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第38話 雲の海

 (がい)の店であった船は、光海国(ひかるみこく)を目指し、湖を北上していた。


 百年前までこの船が現役であった、とうそぶく(あかり)は、魔法を介しての操船術を(すい)(じゅん)に教えこんでいる。が、数日が経って、一番に技術を習得しつつあるのは横で見ていた(せん)であった。

 船旅の仲間は、彼らに静湖(しずみ)を加えた六人だ。


 聖湖(せいこ)は南北に長い形をしており、光海国は北の端である。南端の天流(あまる)地方からは、いくつかの地方を越えなければならない。

 そのうちのひとつが雲海地方だった。


 雲海地方にさしかかった船は、その名の通り、湖上をすべるような雲に周囲を覆われ、見通しがきかなくなっていった。皆は甲板の上の喫茶の建物から、こわごわと外を眺めて過ごしていた。


 そんな中、静湖はひとりで船倉の部屋にこもっていた。床に二つの箱を開き、ああでもないこうでもない、と中のものを広げる。


 准が出してきた男ものの服と、扇に借りている給仕服だった。


 少年らしいいでたちをすべきか、少女にも見える装いを続けてもいいのか。記憶を取り戻したことで、かつて女ものの服を燃やした日の決意もしかと思いだしていた。それでもシャツとズボンを脱いでワンピースをかぶり、ふわりと揺れるスカートごと自分を抱くと、思いがあふれる。


 ──御影(みかげ)……。


 今、どうしているだろう。思いだすのは別れ際の悲しげな顔ばかり。それと父、天海(あまみ)の腕に抱かれる別の姿……。ああ、御影は奥の宮だったのだ。僕は御影のこと、本当になにも知らなかった……。


 一方的に好きだっただけ。でもその気持ちは、今なおあふれ続ける。そんなときにぎゅっと抱きしめてしまうのは、少女の衣服なのだった。


「しず、着たい服はあった?」


 声に振り向けば、船室の入り口に准が立っていた。


「うん、いくつか准のを借りるね」

「でもやっぱり扇の服が気に入っているんだね」


 給仕服をまとい、抱きしめてまでいる静湖の心の声はだだもれだ。静湖はあたふたと言い訳を探す。


「……おかしいよね。たとえば父上が僕を横に立たせて王子だと紹介するとき、女装はしない。女の子になりたいわけでもない」


 准は静湖の脇にしゃがみこんだ。


「ここはお城じゃない。落ちつく格好をしてなよ」


 ううん、と静湖は首を横に振った。


「なにを着てても、どんどん落ちつかなくなるんだ。御影のこと、思いだして」


 准をはじめとした皆は、この店に冬の間、滞在していた無口な魔術師こそが、静湖の師の御影であったと合点したところだ。静湖はとりわけ御影のことを話すわけではないが、同室で長くともにいる准には、静湖の思いはよく伝わっているようだった──師として、という以上に、御影を慕う思いは。


 静湖は小さな声でつけたした。


「……女の子になりたいわけじゃない。でも、女の子の格好をしていると、安心して御影のことを好きでいられる。そうじゃないと自分がほつれていきそうで」

「なら、その服でいたらいいじゃないか」


 いつのまにか、灯が扉にもたれ腕を組んでいた。


「おまえがどんな装いで人前に立とうと、心に定めたおまえの像をぶれさせなければいい。その像こそが大切だ。そうだろう、〈流の祭司〉の坊?」

「は、はい」


 静湖は箱に衣服をしまい、給仕服をまとったまま、准とともに立ちあがった。


「でもその〈流の祭司〉というのは、記憶が蘇ってもよくわからないんです。なにをする祭司なの?」


 灯はああ、と目を閉じて語った。


「その昔は〈流の鏡〉ともいわれた。〈(リュウ)〉の代弁者、〈流〉と〈(ヒト)〉とをつなぐ者。おまえは自覚がないだろうが、よく〈流〉と渡りあってる立派な〈流の祭司〉だよ。スカートをひらひら揺らして駆けまわる姿が似合いだ」


 灯はくつくつと笑う。からかわれたか、と静湖が首をかしげれば、灯は真顔でつけたした。


「そして〈流〉と世界の摩擦、〈流災〉が起これば対処するのも〈流の祭司〉だ。魔術師のように力で押しこめるのではなく〈流〉と対話する役割さ」


 ──流災! 静湖はにわかに緊張する。

 灯はそんな静湖の肩を軽く叩いた。


「生まれ持った資質と長年の修行がなければできるものではない。長年空位だったのもさもありなんというところだ。おまえが期待されて選ばれたのは誇るべきことだぞ」


 灯にそのように言われては、〈流の祭司〉として自覚を持たねばならない。静湖は小さくうなずきながら、考えを巡らせた。


 静湖が幼い頃には、王都に大雪が降る〈流災〉があった。かぶった者を眠りにつかせる魔法の雪であったという。そのときは〈流の祭司〉がおらず、宮廷魔術師たちが〈流〉を追いやったと聞く。


 思いだした知識が、近しい記憶につながっていく。


 静湖が御影によって転送魔法をかけられたとき、王都には雪が降りはじめていた。あれが〈白流〉が降らせていた雪だったとしたら? ひょっとして、幼い頃に大雪を降らせ追いやられた〈流〉というのも〈白流〉のことだったのか?


 だとしたら、その後、王都はどうなってしまっただろう。〈流災〉といわれるほどの事態に見舞われているのだろうか……?


「おぅい!」


 大きな呼び声がして、静湖は現実に引き戻される。准と灯とともに廊下に顔をだすと、船倉の扉のもとで鎧が手招きしていた。


「灯さんや! 外は雲でいっぱい、なんも見えやしねぇ。彗がわめくから、操舵室に来てやってくれねぇか」


 開いた扉からは雲の切れ端が流れこんできた。外は真っ白だ。三人は鎧とともに甲板の白い世界に踏みだし、喫茶の建物へ向かった。


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