毎朝10時から始まる「デイリー・スクラム」だった 。

それは、会議というより作戦会議に近い。チーム全員がホワイトボードの前に立ち、15分という厳格な時間制限の中で、一人ずつ三つのことを報告する。「昨日やったこと」「今日やること」、そして「困っていること(ブロッカー)」 。

最初の数週間、私はただそこに立っていることしかできなかった。飛び交う言葉の意味が分からない。「UI/UXの改善でコンバージョンレートが…」「MVPの次のスプリントで実装する機能の優先順位を…」。皆の議論は白熱し、時には意見がぶつかり合うこともあった。しかし、それは非難の応酬ではなく、より良いプロダクトを作るための、建設的な対立だった 。

私たちのチームが取り組んでいるのは、中小の飲食店向けの新しい予約・顧客管理サービスのMVP(Minimum Viable Product)、つまり、顧客に価値を提供できる実用最小限の製品を開発することだった 。議論の中心は、常にユーザーだった。「このボタンの配置は、ユーザーを混乱させないか?」「本当にユーザーが求めているのは、この機能なのか?」 。仮説を立て、それを検証するために素早くプロトタイプを作り、実際のユーザーからのフィードバックを得る。そのサイクルを、猛烈なスピードで回していた 。

そんな議論の中で、佐藤さんの存在感は際立っていた。彼はマネージャーではない。けれど、彼の言葉には、チームを正しい方向へ導く力があった。複雑に絡み合った議論を、「僕たちが解決すべきユーザーの課題は何か?」という一言で本質に戻す。技術的な問題で行き詰まったメンバーがいれば、「あとで一緒に見よう」と声をかける。外部の部署から理不尽な要求があれば、チームを守る盾になる。それは、細かい指示を出すのではなく、メンバーの自律性を引き出す、奉仕型のリーダーシップだった 。

デイリー・スクラムの15分間は、私にとって学びの連続だった。アジャイル開発のプロセスは、まるで私自身の成長物語を映しているようだった。最初の「スプリント」の目標は、この環境で生き残ること。私の「ブロッカー」は、知識不足と自信のなさ。そして、チームからの暗黙のフィードバックが、私にスキルの「イテレーション(反復改善)」を迫っていた。少しずつ、本当に少しずつだけれど、私はこのベータ版の世界に適応しようともがいていた。そしてその中で、佐藤海渡という人物に対する、純粋なプロフェッショナルとしての尊敬の念が、日に日に大きくなっていった。


第六章 残業とテイクアウト弁当


DXイノベーション・ハブでの毎日は、刺激的であると同時に、想像を絶するほど過酷だった。総務部時代の、定時で終業のベルが鳴る穏やかな日々は、遠い昔の夢のようだ。時計の針が20時を指しても、フロアの明かりが消える気配はない。時には日付が変わる寸前まで、全員がディスプレイに向かい続けていた 。

しかし、不思議と苦痛ではなかった。そこには、やらされているという感覚がなかったからだ。全員が当事者意識を持ち、自分たちの手で新しい価値を生み出そうという「熱狂」に浮かされていた 。

夕食は、決まってオフィス街のテイクアウト弁当か、コンビニ飯だった 。誰かが「飯、どうする?」と声をかけると、数人が立ち上がり、近くの弁当屋台やコンビニへと繰り出す。デスクに戻り、温かい唐揚げ弁当やパスタを頬張りながら交わす会話は、張り詰めた仕事の合間の、貴重な潤滑油だった。

「今日のユーザーインタビュー、想定外のフィードバックばっかりだったな」「明日の朝までに、このバグだけは潰さないと…」

そんな会話に混じりながら、私は少しずつ自分の役割を見つけ始めていた。プログラミングはできない。デザインの知識もない。けれど、総務部で培ったスキルが、意外なところで役に立ったのだ。

例えば、チームの誰もが後回しにしていた、バラバラの議事録や資料の整理。私がフォーマットを統一し、共有フォルダを整理すると、皆が「めっちゃ見やすくなった、ありがとう」と言ってくれた。他部署との連携が必要な時、私が総務部時代の人脈を活かして担当者を紹介すると、「田中さん、すごいな」と感心された。カオスな環境だからこそ、秩序をもたらす役割に価値があったのだ 。

