第48話 天翔ける狼 2
森を俊足で駆けながら大狼は准に語った。
〝流王がいた頃はすべてに音が流れていた。今はその流れはかすかになったが、風を駆ければ詠める。それにおまえは、もとから音を詠むようだな〟
はい、と准は狼として走りながら答える。
音を詠むとは、自分がいつも聴きとっている場や人の音楽のことだろう。灯による魔法の授業も思いだされた。灯は、水も火も人も音楽を持ち、その音をつかむことで魔法が使えると目の前で見せてくれた。
〝そうか。では、その音に乗るのだ〟
大狼はそう言うや、前足を大きく突きだし木々の上へ翔んだ。准には、大狼が風に流れてきた響きの中の旋律に飛びこんだのがわかった。
──そうやってつかむのか……!
准はしばらく地を駆け、聴こえてくる音楽に身を寄せていき、中心を貫いて流れる旋律に思いきってぶつかった。
准の体は、音の波に乗っていた。ふわりと浮きあがり飛翔する。いつしか空の領域へ、風の階段を駆けあがる。森をそよぐ音楽は、空においては大きなうねりだ。周囲すべてに響きが満ちてからみあい、准の乗る流れを成している。
前を往く大狼が振り向いた。
〝うまいな。さすが一族の者だ〟
〝とても心地よいです〟
〝ではさらなる境地を教えよう。そのまま音の流れに身を溶かすのだ。さすれば樹でも岩でも風でも、おまえは自在になりたいものになれる〟
准ははっとする。大狼は出会ったときに大樹に身を溶かしていた。天狼はそんなこともできるのか!
〝くれぐれも自分の音を見失うな──いざ!〟
大狼はおぉぉう、と歌い、風の中に姿を消した。
おぉぉん、と准も森と空に声をこだまさせる。
いくつもの音の流れに身をぶつけ渡っていくと、流れがほつれた裂け目が見えてくる。それは音楽と音楽の境目だった。その亀裂に自らの音楽を溶かしこむ。体の輪郭がゆらいでいく。
准は、音になっていた。
体は、消えていた。
渓谷が見え、向こうの山々がせまる。谷から噴きあがり気流として吹きすさぶ音楽──それらと准に境目はなく、すべては世界という交響の一部を成す色とりどりの流れだった。
音楽となった准は、流れに身をひたし、天を渡った。
*
静湖は倒木に座り、空を眺めていた。しばらくすると筋雲のような流れが空を横切っていった。二頭の天狼だ。静湖は立ちあがり、二頭の行方に目を凝らした。
二頭の天狼は織りあわされる糸のように上になり下になり、森の上を渡っていく。かと思えば、風に溶けて見えなくなった。
「准、すごい」
二頭が過ぎ去ったあとに、音楽が流れてきた。静湖は目を閉じて耳を澄まし、響きの深い彩りを味わう。
と、深遠な青の響きが静湖をとらえた。それは静湖の〈己そのものの音楽〉にとてもよく似て、静湖の中の音楽を共鳴させたが、どこか体の外から流れてくるものだった。じっと聴いていると、その音楽は広場の奥からやってくるのがわかった。
──知っている、この音を、響きを。
気づけば静湖は広場の奥へ向かっていた。大狼の出てきた大樹の向こうに、坂道が続いている。少し確かめに行くだけ、危険があったらすぐ戻る……、静湖は自分にそう言い聞かせ、持っていた准のバンダナを腕に結び、道を登りはじめた。
やがて水音が聴こえ、急な斜面を思いきってよじ登ると、左右にぱっくりと割れた渓谷が目の前に広がった。
珊瑚の家で見た絵画の、幽谷の風景だった。
山道は左右の谷沿いに細く続き、こちら側はさらに高い山肌になっていた。左手の道の先には、山肌から落ちかかる滝があった。
静湖が追ってきた青の響きは、滝音と重なりあって聴こえる。
「あっ」
滝の中に、ひらりと青色が揺れた。青髪の巫女装束の女性が、滝の向こうの山道を歩いていくのが一瞬だけはっきりと見えた。
「お母さん……!」
静湖は夢中で駆けだしていた。
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