とある王族の禁忌
最愛なる父上、母上
本日、新皇帝の迎えがこの島に到着いたします。しかし、息子エリアスと娘イザベラは、その迎えを拒み、この島の最高峰より身を投じて果てる所存でございます。
我々は、この三年間の孤島生活において、神と人倫に背く最も忌まわしい罪を犯しました。血を分けた兄妹でありながら、男と女として結ばれてしまったのです。
そして、さらに恐ろしい罪を重ねることとなりました。皇帝ヴィクトールからの婚姻強要の手紙により、父上と母上のお命が危険に晒されていることを知りながら、我々は自分たちの愛を選んでしまったのです。
イザベラが皇帝の元に赴けば、父上と母上のお命は救われるでしょう。しかし、我々にはもはやそれができません。この三年間で育まれた愛は、親への愛をも上回る狂気となってしまいました。
父上、母上。最も大切な親の命よりも、自分たちの愛を選んだ我々を、どうかお許しください。これほど恩知らずで、罪深い子供たちを育ててしまった責任を、決してご自身に求めないでください。
この手紙と共に我々の亡骸が発見されましても、王家の名誉のため、真の死因を公にされませぬよう、伏してお願い申し上げます。
父上、母上の深き愛に包まれて育った幸せな日々を想い、感謝と共に筆を置きます。
来世では、必ずや孝行な子供として生まれ変わり、今世の罪をお詫びすることをお約束いたします。
愚かな息子 エリアス
愚かな娘 イザベラ
◇◇
さて、読者諸兄よ。これより語る物語は、実に恐ろしく、また哀しい兄妹の破滅の記録である。人はいかなる状況に置かれようとも、道徳と倫理を保ち続けることができるであろうか。この問いに対する答えを、諸兄はこの物語の中に見出すことになるであろう。
時は三年前、アルカディア王国で政府転覆のクーデターが発生した。反乱軍の指導者である将軍ヴィクトール・ドラグノフが王宮を制圧し、マクシミリアン国王一家は命からがら脱出を余儀なくされた。
その混乱の中、第三王子エリアス(当時16歳)と第一王女イザベラ(当時15歳)は、両親とは別行動で隣国ベルガリア公国への亡命を図ることとなった。最新鋭の王室飛行船「天翼号」に、王家の秘宝と重要書類を積み込み、護衛の騎士団と共に空路での脱出を開始したのである。
エリアス王子は幼少の頃より学問を好み、特に魔法学と錬金術に秀でた聡明な青年であった。王宮の学者たちからも「神童」と称賛される程の知識欲と探究心を持ち、同世代の王族の中でも群を抜いた博識で知られていた。
一方、イザベラ王女は、その美貌もさることながら、聡明さにおいても王国随一と謳われていた。兄エリアスとは一歳違いでありながら、学問においては彼に勝るとも劣らぬ才媛であった。特に植物学と薬草学に造詣が深く、王宮の庭園で様々な薬草を育てることを趣味としていた。
二人は幼少の頃より非常に仲睦まじく、王宮の者たちは「一心同体だ」と評していた。しかし、この時点では、彼らの関係は純粋無垢な兄妹愛以外の何物でもなかった。
運命は、しかし、非情であった。
飛行船が空路の半ばにかかった時、突如として魔法的な大嵐が発生したのである。これは後に「虚空の大渦」と呼ばれることとなる、千年に一度の異常気象であった。天翼号は嵐に呑み込まれ、護衛の騎士たちや乗組員たちは魔法的な空間転移によって各地に散り散りとなってしまった。王家の秘宝も、重要書類も、全て嵐の中に消え去った。
エリアスとイザベラだけが、運命的に同じ場所—見知らぬ浮遊島—に流れ着いたのである。
◇◇
エリアス王子とイザベラ王女は、気がつくと見知らぬ浮遊島の海岸に打ち上げられていた。島は美しい自然に恵まれていたが、人の気配は全くなかった。
「兄上...ここは一体...」
イザベラの震える声に、エリアスは前世の知識を総動員して状況を分析した。島には豊富な淡水と果実があり、生存に必要な最低限の環境は整っていた。しかし、島全体が強力な魔法的結界に覆われており、外部との交信は完全に遮断されていた。
「心配するな、イザベラ。必ず帰る方法を見つけてみせる」
エリアスの言葉は力強かったが、内心では絶望的な状況であることを理解していた。彼の博識をもってしても、この島は古代魔法によって時空に固定された、いわば異次元の牢獄であることが判明したのである。
