第84話 天狼の旅立ち
天流地方、しとしとと雨の降る秋の朝。
聖湖の湖畔に浮かんだ船の甲板の上、硝子張りの喫茶店では。
「すべての〈流〉が消えた、なぁ……」
テーブル席に座った店主の鎧は、新聞を開き見出しを口にしていた。カウンタ席では、常連客の彗が朝からカクテルをあおぎ、虚ろな目をさまよわせている。店内の唯一の客だ。
鎧は新聞をたたむ。
「魔法は使えなくなって、いろんな物が動かせなくなって。それに加え、世界のあちこちで景色が変わってるんだと。たくさんの行方不明者は、少しずつ気まぐれに帰ってきてるそうだが。まぁ、あんな怪異が消えただけありがたいか──聞いてんのかぁ、彗?」
「灯……」
彗がぽつりと主人の名をつぶやくのを、厨房の扇は聞き逃さなかった。彗はもともと灯の持ち物の弦楽器の生まれだ。灯の最後の決断を准から聞かされた喫茶の面々の中でも、彗は誰にもまして落ちこみを隠さなかった。
扇はカウンタ越しに彗の手のカクテルを取りあげ、はちみつ茶を押しつける。彗は素直に受けとり、なにも考えていないかのようにすすった。
それを見た扇は、ゆっくりと言葉をかける。
「よければ灯さんの話を聞かせてもらえませんか。灯さんの武勇伝を」
「灯の武勇伝? ありすぎて困っちまいまさぁ」
彗ははちみつ茶に目を落とす。
「そうだな、春に王都に行って、しずちゃんとはじめて会ったときには」
彗が語りだしたとき、硝子窓の向こうを見た扇ははっと固まった。
しゃららん、と喫茶の入り口の銀鈴が鳴り、真っ赤な衣の人物が、雨にぬれた雫をしたたらせながら入ってくる。
「誰の話をしている」
振り向いた彗はぽかんと口を開き、椅子から転げ落ちた。
「あああ、灯……!」
「そんな無様な出迎えがあるか、彗」
暴言を吐きながら、皆のもとへ歩いてくる魔女、灯。
床に転げたままの彗が裏返った声をあげる。
「どうして! 〈流〉は消えたんじゃあ」
灯はテーブル席にどっかと腰をおろし、不機嫌な顔でつぶやいた。
「また〈人〉の姿に封じられてしまった。長く〈人〉でいすぎたな」
と、甲板の向こうの船倉から、大荷物を背負った少年が急いで走ってくる姿が、店の外に見えた。准であった。
准は入り口の扉を開きながら、勢いこんで叫んだ。
「今、灯さんがいたような気が──」
「おう、准! 灯さんだよ」
鎧に声をかけられ、准は大きく目を見開き、灯に駆けよった。
「灯さん、無事だったんですね……! でもどうして」
「ああうるさい! 同じことを二度言わせるつもりかっ」
「また〈人〉に封じられちまったんですと」
立ちあがり口笛を吹くかのように言う彗に、灯がつかみかかる。
「おい、それは私の一番の秘密だ。言いふらしたらどうなるか──」
「どうなるっていうんです? あなただって魔法はもう使えんのでしょう?」
灯が黙りこむ。そこに扇が割って入り、テーブルの上に料理を並べた。
「朝ごはん、できましたよ」
皆がわぁ、と料理にむらがった。
喫茶では近頃、腹が減ってかなわない、と大ぶりの料理が日に何度も注文される。扇はすっかり料理人としての腕をあげていた。今も皿には、卵や野菜を挟んだ自家製のパンが彩り豊かに並ぶ。
皆はわいわいと再会を祝しあった。
宴ののち、一同は雨あがりの甲板に出た──准の旅立ちを見送るためだ。
行くんだな、と鎧が准の頭をぽんぽんと優しく打つ。
「いつでも帰ってこい。ひとっ飛びだろ?」
「うん。でも、成果があがってからね」
准ははにかみ、皆を見回した。
「がんばるといい。おまえの道だ」
灯がぐっとこぶしを突きだす。准はこぶしを突きあてて応じる。
「じゃあ、行ってきます!」
天狼に姿を変えた准は、遥かな高みへ、修行の旅へと翔けだした。
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