第一章 ― 従騎士との出会い
旅に出て三日目。
アリアナ・ブライスは、早くも悟った。
――勇者の旅とは、基本的に孤独である。
朝は夜露で湿った草原を一人で歩き、昼は延々と続く街道を一人で歩き、夜は野犬の遠吠えに怯えながら一人で野宿。
華やかに見送られた出発のあの瞬間だけは、確かに「物語の主人公」になった気がした。
だが三日も経たぬうちに、現実の厳しさに押し潰されそうになっていた。
「勇者様! 道中ご無事を!」
「世界の平和をよろしくお願いします!」
村や町を出るたび、こうして見知らぬ人々が全力で手を振ってくれる。
花束を差し出してくれる子どももいれば、涙ながらに「頼んだぞ」と声をかける老人もいた。
その瞬間は確かに胸が高鳴る。まるで本当に偉大な人物になったかのようで――。
だが、五歩進んだあたりから現実に引き戻されるのだ。
腹は減るし、靴擦れはするし、背中の荷物は肩に食い込む。
剣なんて重すぎて、振り回すどころかただ「鉄の棒」として腰にぶら下がっているだけ。
夜は冷たい土の上に寝袋を広げて、空腹のまま空を仰ぐしかない。
勇者とは、思っていた以上にブラックな職業だった。
その夜も、アリアナは川辺で小枝を集め、必死に火を起こしていた。
だが湿った木ばかりでなかなか燃えず、煙だけがむなしく立ち上る。
空を見上げれば、満天の星。川の水面に月が揺れ、虫の音が絶え間なく響いていた。
「……ご飯、食べたい……」
鍋に放り込んだ干し肉と豆は、固いまま。
味は正直、ひどい。けれど食べなければ倒れてしまう。
アリアナは涙目になりながらなかなか噛みきれない肉を咀嚼し、早々に寝袋へ潜り込んだ。
そして翌朝――。
ぼそっと漏らした一言が、運命を変えることになる。
「うう……もう帰りたい……」
その瞬間、背後から低い声が返ってきた。
「帰るな。勇者」
「ひゃあっ!?」
アリアナは心臓が飛び出しそうになりながら振り返った。
そこに立っていたのは、見知らぬ青年だった。
癖のない黒髪と、鋭い黒い瞳を持つ青年。
背は高く、姿勢は真っすぐ。全身から「近寄りがたいオーラ」を放っている。
細身の体に纏うのは、深い紺色を基調とした厚手の布地に、革で補強された肩当てが付いた、動きやすさと耐久性だけを追い求めた質素な仕立ての衣服である。
静かに立つその姿には派手さこそなかったが、背に負った剣だけが異様な存在感を放っていた。
まるで物語に出てくる「無口な剣士」をそのまま具現化したような雰囲気だった。
「だ、誰ですか!?」
「……ハルヒ・カイドー。従騎士として、今日から護衛を命じられている」
青年は無表情のままそう名乗り、剣の柄に軽く手を添えて頭を下げた。
礼儀正しい……のかもしれないが、あまりに感情が見えない。
まるで人形に話しかけられているような錯覚さえ覚える。
「あ、あの……護衛って……つまり、私を?」
「そうだ」
「……えっと、その、えっとぉ……」
どう話題を広げていいか分からず、アリアナは狼狽える。
青年の瞳は漆黒。そこには光も影もなく、ただ静かに彼女を映していた。
勇者就任のときもそうだった。
大人たちが勝手に決めて、本人は置いてけぼり。
今回も同じく「勝手に決められていた」パターンらしい。
「……」
「……」
沈黙。
気まずい空気が街道に漂う。
乾いた風が草を揺らし、木々のざわめきだけが二人の間を埋めていた。
頭上では雲が流れ、カラスが不吉に鳴きながら飛び去っていく。
耐えかねて、アリアナはおずおずと口を開いた。
「……あ、あの。趣味とかあります?」
「ない」
「じゃあ苦手な食べ物は?」
「ない」
「…………」
だめだ。会話が死ぬ。
しかも青年――ハルヒは歩幅がやけに広い。
アリアナが小走りでついていくと、まるで散歩中の犬と飼い主のような光景になってしまう。
「……勇者」
「は、はいっ!」
「疲れているのか」
「つ、疲れてます! めちゃくちゃ!」
「……」
ハルヒはほんの一瞬だけ、目を細めた。
感情が……動いた? 気がする。
しかし次の瞬間には再び無表情に戻り、黙々と歩き続けてしまった。
街道はどこまでも続いている。
草原の向こうには深い森が待ち受け、さらにその先にはまだ見ぬ王都が広がっているという。
勇者の旅路は始まったばかり。
――勇者アリアナの最初の仲間。
それは、とんでもなく無口で空気の読めない従騎士だった。