「田中さん、これお願いできる?」「田中さん、ちょっといい?」

チームのメンバーから頼られることが、素直に嬉しかった。自分は、このチームに必要な人間なんだ。その実感が、私の自信を少しずつ育ててくれた。

深夜、終電を逃したメンバー数人とタクシーに乗り込む。窓の外を流れていく東京の夜景を見ながら、心地よい疲労感に包まれる。隣に座った佐藤さんが、ふと「田中さん、来てくれて助かったよ」と呟いた。その一言が、私の心の奥に、温かい光を灯した。この場所に来て、本当に良かった。心の底から、そう思った。


第三部 ファイアウォールの向こう側


第七章 デブリーフィング


プロジェクトが最初のマイルストーンを達成した金曜日の夜だった。チームで開発していたMVPのプロトタイプが、ついに社内の限定ユーザーにリリースされたのだ。大きな問題もなく稼働したことを確認し、安堵のため息がフロアに満ちた。

「よし、今日はもう上がろう。お疲れ」

誰かがそう言うと、皆が待ってましたとばかりに帰り支度を始めた。私もバッグを手に、席を立とうとした、その時だった。

「田中さん、この後、時間ある?」

声をかけてきたのは、佐藤さんだった。

「もしよかったら、軽く食事でもどうかな。今回のデブリーフ(振り返り)というか、まあ、お疲れ様会みたいな感じで」

彼の誘い方は、あくまで仕事の延長線上にある、ごく自然なものだった 。断る理由は、どこにもなかった。

「はい、ぜひ」

私が頷くと、彼は少しだけ表情を緩め、「じゃあ、行こうか」と言ってエレベーターホールへと歩き出した。

彼が連れて行ってくれたのは、きらびやかな丸の内のレストラン街ではなかった。山手線で数駅、恵比寿で電車を降り、駅から少し歩いた閑静な住宅街にひっそりと佇む、小さなビストロだった。木の扉を開けると、温かいオレンジ色の照明と、バターの香ばしい匂いが私たちを迎えた。店内はカウンター席といくつかのテーブル席があるだけの、こぢんまりとした空間。壁にはフランスの古いポスターが飾られ、心地よいジャズが流れていた 。

それは、私たちの戦場であるオフィスとは、まるで別世界だった。効率やロジックとは無縁の、穏やかで、人間的な空気がそこにはあった 。この店を選んだという事実が、私がまだ知らない彼の側面を、静かに物語っているようだった。


第八章 違うユーザーインターフェース


カウンター席に並んで座り、まずはビールで乾杯した。「お疲れ様」という言葉が、いつもよりずっと心に沁みた。

食事中の会話は、最初はやはり仕事の話だった。今回のリリースで上手くいったこと、次のスプリントで改善すべきこと。けれど、アルコールが少し回ってきた頃、私は思い切って、ずっと気になっていたことを尋ねてみた。

「佐藤さんって、お休みの日は何をしているんですか? なんだか、仕事以外の姿が全然想像できなくて」

私の言葉に、彼は少し驚いたような顔をして、それから照れくさそうに笑った。

「そんなに仕事人間だと思われてるんだ。うーん、そうだな…山に登ってるかな、週末は」

「山、ですか?」

「うん。奥多摩とか、丹沢とか。一人で黙々と歩いてると、頭の中がすっきりするんだ。コードのこととか、プロジェクトのこととか、全部忘れて」

彼は、ポケットからスマートフォンを取り出し、一枚の写真を見せてくれた。それは、どこかの山の山頂から撮られたものらしかった。眼下には幾重にも連なる山々の稜線が広がり、空はどこまでも青い 。そして、その壮大な景色を背景に、少しだけ息を切らしたような、でも、とても晴れやかな表情で笑う佐藤さんがいた。

その瞬間、私の心の中で、何かがカチリと音を立てた。

私が知っている「仕事の佐藤さん」は、常に冷静で、論理的で、一切の無駄を嫌う人だった。けれど、写真の中の彼は、まるで別人のように、無防備で、自然体だった。彼が語る山の話は、仕事の話をするときとは全く違う熱を帯びていた。沢のせせらぎの音、ブナの森の匂い、山頂で飲むコーヒーの味。その言葉の端々から、彼が心から自然を愛していることが伝わってきた 。

それは、私にとって衝撃的な発見だった。彼という人間の、全く違うユーザーインターフェースに触れたような感覚。仕事ができる人。尊敬できる先輩。その認識が、この夜を境に、ゆっくりと別の感情へと変わっていくのを、私ははっきりと感じていた。それは、ただの尊敬ではない。一人の男性としての、抗いがたい興味と、惹かれる気持ちだった 。仕事後の食事は、時にこうして、人と人との関係性を予期せぬ方向へと進ませる魔法を持っているのかもしれない 。


