第82話 はじまり
……それは、はじまりのとき。
あらゆる色が響きあう透明な世界に、二人は音楽として在った。
ひとりは、水の流れを歌っていた。澄みきった水の輝き、柔らかな光のゆらぎ、そこに流れる歓びを奏でていた。
やがて水の音楽は、自らに映る空を見た。そこにもまた波間があり、光たちが輝きを競っていた。空と水の色はよく似ていた。水は空をも歌い、それを自らの色だと思った。青い流れとなって、二度と同じ響きにはならぬ音楽が流れゆくのを、ただ感じていた。
そうしているうち、知った。
上空遥かに広がる、もうひとりの流れを。銀にきらめく流星の音楽、銀の流れを。
青の流れは、銀の流れに惹かれた──恋をした。
そして、声をかけた。
〝一緒に、世界を旅しませんか〟
銀の流れもまた、青の流れをずっと見おろしてきた。
声をかけられ、とくん、と胸が打った。
〝それなら私には、行きたい場所があるの〟
銀の流れは青の流れに、遥か下方の世界を指し示した。色彩にあふれ、命が形をとって、男女が手を取りあい踊る世界を。
〝なんて美しい〟
青の流れはびっくりして涙をこぼす。
銀の流れはその雫を追って星を降らす。
二つの思いがひとつの音楽を奏でた。
〝一緒に冒険に行こう、体をまとって出会うまで、何度でも生まれて旅をしよう〟
──それが、僕と御影のはじまり……。
静湖は透明な世界で意識を取り戻した。
はじまりの追憶が、遥かに流れ去っていく。
すべてを見送ったとき、静湖を包むように声が響いた。なにより温かな──母の声が。
〝あなたは〈青き流れ〉であったことを思いだした。でもあなたは、そこからわかたれた〈人〉なの。〈流〉として生きることは、おおもとの〈青流〉に任せたらいい〟
「お母さん」
見えない母の温もりが、静湖を抱きしめて付け加えた。
〝〈銀流〉もそれは同じ。あなたたちはおおもとの〈流〉からこぼれ落ち、何度も〈人〉となり、旅をしてきたのだもの〟
「僕が銀流と、いや、御影と……」
静湖がつぶやくと、母はそっとうなずいた。
〝そしてあなたたちの今の旅は、まだ終わっていない〟
その言葉を残し、母の気配が離れていく。
はっと目を瞬けば、透明にゆらぐ世界に御影が立っていた。
御影は静湖を見つけ、驚いてはにかむように首をかしげた。はじまりのときの夢をあなたも見ましたか、今しがたの彼女の声は聴こえましたか、というように。
すると二人の足元に、青の流れがどこまでも澄んだ水と空を響かせながら現れ、頭上には、銀の流れが星の降る夜空の海を歌いながら広がり、二人を包んだ。
静湖には、その青き流れの正体がわかった。
「……お父さん」
それは静湖が生まれるときに母と結ばれ、生まれ落ちた静湖の中で響き続けてきた〈青流〉だった。
御影もまた、銀の流れに呼びかける。
「〈麗星〉、〈櫂覇〉」
それは御影が旅をともにし、新たに今、銀の響きを受け継いで生まれようとする〈銀流〉だった。
これまでも二人を守ってきた流れたちが、今、二人を導こうとしていた。流れの先に広がる、まばゆい輝きを放つ、生まれ変わった世界へ。二人は大切な存在たちに背を押され、手を取りあって、新たな世界へ踏みだした。
*
雪の積もった王宮の屋上庭園に、二人は倒れていた。
夜明けの光が、二人の頬やあたりの雪を柔らかく照らす。静寂が満ちていた。
御影は魔術師のドレスローブの裾から、失ったはずの素足をのぞかせていた。雪の上に広がった長い黒髪の先は金銀に輝き、安らかな寝顔はいつにもまして女性らしさを感じさせる。
彼女の腕の中に、王子静湖がかかえられていた。編みこみが解かれた青髪の下には、いつか失くした冬祭りの衣装のスカートがふんわりと広がっていた。
静湖が目を覚ましたのは、御影とほぼ同時だった。
ぱちぱちと目を瞬くと、すぐそばに自分を抱く御影の顔があった。その唇がそっと動く。
「静湖様」
「御影」
「よかった」
強く抱きしめられ、静湖は自分と相手の体の重みをしっかりと感じた。〈宙〉でのことは鮮明に覚えているつもりが、そうしている間にも夢のごとく薄れていく。それでも御影とのはじまりは、静湖の心の奥底で透明な歌を奏でていた。
雪が降ってきた。
祝福であるかのような白金の雪だ。
舞い遊ぶ雪片に重なるようにして、いくつもの景色が揺れて映った。二人の旅の思い出だった。はじまりから今までのあまたの旅の記憶が、ひとひら、ひとひら、天空の宙から降ってくる。
二人は立ちあがり、思い出を宿した雪片を、広げた手に受けて眺めた。
そのひとひらの中で、晴れ渡る空の下の田舎道を、今とはまったく異なる姿で、二人は歩いていた。別のひとひらの中では、雨の森で洞窟に身を寄せあい、風雨をしのいでいた。またあるひとひらでは、神官と叙勲される騎士だった。あるいは、貧しい兄弟として街をさまよい歩いていた。
そしてまたある二人は──。
〈流の炉〉に飛びこもうとした静湖に、御影が大粒の涙をこぼし、ついていくと言い張った場面。その少し前、王都の広場で、長い旅から帰還した静湖が、御影に迎えられ抱きしめられた場面。
思い出は雪の中に宿りながら、遡っていく。
これは悲しい魔法です、と御影が静湖に魔法をかけて逃がした日。初めての魔法の授業で、触れあった手を思わず引っこめた御影。橋のたもとで服を燃やす静湖のもとに、御影が黒馬からひらりと舞いおりる──あのときも再会だった、と静湖は思い出の雪片を、胸元に大切に包む。
そう、何度も何度も、僕たちは再会をしてきた。
もう離れたくない。
ずっとそばにいてほしい。
静湖は御影の手を取って見あげた。
「僕と、生きてくれませんか」
声は震えた。言いたいことはたくさんあるが、それがすべて。思いはあふれそうだが、それでも足りないのは温もり。
二人が他者であること。はじまりのときから両者は違いすぎたこと。だからこそ恋をしたこと。そしてはじまった旅の中で、今、向きあって思いを伝えてなお震えてしまう──それくらい遠い、御影。
御影の目が、優しく細められた。
柔らかなものに、唇をふさがれた。
御影の口づけだった。ゆっくりと唇をはんで、少しだけ顔を離し、御影は静湖の目をのぞきこむ。
「私の旅はすべてあなたのためにありました。ともに生きましょう、静湖」
ああ……、と静湖は御影の首元に顔をうずめる。
こみあげる思いにただ体が満たされた。
いつまでも、そうしていたかった。
やがて雪はやんだ。
おぅい、と声が庭園に響く。
准が、天海が、かけがえのない仲間たちが、静湖と御影を見つけて走ってくる。
二人は急に気恥ずかしくなって顔をそらした。御影はぱちんぱちんと片手の指を鳴らしてつぶやく。
「魔法が、使えません」
「え?」
「本当に、表の世界は〈人〉の手にゆだねられ、〈流〉の世とわかたれたのでしょうか」
再び顔を見合わせた二人のもとに、どっと皆がなだれこんだ。
〈第五番おわり〉
〈終曲につづく〉




