第44話 珊瑚の浜 1
日が高くなった頃、珊瑚が船を訪ねてきた。
船室の静湖と准に知らせにきた鎧によれば、彼女はひたすら謝り、静湖は大丈夫かと恐縮しているという。昨晩の語らいで心も落ちついていた静湖は、珊瑚に会うことにした。
「しずくん!」
静湖と准が喫茶の建物に入るや、テーブル席で珊瑚が立ちあがった。他の席は、彗が呼びこんだ客で埋まり、鎧と扇は忙しく立ち働いている。
静湖たちが向かいあって座ると、珊瑚は口早に切りだした。
「昨日は本当にごめんなさい。二人とも驚かれたでしょう。神官長にはきつく抗議したのですが」
「いえ」
小さくもはっきりした声で、静湖はさえぎった。
「知らずにいるよりずっとよかったです。また会うのは怖いけれど」
「しずくん……」
はっと身を引く珊瑚を追う勢いで、静湖は尋ねた。
「僕が流王様の生まれ変わりだなんて、なにかの間違いでしょう? 流王様はこの地の皆さんにとって、とても大切な存在だったというのに、どうして僕なんかに生まれ変わったと信じられるんですか。二歳までしかこの国を知らない僕に」
珊瑚はテーブルの上で手を組み、目を落とした。
「それは……更紗様がそうおっしゃったからです」
「母上が?」
「私も神官長も、更紗様の言うことを疑いはしません。更紗様は十四年前、神域に波空の人たちが訪れてなにかが起こったあの晩、流王陛下を身ごもったと明かしてくれたんです」
「え……」
静湖は思わず声をもらす。母がどんな人であったか、静湖は知らない。母が語ったこととなると、昨日聞かされた話とは違い、聞き流すことができなかった。
珊瑚はため息をつき、それ以上は深く語らずに付け加えた。
「神官長は更紗様の付き人で、彼女が巫女として引退したあとに伴侶となるべき人でしたから、衝撃だったでしょう」
「あの人が、母上の……」
静湖がぽつりとつぶやくと、珊瑚はひとりごとのように小さく言った。
「更紗様はあなたを産み二歳まで育て、いなくなった。その後あなたは父を名乗りでた波空の王様に引きとられた。でも更紗様がいつ波空の聖妃だなんてことになったのか」
あ、と珊瑚は口元を手で覆った。
「ごめんなさい……! 私、またつらい話をお聞かせしてしまって。今日はしずくんに一目でも見てほしいものがあり、お誘いに来たんです」
「なんのお誘いですか」
准が強い調子で口を挟む。珊瑚はテーブルの上に丁寧に両手を重ねた。
「しずくんの生家をご案内したいんです」
「しずの生まれた家?」
准は思いもよらなかったのか、語気をやわらげる。静湖も驚きとともに心がはねるのを感じた。祈るような顔を向けてくる珊瑚に、静湖は微笑みを向けた。
「行ってみます」
「よかった! お魚料理もごちそうしたくて」
静湖は准にいたずらっぽく笑いかけた。
「彗さんたちには内緒だね」
「しず、がんばりすぎないでね。しずが生まれる前のことは、しずには関係ない」
准の言葉はありがたかった。昨晩の語らいを通して、准も心から僕を気遣ってくれているんだ、と静湖は暖かな気持ちになる。
「うん、ありがとう。でも、知りたいんだ……お母さんのこと」
静湖は恥じらうように手を小さく握ってこぼした。
珊瑚が泣きそうな笑い顔で、はい、と答えた。
*
珊瑚は船をおりると、岬とは反対の左手へ浜を進んだ。
波打ち際の浜辺を、静湖と准は白い砂を踏みながら歩いた。この砂は湖の貝や珊瑚が砕けたかけらで、自分の名の由来だと珊瑚は語った。
珊瑚はまた、湖で採れる魚の名をひとしきりあげ、こうしめくくった。
「そうやってこの地の人々が魚を採るようになったのは、流王陛下がお隠れになってからなんです」
