第26話 湖畔の喫茶店 1
准と静湖は雨の丘をくだり、湖畔の鎧の店に至った。はじめて訪れる者は仰天して硝子瓶のような店を眺めるものだが、静湖は准に手を引かれるままうつむいていた。
店内では扇が菓子づくりを続け、鎧が頬づえをついていた。が、入り口の扉の銀鈴が鳴り、准が見知らぬ子を連れてきたとわかると、鎧はがたんと椅子を引いて立ち、二人に駆けよった。
「准、このお嬢さんは」
「しずだよ」
扉のそばの土産物や人形が並べられた棚の脇で、静湖は青い髪先やあごから雫をしたたらせ、動かない。鎧が、静湖の儚げな様子に圧倒されたかのようにおろおろと声をかける。
「お嬢さん、いや、しずちゃん。どこから来た? ひどいなりじゃねぇか、ずっと雨の中を?」
静湖はうつむいたまま目を瞬くばかりだ。
「言葉がわからねぇのか?」
「そういうわけじゃないみたいだけど」
准は思いめぐらす。なにも憶えていない、と言っていたのは、どうしてあの木のもとにいたのかがわからないのか? それとも、今までのすべての記憶がない? どちらにせよ、静湖が戸惑うのは当然だ、と准は気遣った。
「しず、とりあえず着替えよう。服を貸してあげる」
「そうだそうだ、温まってこい」
鎧は二人に店の奥へ続く戸を示す。
その先は硝子の建物ではなく、斜めにそそりたつ船の船倉部へ続いていた。
「行こう、しず」
静湖は小さくうなずく。准は再びその手を引いて店の奥へ向かった。
扇という少女は目の前のやりとりに関心を寄せることもなく、菓子の生地を並べている。鎧は、准と静湖を見送りながら声をかけた。
「なぁ扇。あの時もこんな感じだったよなぁ」
扇はかすかに顔をあげる。鎧はひとり語り続けた。
「いきなりあの魔術師がさ。雨の中、ひどい有様で」
「……記憶しています」
鎧ははぁと息をつき、硝子の向こうの丘をあおいだ。
「あの丘では不思議なことがあるもんだ。この雨、普通の客が来るわきゃないと思ってたよ」
静かに続く雨のもと、運命が動く音を、誰もが聴いていた。
*
静湖は夢の中を歩くかの心地で、ぼんやりと准に手を引かれていた。案内された道も店も、まったくなじみない異国のようだ。だが異国とは? 自分はどこから来てどこへ帰るべきなのだ? それを考えると頭がずきずきと痛んだ。
准は狭い階段をくだっていき、斜めに立てつけられた擦り硝子の戸を開いた。わっと温かな蒸気があふれる。静湖ははじめて五感が働いたかのように、冷えきった体に湯気をこころよく感じた。
「あったかい……!」
「鎧さんがお湯をわかしてくれていたみたい」
扉の向こうもまた、斜めになった部屋だった。そこは蒸気が満ちた浴室で、浴槽の周りには歯車や配線が並び、機関室に湯を張ったかのようだ。なにもかもが見たことない造りで、静湖は目を見開く。
「しず、お風呂、入れる?」
湯の温度を確かめていた准に問われ、静湖はうなずく。見知らぬ浴室には緊張したが、今すぐに湯につかることを全身が欲していた。
「じゃあ僕は外で着替えているから」
「一緒に入らないの……?」
とっさに准のぬれた服をつかんだのは、彼も冷えて寒そうだ、と思ったからだ。
「え、一緒に?」
准は目を白黒させる。浴槽は二人で入るのに不足ない広さで、湯気は十分に満ち、互いの姿を隠してくれるだろう、と静湖は思った。
「し、しずは、女の子だよね……?」
と言いながら、准はくしゅんとくしゃみをした。静湖は服をさらに引っ張る。
「准、入らないと。僕は女の子じゃないし」
「え、そうだったの」
そのやりとりで、ずきんと胸が痛んだ。なぜだろうと思いながら、静湖は准とともにぬれた服を脱いだ。あらわになる体。ああ、やっぱり僕は女の子じゃない……と考えが回りだす。浴室ではそうやってため息をつくくせがあった、と静湖は思い至る。だがどんな場所だった? 周りには誰がいた? 思いだせない。
いろいろな思いを巡らせながらつかった湯は、冷えた体のすみずみにしみ渡った。静湖は再び、心の中の取りだせないものたちに焦点を当てようとする。頭が痛んだ。同時に、胸の奥もが。
「思いだせない……いろんなこと」
「しず、苦しい?」
静湖はうなずいた。そして、忘却の淵から浮かびあがる名前を口にした。
「みかげ」
その名が誰を指すのかもわからない。だが唱えれば、心に灯がともるように感じる。
「みかげさん、大切な人なんだね」
「うん。みかげという人と、はぐれちゃったのかな」
静湖は無難にそうまとめた。准が深くうなずく。
「そういうことなら心配しないで。しばらくうちにいてよ。情報はいろいろ集まる場所だからさ」
うん、と静湖は口元を笑ませた。
あふれそうな不安は、温かい湯の中に溶かされて流れ出ていったかのようだった。
静湖が浴槽を出て体をふいていると、一足先にあがっていた准が、申し訳なさそうに衣類を差しだした。
「ごめん、しず……鎧さん、扇の服を出してくれてたみたいで。他のものを取ってくる」
准が広げた服に、あっ、と静湖は歓声をあげる。
「それ、着たい」
「え? でも」
静湖はフリルとレースに彩られた淡い青色の給仕服を受け取って、わぁ、と胸に抱き、幸せにひたった。
「しず、それが好きなの?」
「うん」
そうだ、自分はこれが好きだ。心が嬉しく跳ねるのをどこかで不思議に思いながら、静湖は女もののその服に袖を通し、再び准にともなわれ店へ出ていった。
*