第九章 物語の分岐


あの夜のビストロでの食事を境に、私と佐藤さんの間の空気は、微妙に、でも確実に変化した。

オフィスに戻れば、彼はいつもの冷静沈着なシニアメンバーで、私はチームの一員だ。けれど、私の意識は、常に彼の存在を捉えていた。議論が白熱して、彼が苛立ったように髪をかき上げる癖。難しいバグを解決した瞬間に、口元に浮かぶほんのわずかな笑み。以前は気にも留めなかった彼の些細な仕草一つ一つが、私の網膜に焼き付くようになった。

私たちの間のやり取りも、どこか新しいサブテキストを帯び始めた。深夜まで続く作業の途中、彼が黙って私のデスクに缶コーヒーを置いてくれる 。給湯室で偶然二人きりになった時、仕事とは関係のない、週末の天気の話をする。くだらないバグの原因が判明して、二人で顔を見合わせて笑い合う。

そんな、取るに足らない小さな瞬間の積み重ねが、私の気持ちを静かに、しかし着実に育てていった。それは、同じプロジェクトで困難を共に乗り越える中で生まれる、ごく自然な感情の流れだったのかもしれない 。

ある日の午後、私はどうしても解決できない技術的な問題に突き当たり、途方に暮れていた。誰に聞けばいいのかも分からず、一人でうんうん唸っていると、背後から「どうしたの?」と声がした。佐藤さんだった。

「これ、ここの仕様が分からなくて…」

私がディスプレイを指さすと、彼は私の隣の椅子に腰掛け、身を乗り出して画面を覗き込んだ。彼の肩が、私の肩に触れそうなくらい近い。ふわりと、彼が使っている柔軟剤の、清潔な香りがした。心臓が、大きく跳ねる。

「ああ、これはね…」

彼は、私の手からマウスを自然に受け取ると、数回クリックして、問題の箇所をいとも簡単に解決してしまった。

「すごい…ありがとうございます」

「いいってことよ。困った時はお互い様だろ」

そう言って笑う彼の横顔を、私は直視できなかった。プロフェッショナルとしての彼の有能さと、時折見せる不意の優しさ。その二つが、私の心をどうしようもなく揺さぶる。

尊敬と好意の境界線は、いつの間にか曖昧に溶けてしまっていた。私は、この気持ちをどうすればいいのだろう。物語は、予期せぬ方向へと分岐しようとしていた。


第四部 クリティカル・パス


第十章 システム・クラッシュ


役員会でのMVPプレゼンテーションを三日後に控えた、火曜日のことだった。事件は、突然起こった。

「サーバーが落ちた!」

チームの一人の悲鳴に近い声が、フロアに響き渡った。リリースしていたプロトタイプが、完全に機能を停止したのだ。原因不明の、致命的なシステムダウン。さらに追い打ちをかけるように、限定ユーザーからのフィードバックが、私たちのビジネスモデルの根幹を揺るがすような、厳しい内容であることが判明した。

「こんな使いにくいシステム、誰も使わない」「そもそも、このサービスに価値を感じない」

辛辣な言葉が、私たちの心を抉った。プロジェクトは、失敗の瀬戸際に立たされていた 。

数ヶ月間、寝る間も惜しんで築き上げてきたものが、砂上の楼閣のように崩れ去っていく。チームの雰囲気は、一瞬にして最悪になった。それまでの熱狂は消え失せ、絶望と焦りがフロアを支配した。

「どうするんだよ、これ…」「もう役員会、延期してもらうしかないんじゃないか?」

誰かが弱音を吐くと、それが伝染するように、他のメンバーも下を向く。これまでチームを牽引してきたメンバーの間でさえ、「サーバーの問題はインフラ担当の責任だ」「いや、そもそも設計に無理があった」と、責任のなすりつけ合いが始まった。建設的な対立ではなく、ただの感情的な衝突。チームは、空中分解寸前だった 。

私は、何もできずに立ち尽くしていた。この絶望的な状況を、どうすればいいのか分からない。ディスプレイには、エラーメッセージが無機質に点滅している。それはまるで、私たちの敗北宣言のように見えた。


第十一章 眠らない夜


「全員、ちょっと顔を上げてくれ」

沈黙を破ったのは、佐藤さんの静かだが、芯のある声だった。彼はホワイトボードの前に立ち、チーム全員を見渡した。

「プレゼンまで、あと68時間。今から責任の所在を議論しても、1ミリも前に進まない。俺たちがやるべきことは一つだ。この状況で、どうすれば最善の結果を出せるか。それだけを考えよう」