静湖と准は思わず、え、と訊き返す。
「それじゃあ、この十何年かのことなんですか」
准が尋ねると、珊瑚はうなずいた。
「その前からも漁師はいましたが、魚を採って食べるのは主に儀式のためでした。流王陛下が皆のもとに流れていた頃は、お腹が空かなかったんですよ、不思議でしょう? ですが今ではすっかりお魚料理がこの地の皆の支えです」
話しながら歩くうち珊瑚が、あれです、と前方を指し示した。行く手には二軒の丸い家が見えた。
二つの白い家は寄りそうように建っていた。浜側には庭を持った小さな家があり、そのうしろには前の家を抱くようにもう一軒が大きくそびえていた。手前が静湖の生家であり、奥の家はかつての巫女一族の本家だという。今は二軒とも、珊瑚がひとりで住みこんで管理をしているそうだ。
静湖は庭に近づいて、生家だという家を見あげた。二階には出窓があり、一階の表玄関は向こう側にあるが、こちら側にも庭に出る硝子戸がついていた。
「どうぞ、入ってみて」
珊瑚が庭の白い柵の戸を開く。庭は浜から続く砂地でありながら、初夏の草花が生い茂る中に石畳が埋めこまれ、よく手入れされていた。静湖はおそるおそる踏み入る。家の硝子戸は開け放され、レース編みのカーテンがはためいていた。
──ここが僕の生まれた家……。
なにかが薫るような不思議な気持ちがわきあがる。ぼんやりとして、どこかなつかしい。そう思って目を細めたとき──はためくレースに半身を隠し、硝子戸のへりに手をかけ、誰かが笑っていた。青色の長い髪が、レースの向こうに透けて揺れる。
〝いらっしゃい〟
そう言われた気がした。
「あ……」
声をあげたときには、その場には陽炎が立つばかりだった。庭木で鳥がさえずる。振りあおげば、青い翼を広げて飛び去っていった。
「しず、どうかした?」
准に顔をのぞきこまれ、静湖はつぶやく。
「お母さんが、いた気がした」
「えっ」
「いらっしゃいって。中に行ってみる」
准はうん、と微笑んで、静湖の隣に並び、硝子戸をまたいだ。
家はよく整えられ、今でも家族が暮らしていそうな気配があった。土間のかめには水が満たされ、かまどには新しい薪木がくべられている。動物を模した椅子が置かれ、丸みを帯びた木の食器が棚に並び、小さな子どもがいる暮らしがうかがえた。
それらはすべて、二歳になるまでの静湖のためのものであったに違いない。ひとつひとつの品への思い出は蘇らないが、空気のにおいがなつかしい。そう感じるとともに、この家が時を止めていることに静湖の心はひりひりと痛んだ。
「二階もありますよ」
珊瑚に庭から声をかけられ、静湖は准とともに階段に向かった。
あがりきって、足を止めた。
青髪を風になびかせ、出窓に頬づえをついて、その人は湖を眺めていた。ゆっくりとこちらを振り向く。淡い逆光の中に、優しい笑顔とくすりと笑う柔らかな声が溶けていく。
静湖は立ちつくした。
暖かな気持ちがわっと心にあふれ、同時に心はしぼられるようにしめつけられた。
その人のことを、よく知らないと思っていた。その人のことを、恋しいだなんて思ってはいなかった。だけど、と静湖は気づく。その人に、僕は会いたかった──。
かかえきれない思いが唇からこぼれるように、静湖はつぶやく。
「お母さん……」
出窓の向こうには、静かな湖が広がっていた。母はその景色を静湖に名づけ、贈ってくれたに違いなかった。青い湖面。打ち寄せる波音。すべてを呑んでなお穏やかな心そのもののような光景。
温かな両腕がぎゅっとうしろから回され、体が包まれている気がした。
*




