第34話 緑の王
雨にぬれながら夢中で走り、静湖は天流丘の頂上の大樹のもとへたどりついた。
幹に手をついてはぁはぁと息を整え、雨が降ってこないことに気づく。葉陰が雨をさえぎっているだけではない。地面も幹も乾ききって、うっすらと光り輝いていた。
驚いて見あげると、枝葉もが淡く光っていた。
光る葉の中に、人がいた。童顔の青年が木のまたに腰かけて、にこにこと静湖を見おろしていた。ふわふわと広がる髪は、輝く葉に溶けこむような緑色。
「やぁ、会いたかったよ、青流」
「誰、ですか」
青年は、うーん、と首を少しかしげて答えた。
「〈緑流〉と言えばわかるかな。緑の名で呼ばれる〈流〉が〈人〉になってみた、というところ」
「〈流〉の王……?」
「そうそう、そんな風にいわれることもある。湖の〈流〉として知られているよ」
静湖は目をぱちくりとさせる。
〈流の祭司〉に任じられたこと。〈流〉は音楽に宿る命である、と教わったこと。色の名で呼ばれる〈流〉の王とされる存在がおり、その中の〈白流〉とやりあったこと。それらがはっきりと思いだされた。
「僕は青流じゃないです、静湖といいます」
「そっか、静湖か。お母さんにもらった名前かな」
「……知らないんです」
緑流はおだやかな微笑を浮かべ、指を立てた。
「お母さんじゃないかな。お父さんはいないものね」
「え?」
「あ、いや失敬。青流がお父さんになるのかな、君自身も青流だけど……」
緑流はひとり考えこむようにつぶやいた。
「僕の生まれのこと、知っているんですか」
静湖の母は更紗という。地方領国のひとつ、光海国の出身だ。静湖は光海国のことをよく知らないが、静湖自身も出産されたのはその国であり、出生ののちに波空本国の父、天海のもとに引きとられたと聞かされている。
が、母はもういない。
父である天海から詳しい話を聞く機会も、ほとんどなかった。
黙りこんだ静湖に、緑流は興味深そうな瞳を向けた。
「僕らの間では有名だよ。皆、見守っている。〈人〉の世界に生まれ落ちた〈青流〉がどうなったかとね。でも君の言う意味での生まれの経緯は知らないなぁ……人と人がどう出会って、いつ子どもが宿ったかなんて……」
「いや、その、そういうことじゃなくて」
「とにかく君の生まれた光海国に行ってごらん」
すとん、と緑流は枝の間から飛びおりて静湖に並んだ。
「雨を降らせるのも、もうやめにするから」
「あなたが降らせていたんですか」
「そう。白流のやつが君を見つけないように。君が、御影の滞在した家でゆっくり休めるように」
「御影を知ってるの!」
静湖が思わず叫ぶと、緑流は形のよい眉をさげて笑った。
「家の人たちから聞かなかった? 医者を名乗って、あの家に御影を運びこんだのは、僕だよ」
*
准と扇が並び歩きながら丘の上に至ると、さぁ、と吹きわたる風にさらわれて雨があがっていった。その向こうに、大樹が光り輝いている。二人は思わず傘を取りおとして駆けだした。樹のもとには静湖と、あの魔術師が滞在した折に、鎧の店に出入りしていた緑の髪の青年の姿があった。
「しず……!」
静湖が、走ってきた准と扇に向けてはにかんだ。
「記憶が、戻ったよ」
「記憶が?」
尋ね返した准に、静湖はきちんと体を向け、一礼した。
「僕の本当の名前は静湖。波空国王都の王宮に暮らしてた」
准ははっとして静湖の全身を見つめる。名前を取り戻した静湖はもう、借り物の給仕服に着られている、自分を見失った少年ではなかった。その凛々しい居住まいは、この国の王子のもの──。
「わ、わ……」
驚きでうまく言葉が紡げない。呼びかけようにも、しず、ではないのか。記憶が戻った静湖はやはり王子様で、もう僕らのもとからはいなくなってしまう……、そんな予感にも胸は震えた。
が、准の隣で、扇は明るく言った。
「静湖さん。記憶が戻ったんですね、おめでとう」
静湖はじっと扇を見つめた。
「ねぇ扇、その手」
准もはっと扇を見る。胸の前に組まれたその手は、義手ではなかった。扇が慌てて腕をまくる。そこには人の腕が続いていた。
「そんな……私……」
──〈人〉になった扇が、動揺に声をあげたとき。
凄まじい地鳴りとともに、大地が揺れた。丘の斜面が見る間に崩れ、湖畔へ流れていく。土砂の先にあるのは、鎧の店だった。
扇が、駆けだした。
「あっ、扇!」
「すぐに動くと危険だ」
追おうとした准は、青年に肩をつかまれた。
扇の姿はあっという間に、砂塵の中にまぎれてしまった。
*




