第47話 天翔ける狼 1
空が白んできた夜明け前、静湖は船室で隣に眠る准をゆり起こした。ハンモックに顔を近づけ、小声でささやく。
「准、あのね、流ヶ淵に行ってみようと思って」
准ははっと目覚め、にやりと笑った。
「そう来ると思ってたよ」
静湖は今日も給仕服を着こみ、准も支度をして甲板へ急ぐ。船から降りる縄梯子をかけていると、声が飛んできた。
「どこへ行くんです」
喫茶の建物から出てきた扇が、夜明けの空を背にしていた。二人は事情を説明し、鎧たちが心配をはじめたら行き先を告げてほしいと扇に頼んだ。
「きっと危ない場所なのでしょうね」
扇はため息をつきながらも了承し、二人を送りだしてくれた。
*
早朝の町に人通りはなく、静湖と准は山の入り口まで密やかにたどりついた。
夜明けの空に伸びる木々からは静謐な気が発され、聴こえてくる鳥の声は鋭い。山に分け入る道は石が敷かれているが、太い白縄で封じられていた。
「准、行くよ」
「うん」
静湖は縄の下を、准は上を越えて山に侵入する。
しばらくは山肌の間に削られたかのような道を登った。木立の中、白縄の巻かれた大岩を何度か目にしたあと、目の前が開けた。
森の中の広場だった。苔むした大地の上、見あげるほどの大岩や、いつからあるとも知れぬ倒木に朝陽が差していた。その奥に、それらにひけをとらぬ威容の大樹が立っていた。
准が神妙な表情で、大樹に近づいていく。
「准、どうしたの」
准は少し離れた場所から、大樹をじっと見つめた。
「誰かいる。いや、誰かじゃなくて、たぶん……」
准がそう言ったとき、大樹の肌がふわりと白く浮きあがり、木から溶けだすように大きな白い獣が現れた。ふさふさとした毛を全身にまとう、静湖たちより背の高い狼だった。
狼はゆっくりとこちらに近づき、准の顔先で足を止めた。鋭いまなざしが准に注がれる。その瞳の奥には、思慮深い賢者の目の光があった。准はじっとその目を見つめ返し、おもむろに自身の頭の上でリボンのように結ったバンダナに手をかけた。
ばさり、と准がバンダナをほどく。
すると灰色の髪が全身を覆っていき、准の体の形が変わった。静湖があっと声をあげたとき、そこには大樹から現れた白狼よりひと回り小さな灰色の狼が四つ足で立っていた。
静かに差す陽を浴びながら、白と灰の狼はじっと向かいあう。
「准……」
静湖がおそるおそる近づくと、太い声が心の中に直接響いた。
〝我が一族の者とその友か。なにをしに来た。この先は〈宙〉だ〟
〝あなたに会いに来ました〟
答える准の声も心の中に響く。
〝私に……。だがそれだけではあるまい〟
「お母さんがここでいなくなったと聞いて、見にきたんです」
静湖は声をあげていた。
大きな狼はゆっくりと狼の准の脇を抜け、静湖の前へやってきた。
〝面白い音楽だ〟
「僕が?」
静湖は自分を指さして首をかしげる。
〝流王を思いだす……王よりはずっとかわいらしいがな〟
大狼は同族の准にも体を向けた。
〝〈人〉として暮らしているのか。音は詠めるか?〟
〝え?〟
大狼はひらりと広場の端へ駆け、身をひるがして大きく翔んだ。その姿が淡い青空に映え、山に溶ける。静湖が驚いてあたりを見回して探すうち、またひらりと空から白い尾を引いて大狼は現れ、大地に着地した。
〝音を詠めば、天を翔けられる〟
試すように見つめる大狼の前に、准は一歩進みでる。そして鼻先を静湖に向けて言った。
〝僕、しずの力になりたいんです。天狼として翔ける術を、教えてください〟
おぉぉん、と大狼は天に向けて吼えた。
〝ならばついてくるがよい〟
大狼が森の中へ駆け、准が一度、静湖を振り向いてからそれを追った。静湖は落ちていた准のバンダナを拾い、倒木に腰かけて空を見あげた。
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