彼の言葉には、不思議な力があった。絶望していたメンバーたちの目に、わずかな光が戻る。

「まず、問題点を切り分ける。サーバーダウンの原因究明と、ユーザーフィードバックに基づくコンセプトのピボット(方向転換)。二手に分かれて、今夜中に解決の道筋を見つける。無理だと思うか? 俺は、このチームならできると信じてる」

それは命令ではなかった。リーダーとしての、魂の呼びかけだった。

その夜、私たちは誰一人として家に帰らなかった。佐藤さんは技術チームを率いてサーバーログと格闘し、私は数人のメンバーと共に、ユーザーフィードバックの分析と、新しいコンセプトの再構築を担当した。

私の隣には、ずっと佐藤さんがいた。彼は技術的な問題で頭を悩ませながらも、時折私たちの進捗を気にかけてくれた。「田中、そっちはどうだ?」「何か手伝えることはあるか?」

深夜2時を回った頃、私の集中力は限界に達していた。膨大なフィードバックデータを前に、思考が完全に停止してしまった。その時、佐藤さんがそっと私のデスクにマグカップを置いた。温かいコーヒーの湯気が、疲れた目に沁みる。

「少し、休めよ」

その優しい声に、張り詰めていた糸が切れ、涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。この極限状況の中で、私たちはただの同僚ではなく、共に戦う「戦友」になっていた。困難な仕事を共に乗り越えるという経験が、どんなデートよりも、私たちの心の距離を縮めていた 。

夜が白み始め、窓の外から朝日が差し込んできた頃、奇跡が起きた。技術チームがサーバーダウンの根本原因を特定し、応急処置を施すことに成功したのだ。そしてほぼ同時に、私たち企画チームも、ユーザーの厳しい指摘を逆手に取った、新しいサービスの提供価値を言語化することができた。

それは、疲労困憊の中で掴んだ、小さな、しかし確かな希望の光だった。


第十二章 ローンチ


役員会当日。私たちは、ほとんど寝ていない体を引きずるようにして、最上階の役員会議室に集まった。部屋には、会社の重役たちがずらりと並び、その厳しい視線が私たちに突き刺さる。極度の緊張感の中、プレゼンテーションが始まった。

最初に口火を切ったのは、佐藤さんだった。彼は、この数日間で起こったシステムトラブルについて、一切の言い訳をせず、事実だけを淡々と、しかし誠実に報告した。そして、その失敗から何を学んだのかを、技術的な観点から明確に説明した。

次に、マイクを渡されたのは、意外にも私だった。

「次に、ユーザーフィードバックから得られた学びと、それに基づく我々の新しい提案について、田中さんから説明してもらいます」

佐藤さんに促され、私は震える足でスクリーンの前に立った。数ヶ月前、総務部で書類整理をしていた自分が、会社の未来を左右するかもしれないこの場所に立っていることが、信じられなかった。

でも、不思議と怖くはなかった。私は、この数日間でチーム全員で考え抜いた、私たちの「答え」を、自分の言葉で語り始めた。ユーザーが本当に求めていたものは何か。私たちはどこで間違えたのか。そして、その失敗を踏まえて、これからどう進むべきなのか。

プレゼンテーションが終わった時、会議室は静まり返っていた。重役の一人が、重々しく口を開いた。

「君たちのMVPは、失敗だったのかもしれない。だが、その失敗から学び、これだけの短時間で新たな仮説を立て直したそのプロセスは、評価に値する。このプロジェクト、継続を許可しよう」

その言葉を聞いた瞬間、チームから安堵のどよめきが起こった。それは、「成功した失敗」だった。私たちは、失敗から学ぶことの価値を、身をもって証明したのだ 。

プレゼンが終わり、重役たちが退室していく。がらんとした会議室に、私たちチームだけが残された。皆、疲労と安堵が入り混じった、不思議な表情をしていた。

その中で、佐藤さんが私のほうへ歩み寄り、静かに言った。

「田中がいてくれなかったら、乗り越えられなかった。本当に、ありがとう」

仕事上の労いの言葉。けれど、その瞳に宿る熱は、それだけではない何かを、はっきりと物語っていた。私たちの間にあった、プロフェッショナルとプライベートを隔てる最後の壁が、静かに消えていくのを感じた。


第五部 リファクタリング


第十三章 山頂からの景色


役員会を乗り越えた週末、佐藤さんからメッセージが届いた。「約束、覚えてる?」。それは、いつか話してくれた奥多摩へのハイキングの誘いだった。

土曜日の朝、私たちは奥多摩駅で待ち合わせた。ジーンズにマウンテンパーカーというラフな格好の彼は、オフィスで見るスーツ姿とは全く違う、リラックスした雰囲気をまとっていた。

