第30話 己の音楽 1
准には、いつも音楽が聴こえている。
昔聴いた曲や誰かの作品であることは少ない。そのときどきの光景、居合わせた人に添って、風や空気の流れのように曲がある。たくさんの曲が織り重なり聴こえてくる。
皆に尋ねても、そんな風に音楽は鳴っていないという。
なんなのかはわからない。だがいつも「一番すごい音楽」をたどっていくことが、准の生き方になっていた。
*
「記憶を蘇らせるため、魔法の訓練を行なう」
雨が続くその日、客のいない鎧の店で、灯は宣言した。
扇は今日も菓子づくりに、鎧はカウンタ席で銀器みがきに興じている。給仕服に袖を通しながら起きてきたばかりの静湖は寝ぼけ眼、准は記憶の件にはかかわりないのだが、灯は二人をテーブル席につかせ語りかける。
「それにはまず歌ってもらおう」
灯はきょとんとする二人を立たせて講じた。
「魔法を使うとは、心に耳を澄まし、〈己そのものの音楽〉をつかんで歌い奏でることが第一歩だ。ではおまえから」
顔を向けられ、准は慌てて尋ねた。
「自分そのものの音楽をつかんで歌えばいいんですか」
「わかりがいいじゃないか」
准は目を閉じ、あたりに響くいくつもの曲の流れを感じた。さやかな音楽、鮮やかな音楽、地を這うような音楽が、織り糸のようにからまりあって、この場の響きを創っている。耳を澄まして聴きわけるうち、渦巻く炎のような力強い旋律が浮きあがって聴こえた。
──これだ! 准はその音楽を選りわけてとらえ、歌いはじめた。
「やめ!」
目を開けた准は、灯に襟元をつかみあげられていた。
「おまえ、なにをした。どうしてそんなことができる」
「あの、その、この場に響いている曲の中で一番すごいと思ったものを」
「かーっ、この天然!」
隣の静湖がびっくりおろおろとする中、灯は准を放した。
「おまえが歌おうとしたのは〈己そのものの音楽〉ではない。私そのものをつかみとって歌ったのだ。完璧に歌えていたら、私を掌握していただろう」
准はぽかんとした。あのすごい音楽は、灯から流れでたものだったというのか。だが灯の言葉によれば、他者の音楽を聴きわけて自分のもののように歌ってはならないらしい。頭をさげて謝ろうとすると、灯がふっと笑った。
「末恐ろしい才能だ。悪い魔術師にはなるなよ」
「は、はい」
「さて、こちらさんはどうかな」
灯が静湖のほうを向く。静湖はおずおずと答えた。
「僕そのものの音楽って、ひょっとして、灯の家のあのオルガンが奏でてくれたもの?」
「そうだ」
「今は……あの深い海の底に音楽がもぐってるみたいで、うまくつかめない」
静湖が目を伏せると、灯は、そうか、とカウンタのほうへ歩きだした。
「二人とも心の耳がいい。音楽をつかむこともわかっているようだ。ちょっと来てみろ」
灯に呼ばれ、二人もカウンタへ向かう。扇に断りを入れてから、灯は厨房に入り、流し台の蛇口をひねって水を出した。ざぁぁ、と水が流れる。
「今、水の音楽が場に加わったのが聴こえるか、准?」
カウンタ越しに流し台を見ていた准は、水が流れはじめた途端、ざぁぁという水音の周りにささやくような歌の流れが加わるのを聴きとっていた。
「かすかに、妖精の歌みたいなものが」
灯はうなずき、水を止めては出す、を何度かくりかえした。
「准ははじめからわかるようだが、訓練により、水を流したときに水の音楽が聴きわけられるようになる。それを歌や演奏により再現できる技量があれば、水のないところで水を生ずることができる」
「水の旋律を歌うってこと?」
静湖が問いかけると、灯は首を横に振った。
「水の旋律、という定まったものがあるわけではない。准ならわかるだろう、水の音楽は常に移ろっている。その上、聴こえ方はおのおので異なる──私の場合は」
灯はよどみなく駆けあがるような旋律を口ずさみながら、両手を組み、ほどいた。すると上の手から下の手へ、いずこからか水が現れて流れ、水球を成した。
水球をもて遊びながら、灯は講じ続ける。
「このように水を現すことができる。私にとっての水の音楽と、准やしずにとっての水の音楽は異なるだろう。私はそれを、水の音楽を〈己そのものの音楽〉に取りこんで歌う、と定義している」
「その水は、どこから現れたの?」
静湖は目を大きく見開いて問い続ける。灯は不敵に笑った。
「この世界の裏側さ」
「裏側?」
静湖と准の声が重なる。灯は、そう、と語りだした。
「〈宙〉と呼ばれている。この世界のあらゆる場所に重なっている裏地の世界であり、〈流〉たちの世界だ。そこにあるものは、すべて音楽でできている」
灯はそう言ってから、いや……、と言葉を切って続けた。
「その言い方は正確ではないな。この世界にあるものが、すべて音楽でできているのだ。世界の裏地をめくれば、それがわかると言うべきだ」
静湖は首をかしげていたが、准はあっ、と声をあげた。
「僕、いつもいろんな曲が聴こえるんです。目を閉じれば、色合いをもって流れているようにも感じます。それは裏地の世界を見たり聴いたりしているんでしょうか」
じっと聞き耳を立てていたらしい鎧が、驚いたような顔を准に向けた。
灯は、おそらくな、とうなずき、水球を弾きながら続けた。
「余談だが、そこの湖の中はとても密度の濃い〈宙〉の世界が重なっているという。それにより湖の水には多大な〈流〉の力が宿り、このあたりのものたちを〈人〉に目覚めさせもするのだ」
鎧が口を挟んだ。
「湖の中ってぇと、湖底には街があるって話じゃねぇか、浪漫だぜ」
「さぁな。だが実際、どこぞの都の〈流の炉〉とやらは、この湖から引きあげられた」
灯は急にむずかしい顔になり、うららぁ、と歌声をあげ、両手に挟んでいた水球を火球に変じさせた。
「王都では魔法の訓練ひとつ積んでいない者たちが、あらかじめ定められた水の詠、焔の詠などを歌い奏でることで、水や火を現せるように魔法の力が働いている。地下を巡る〈流〉の力だ。多大な力が必要なことは想像にかたくないだろう?」
灯は顔を照らす炎のように激しく語る。准には王都のことなど初耳で、なんと答えていいかわからない。さらに語気を強め、灯は続けた。
「王都の地下の〈流〉は弱って死にかけているのに、力を反響させ、運河の水に流しこんでいるのだ、〈流の炉〉という装置によって──〈流〉の濫用だ」
誰もが驚きながら、静かに灯を見つめた。
やがて火球をふっと吹き消した灯に、准は問いかけた。
「灯さんが言ってた、終焉させたい悪行魔法って」
返されたのは沈黙だった。しばらくして、灯はぽつりつぶやいた。
「その王都でも、なにがあったやら……」
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