二人は協力して島での生活基盤を築いた。エリアスは魔法学の知識で火を起こし、錬金術を応用して道具を作り、イザベラは薬草学の知識を活かして食料となる植物を見分け、薬を調合した。夜は洞窟で身を寄せ合い、昼は島の探索に明け暮れた。
最初の一年は、故国への帰還と家族との再会への希望、そして兄妹で力を合わせて困難を乗り越える充実感に満ちていた。しかし同時に、故郷を失った悲しみと、両親の安否への不安が、常に二人の心を蝕んでいた。
◇◇
しかし、二年目に入る頃から、微妙な変化が生じ始めた。
イザベラは17歳となり、少女から美しい女性へと変貌を遂げていた。島での生活により健康的に日焼けした肌、風になびく長い黒髪、そして何より、苦難を共に乗り越えたことで宿った芯の強い眼差し...エリアス王子は、ある日ふと気づいてしまったのである。
自分が妹を、一人の女性として見つめていることに。
「実に恐ろしいことに」—と、ここで語り手である私は筆を置かざるを得ない—「人間の感情というものは、理性や道徳を超越した、まさに魔物のような力を秘めているのである」
エリアス王子もまた、18歳の青年として逞しく成長していた。王宮での学問中心の生活とは異なり、島での実践的な生活が彼を肉体的にも精神的にも鍛え上げていた。そして、世界で唯一の異性である美しい少女と、三年間も二人きりで過ごしているのである。
イザベラ王女の方にも、同様の変化が現れていた。兄の逞しい腕に守られ、兄の優しい言葉に慰められ、兄の温もりを感じながら眠る日々...いつしか彼女の胸にも、兄妹愛を超えた感情が宿り始めていたのである。
二人とも、この感情が禁忌であることは理解していた。しかし、この閉ざされた世界では、互いの存在こそが全てだった。
◇◇
三年目の夏至の夜。月光が海面を銀色に染める美しい夜であった。
二人は島の高台で、いつものように星座を眺めていた。しかし、この夜の空気には、いつもとは違う緊張が満ちていた。
「兄上...」
イザベラの声は、いつになく震えていた。
「私たちは...もう永遠にここから出ることはできないのでしょうか」
「イザベラ...」
エリアスは答えることができなかった。三年間の研究により、この島からの脱出は絶望的であることが判明していたからである。
「もしそうなら...私は...」
イザベラの言葉は、そこで途切れた。しかし、彼女の瞳に宿る想いを、エリアスは理解してしまったのである。
月光の下で、二人は長い間見つめ合った。そして...
実に、実に恐ろしいことに、エリアス王子は妹を抱きしめてしまったのである。そして、イザベラ王女もまた、その抱擁を拒むことなく受け入れたのである。
やがて、二人の唇が重なった。禁忌の口づけが、永遠にも思える時を刻んだ後、彼らは互いの瞳に映る想いを確認し合った。
「イザベラ...」
「兄上...私も...同じ気持ちです」
その夜、洞窟の奥で、二人は初めて真に一つとなった。月光が差し込む中、兄妹は互いの温もりに包まれながら、取り返しのつかない一線を越えてしまったのである。翌朝、イザベラの頬を伝う涙は、罪悪感と至福が入り混じった複雑な感情の現れであった。
この瞬間から、二人の関係は決定的に変わってしまった。
◇◇
それ以降の数ヶ月間、二人は兄妹であることを忘れ、一組の恋人として過ごした。
朝は互いの微笑みで目覚め、昼は手を取り合って島を歩き、夜は愛を確かめ合う...もしも彼らが血の繋がらない男女であったなら、これほど美しい愛の物語はなかったであろう。
しかし、彼らは紛れもなく兄妹であった。アルカディア王国の高貴な血を引く、神聖なる王族であった。
エリアス王子の心は、激しい葛藤に引き裂かれていた。王族としての誇りと教育が、この関係の罪深さを告発し続けていたのである。しかし、この島では、イザベラこそが彼の世界の全てだった。
イザベラ王女もまた、同様の苦悩を抱えていた。王女としての誇りと、女としての愛情の間で、彼女の心は千々に乱れていた。
◇◇
ある日、エリアスは遂に神聖なる王家の聖典を、洞窟の焚き火に投げ入れてしまった。