私たちが目指したのは、初心者でも楽しめるという三頭山みとうさん。檜原都民の森から始まる登山道は、美しいブナの林に囲まれ、都会の喧騒が嘘のように静かだった 。鳥のさえずりと、自分たちの足音が土を踏む音だけが響く。それは、仕事のプレッシャーから解放され、心と体をリセットするための、贅沢な時間だった 。

登り始めて一時間ほど経った頃、見晴らし小屋という開けた場所に着いた。ウッドデッキのベンチに腰を下ろすと、目の前には奥多摩の山々が連なる絶景が広がっていた 。

「すごい…」

思わず漏れた私の呟きに、彼は「だろ?」と満足そうに笑った。

そこで、私たちはようやく、お互いの気持ちについて、ゆっくりと話すことができた。プロジェクトの重圧、失敗への恐怖、そして、それを乗り越えた時の安堵。彼は、リーダーとして常に気丈に振る舞っていたけれど、本当は押し潰されそうなプレッシャーを感じていたことを打ち明けてくれた。私は、彼を尊敬する気持ちが、いつしか特別な好意に変わっていたことを、正直に伝えた。

「職場恋愛は、難しいと思う。周りに気も遣わせるし、もしうまくいかなくなった時、気まずいどころじゃ済まないかもしれない」

彼の言葉は、現実的で、誠実だった。

「でも」と彼は続けた。「それでも、俺は田中のことが、好きだ。一緒にいたいと思う。そのリスクを、一緒に乗り越えていけないかな」

私たちは、これから二人で歩むための、いくつかのルールを決めた。会社では節度ある態度を保つこと。仕事上の意見の対立を、プライベートに持ち込まないこと。そして何より、お互いの価値観を尊重し、コミュニケーションを怠らないこと 。

会話が途切れ、心地よい沈黙が流れる。彼は、そっと私の手を握った。その温かさが、私の心にじんわりと広がっていく。

私たちは再び歩き出し、三頭山の西峰山頂にたどり着いた。そこから見える景色は、見晴らし小屋からのものよりも、さらに壮大だった。私たちは、物理的にも、比喩的にも、新しい景色が見える場所まで、共に登ってきたのだ。

彼が、私の肩を優しく引き寄せる。見つめ合う瞳。そして、私たちは、澄み切った青空の下で、初めてのキスを交わした。


第十四章 次のスプリントへ


数週間後、DXイノベーション・ハブは、次のスプリントに向けて動き出していた。ホワイトボードの前で活発に議論するチームの中に、私の姿もあった。もう、ただ話を聞いているだけの新人ではない。ユーザーの課題について、自分の意見をはっきりと述べ、チームの意思決定に積極的に関わっている。

「この機能のUIは、もっとシンプルにできないかな。ユーザーは、最小の操作数じゃなくて、最短の時間で目的を達成したいはずだから」

私の発言に、チームのメンバーが頷く。佐藤さんも、満足そうな、そしてどこか誇らしげな表情で私を見ていた。

この数ヶ月で、私の世界は一変した。変化のない、ぬるま湯のような日常に安住していた私はもういない。今は、予測不能な未来に向かって、自分の足で歩いている実感がある。仕事は、給料をもらうための手段ではなく、自己実現のための「やりがい」そのものになった 。

佐藤さんとの関係も、順調だった。オフィスでは、私たちは良き同僚であり、パートナーだ。お互いの仕事を尊重し、高め合える存在。そして、一歩会社の外に出れば、恋人として、穏やかで、かけがえのない時間を共有する。彼との関係は、私の新しい人生を支える、大きな柱になっていた。

夕方、仕事を終えた私たちは、一緒にオフィスを出た。丸の内仲通りの街路樹が、夕日に照らされてきらきらと輝いている。私たちは、周りの目を気にして、少しだけ距離をあけて歩く。でも、指先が触れ合う瞬間、確かな温もりを感じた。

「週末、どうする?」

彼が、週末の計画と、次のプロジェクトのアイデアについて、楽しそうに話している。その横顔を見ながら、私は思う。

未来は、まだ白紙の設計図だ。これからどんな困難が待ち受けているか、どんなバグが見つかるか、誰にも分からない。

でも、それでいい。

だって、私の人生のコードは、今、私自身の手で書いているのだから。

物語に「終わり」はない。ただ、新しいスプリントが、また始まるだけだ。私たちは、希望に満ちた未来へと続く道を、並んで歩き始めた。


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