第32話 魔法の真髄
店の上に張りだした船の舳先には、いくつかの「屋根裏部屋」がある。静湖は准の自室に間借りをし、灯は隣の部屋に寝泊まりしていた。
夜、珍しく灯の部屋の扉が開かれており、起きだした静湖はそっと中をのぞいた。斜めになった部屋に吊ったハンモックに寝転んだ灯は、本を読んでいた。
「どうした、しず。よければ入れ」
灯が顔をあげたので、静湖は部屋に入った。准の部屋も下の階も静まり返り、ぱらぱらと屋根を叩く雨音だけが響いている。
「眠れないのか」
「今日、扇が言ったことが気になって」
静湖はハンモックの横のクッションに腰をおろす。
「扇は人形なんだよね。でもここの〈人〉たちのように、ある日気づいたら完全な〈人〉になってる、そう期待されているみたい」
「そのようだな」
本を置いて、灯が応じる。
「それはどういうこと? 人形の扇が〈人〉になったら、人形の体が魔法で人間の体に変わるの? 鉱石だった鎧さんも、石が人になったの?」
「そこが不思議なのか」
灯はじっと静湖を見つめた。
「では包み隠さず真実を伝えよう。扇が〈人〉になるとき、それまでの人形の体はひとたび消えて音楽になり、その音楽が人間の体を形づくる」
静湖は首をかしげた。
「じゃあ、僕たちの体は音楽でできているの?」
「そうだ。この世界のすべては音楽でできている、と言っただろう。人間の意識や体も、例外ではない。人間の意識と体は、ひとつの音楽で成っている」
「〈己そのものの音楽〉……?」
「そのとおりだ。獣や石は、自然界の音楽の一部だ。だが彼らが大いなる自然の流れの中から〈己そのものの音楽〉をつかみとったとき、その音楽が個別の体をつくる──それが〈人〉だ」
「そんなことが……」
静湖はぽかんとして、手を握って開いた。
「僕たちの体が、音楽でできてるなんて」
「不思議に思ったことはないか? どうして獣のようにたくさん食わずとも生きていけるのか。自然界では強きものが弱きものの体をむさぼり、命が巡っている。この国の中でも、地域によっては大食らいをする。音楽を食べているのだ」
──音楽を食べている?
静湖は獣が獣を食べる、あるいは植物をはむ様子を思い描いた。あらゆるものが音楽でできている中、ひとつの音楽が、他の音楽を取りこんで生きる様を……。
驚きに目を見開く静湖を見ながら、灯は続けた。
「だが〈人〉は音楽の申し子。音楽を聴いたり奏でたりすることで、自分を作っている音楽を活性化していれば、そんなにたくさんの音楽を食うこともない──そういうことだ」
静湖はおずおずと言った。
「すぐには信じられないよ。信じたら、わけがわからなくなりそうで」
「ああ、魔法の真髄を知るとは、そういうことだよ」
ふっと息をついて灯は笑う。
二人はしばらく雨の音を聞いていた。静湖は、灯が語ったことを考えた。灯の言葉は、ひとつの考え方なのか? それとも魔術を極める者たちがたどりついた真理というものなのだろうか。実際に、石であった鎧も狼であった准も、〈人〉になったのだ。
静湖は再び、灯に顔を向けた。
「でも、どうして皆、〈人〉になるの? まるで人間が特別な存在みたい」
「そうだな……〈人〉は、〈流〉になるから」
「え?」
灯は目を閉じ、ハンモックに体を揺らした。
「〈宙〉にいる〈流〉たちが夢を見ているのだよ──自分は〈人〉だとね」
「〈人〉は〈流〉の夢……?」
「だが時折、夢から覚めて〈流〉になる者がいる。おまえさんの前代の〈流の祭司〉もそうだった。朔夜という名だったな」
流の祭司、と静湖はつぶやく。灯が優しく声をかけてきた。
「昔語りをする気はないんでな、そろそろ寝るといい」
「うん……おやすみなさい」
扉のもとまで歩み、静湖は振り返った。
「〈流〉って、なんなのですか」
「それはおまえがたどりつくべきものだ。明日も催眠を試そう」
だがそれから何日も、静湖や他の誰かが、催眠の最中になにかを見たり思いだしたりすることはなかった。
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