「もはや神の教えなど、我々には無用だ!」
炎に包まれる聖典を見つめながら、エリアスは叫んだ。しかし、その瞳には深い悲しみともう後戻りはできぬという強い意志が宿っていた。
「兄上...」
イザベラは泣いていた。彼女もまた、自分たちが犯している罪の重さを理解していたのである。
しかし、もはや後戻りはできなかった。二人は、悪魔の囁きに耳を貸し、神と人倫に背く道を選んでしまったのである。
◇◇
そして運命の日が訪れた。
島の海岸に、一通の手紙が入った瓶が流れ着いたのである。手紙の封印には、見覚えのある紋章—新生アルカディア帝国の印—が刻まれていた。
エリアスが震える手で開封した手紙には、以下のような内容が記されていた。
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元アルカディア王家の残党へ告ぐ。
我が帝国は、元王女イザベラ・フォン・アルカディアと皇帝ヴィクトール・ドラグノフ陛下との神聖なる婚姻を布告する。
この婚姻により、正統王家の血統と新皇室の結合が成され、帝国の永続的平和が約束される。
イザベラ王女は、三日後に帝国の迎えの艦隊により迎えられ、即座に婚礼の儀を執り行う。
なお、この婚姻を拒否し、あるいは逃亡を図った場合、現在帝国の監獄に収監されている元国王マクシミリアンと元王妃エリザベートを、この世で最も残酷かつ苦痛に満ちた方法をもって公開処刑する。
拒否は許されない。
新生アルカディア帝国皇帝 ヴィクトール・ドラグノフ
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手紙を読み終えた二人の表情は、絶望と怒りに歪んだ。
「父上...母上...」
イザベラは崩れ落ちるように泣き崩れた。エリアスもまた、拳を強く握りしめ、血が滲むほどであった。
「あの男は...イザベラを政治の道具として...そして父上と母上を人質に...」
長い沈黙が続いた。二人の前には、残酷な選択が突きつけられていた。
イザベラが最初に口を開いた。
「兄上...私は...私は皇帝の元に参ります。父上と母上をお救いするために」
しかし、エリアスは激しく首を振った。
「駄目だ!君をあの男の手に渡すなど...絶対に!」
「でも、兄上!父上と母上が...」
「分かっている...分かっているとも...」
エリアスの声は苦悶に満ちていた。そして、実に恐ろしいことに、彼は次のような言葉を口にしたのである。
「イザベラ...許してくれ。我が愛する妹よ。私は...私は父上と母上よりも、君を愛してしまっている。この三年間で、君は私の世界の全てとなった。君を失うくらいなら...たとえ両親を見殺しにすることになろうとも...」
イザベラの瞳から、新たな涙が溢れた。しかし、それは悲しみだけの涙ではなかった。
「兄上...私も同じです。父上、母上をお慕いしております。心から愛しております。しかし...」
彼女の声は震えていた。
「しかし、兄上なしには、もはや生きていくことができません。父上と母上には申し訳ないけれど...私は兄上を選びます。たとえそれが、最も恐ろしい罪であろうとも」
二人は理解していた。彼らが選択したのは、親への愛よりも深く、道徳よりも強い、狂気にも似た愛だということを。そして、この選択こそが、人として犯しうる最も重い罪だということも。
「ならば...共に逝こう、イザベラ」
「はい、兄上。永遠に、共に」
いやはや実に、実に恐ろしいことではないか。人は愛のためには、実の親すら見捨てることができるのである。この兄妹の愛は、もはや神聖なる家族愛を超越し、破滅的な狂愛と化していたのである。
◇◇
翌朝、新生アルカディア帝国の艦隊が島の港に姿を現した時、エリアス王子とイザベラ王女の姿はどこにもなかった。
数年後、島の最高峰で発見されたのは、高貴な装飾の衣服に身を包み固く抱き合ったままの白骨化した二人の亡骸と読めぬほどに土に溶けた手紙と思われる亡骸であった。
彼らは最期まで愛し合い、そして暴君の手に渡ることを拒んで共に死を選んだのである。
かくして、エリアスとイザベラの愛は、永遠の秘密となった。
【完】