第39話 黒の音楽
静湖たちが喫茶の建物へ入っていくと、厨房のあった場所で扇が舵を握り、彗は新しい流し台で洗い物をさせられていた。灯によって厨房は操舵室に改造され、カウンタに炉や流し台が新たに取りつけられたのだ。
その場に静湖たちが加わり、旅をともにする六人全員が喫茶の建物に集った。
硝子の壁の向こうは白い霧に覆われている。時折、紺色にも近い影が流れていき、雲の中を進んでいることがわかる。
「どうやらこの船、雲の中を飛びはじめたようだな」
「はぁ?」
先頭の壁まで歩いていった灯がこぼした言葉に、彗と鎧がすっとんきょうな声をあげた。
「どういうことです、船は湖を走ってたはずでしょう」
尋ねる彗をいなすように灯は言う。
「雲海地方の名は伊達ではない。この地域に近づくにつれて、湖の水は雲になり、進んでいった船はいつのまにか雲の中を飛ばされることになるんだ」
「そんなばかな! 空を飛ぶための船じゃないでしょう!」
裏返った声をあげる彗に、どうだかな、と灯は続けた。
「もともとこんなぼろ船が水の上を走ってるだけでどうかしている。この船が動いているのは皆、湖の〈流〉の力に支えられているからだ。水の上でも雲の中でも一緒だよ」
「ぼろ船じゃねぇぞ」
鎧がかみついたとき、ごぉぉと海鳴りのような轟音が響いた。
どん、と暴風が船にぶつかり、激しい音楽が静湖の耳に届いた。暗い夜の断崖に打ちつける波のように荒々しく、無数の太鼓や鐘が鳴らされているかのような音楽だ。その音楽は満ち引きするように、遠く近くなりながら、船内に押しよせてきた。
「お、音楽の雲に呑まれちまったんでしょうか」
「舵がききません」
彗は洗い桶に手をひたしたまま、扇は舵を握りしめて、心配そうにあたりに目をやる。
「そう、音楽の雲──〈流〉だな」
前を見つめ、灯がそう口にする。
その矢先、ごぉぉう、といっそう激しく曲がうなった。嵐に巻きあげられる木々を歌うかのような旋律が前方から打ちよせたかと思うや、ばん、と音を立てて、分厚い雲が船にぶつかった。
雲が、壁に囲われているはずの室内にまで流れ、静湖の視界は真っ白になる。船はゆらゆらと大きく左右に揺れた。静湖は思わず、准と手を取りあう。
そのうちに雲が切れ、音の嵐も流れ去っていった。建物の中を見渡して、静湖はあっと声をあげる。
テーブル席の一角の床の上に、見慣れない青年が倒れていた。
「お、おいっ」
「どうしたんですか!」
鎧と准が、青年に駆けよる。それを追おうとした静湖は、灯を見てはっと立ちすくんだ。灯は驚愕の表情を浮かべ、遠くから青年を凝視してなにかをつぶやいた。
青年は、王宮にいてもおかしくない立派な仕立ての服装をしていた。丁寧に編まれた銀の髪に、胸元に光る宝玉。安らかな寝顔は、心根の優しさを感じさせた。
青年の無事を確かめる鎧たちのもとへ、灯はゆっくりと近づいていった。
「朔夜……」
灯のつぶやいた名に、静湖ははっとする。その名前を、灯から聞いたことがあった。前代〈流の祭司〉の名であったはずだ。
灯は青年の脇に膝をつくと、彼のあごに手を添えた。青年が気づく風はない。
ごぉぉ、と再び音楽が巻きおこり、どらの音のような轟音があたりに鳴りわたった。その音の波のはざまに、夜の闇よりなお深い声が響く。
〝赤の〈流〉よ、約束は果たしたぞ〟
灯が立ちあがり、大声で空に向けて吠えた。
「黒の〈流〉だな? 約束とはどういうことだ」
静湖はびっくりしてあたりを見回す。船の外には雲が重く立ちこめるばかりで、〈流〉の姿は見当たらない。激しく鳴りわたる音楽こそが、黒の〈流〉と呼ばれたものの正体なのかもしれない。だとすれば、赤の〈流〉とは──。
黒の〈流〉と呼ばれた存在は、声を響かせ続けた。
〝おまえが王都の兵器を倒しにいくときは力を貸す、と約束したではないか、赤流〟
そのまま声はごぉごぉと笑うように遠ざかっていく。
灯が追いすがるように叫んだ。
「おい、黒流! この〈人〉をどこで見つけた」
〝拾いものだ。王都から不穏な雲が流れきて、このあたりの〈宙〉の密度が変わってな。その者は、体を再結晶化させたようだ〟
「王都からの不穏な雲だと?」
〝どうやらあちらは〈反転〉を起こしているらしい……〟
ふっ、とあたりに立ちこめていた雲が途切れた。船が晴れ間に浮上する。灯の言ったように、船は空を飛んでいるかに見えた。
船の行く手に、黒々とした大きな飛龍の姿があった。飛龍は音楽を一身にまとうようにして離れていく。皆が、引いていく音楽をすがるように見送った。
それきり、激しい音楽も深い声も響くことはなかった。
灯は険しい顔を蒼白にさせていた。静湖はこわごわと問いかける。
「灯、今のは、黒の〈流〉……?」
「ああ、そうだ」
「この人は〈流の祭司〉の朔夜さん?」
眠れる青年を改めて見おろし、灯は答える。
「そう、二十年以上前に〈宙〉に旅立ったはずの。こいつはかつて自らを犠牲として、王都の〈流の炉〉の寿命をのばしたんだ」
「〈流の炉〉って、灯が前にも言っていた──」
以前、灯は語っていた。王都の地下には〈流〉が巡っており、その力によって地上では魔法がたやすく使える。地下の〈流〉は弱って死にかけているのに、〈流の炉〉という装置によって力を巡らされていると──。
静湖はまた、大叔父の名が朔夜であったことを思いだしていた。父である国王天海の叔父であり、生きていれば五十代は超えているはずだ。目の前の青年は父ほどの年齢にしか見えないが、〈流の炉〉の犠牲となったときのままの年齢なのだろうか?
静湖が言葉をなくしていると、准が口を挟んだ。
「今の声、灯さんのことを赤の〈流〉って」
灯は、はっと息を吐き、目を見開いて笑った。
「聞き違いだろう。赤の〈流〉は二十年ばかし前、〈流の炉〉に投げこまれ死んだのだ」
灯の目には、異様な光が踊った。静湖も准も、思わずたじろいで言葉をなくした。時が凍りついたかのような沈黙。その間に、鎧の声が割って入った。
「おぅい、この男、船室に運んで寝かせるぞ」
「あ、はいっ」
准は慌てて鎧に駆けより、ともに青年をかつぐ。
灯はらんらんとした光を目に宿したまま、船の行く先の空をにらんでいた。
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