表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/87

第26話 湖畔の喫茶店 1

 (じゅん)静湖(しずみ)は雨の丘をくだり、湖畔の(がい)の店に至った。はじめて訪れる者は仰天して硝子瓶のような店を眺めるものだが、静湖は准に手を引かれるままうつむいていた。


 店内では(せん)が菓子づくりを続け、鎧が頬づえをついていた。が、入り口の扉の銀鈴が鳴り、准が見知らぬ子を連れてきたとわかると、鎧はがたんと椅子を引いて立ち、二人に駆けよった。


「准、このお嬢さんは」

「しずだよ」


 扉のそばの土産物や人形が並べられた棚の脇で、静湖は青い髪先やあごから雫をしたたらせ、動かない。鎧が、静湖の(はかな)げな様子に圧倒されたかのようにおろおろと声をかける。


「お嬢さん、いや、しずちゃん。どこから来た? ひどいなりじゃねぇか、ずっと雨の中を?」


 静湖はうつむいたまま目を瞬くばかりだ。


「言葉がわからねぇのか?」

「そういうわけじゃないみたいだけど」


 准は思いめぐらす。なにも憶えていない、と言っていたのは、どうしてあの木のもとにいたのかがわからないのか? それとも、今までのすべての記憶がない? どちらにせよ、静湖が戸惑うのは当然だ、と准は気遣った。


「しず、とりあえず着替えよう。服を貸してあげる」

「そうだそうだ、温まってこい」


 鎧は二人に店の奥へ続く戸を示す。

 その先は硝子の建物ではなく、斜めにそそりたつ船の船倉部へ続いていた。


「行こう、しず」


 静湖は小さくうなずく。准は再びその手を引いて店の奥へ向かった。


 扇という少女は目の前のやりとりに関心を寄せることもなく、菓子の生地を並べている。鎧は、准と静湖を見送りながら声をかけた。


「なぁ扇。あの時もこんな感じだったよなぁ」


 扇はかすかに顔をあげる。鎧はひとり語り続けた。


「いきなりあの魔術師がさ。雨の中、ひどい有様で」

「……記憶しています」


 鎧ははぁと息をつき、硝子の向こうの丘をあおいだ。


「あの丘では不思議なことがあるもんだ。この雨、普通の客が来るわきゃないと思ってたよ」


 静かに続く雨のもと、運命が動く音を、誰もが聴いていた。



 静湖は夢の中を歩くかの心地で、ぼんやりと准に手を引かれていた。案内された道も店も、まったくなじみない異国のようだ。だが異国とは? 自分はどこから来てどこへ帰るべきなのだ? それを考えると頭がずきずきと痛んだ。


 准は狭い階段をくだっていき、斜めに立てつけられた擦り硝子の戸を開いた。わっと温かな蒸気があふれる。静湖ははじめて五感が働いたかのように、冷えきった体に湯気をこころよく感じた。


「あったかい……!」

「鎧さんがお湯をわかしてくれていたみたい」


 扉の向こうもまた、斜めになった部屋だった。そこは蒸気が満ちた浴室で、浴槽の周りには歯車や配線が並び、機関室に湯を張ったかのようだ。なにもかもが見たことない造りで、静湖は目を見開く。


「しず、お風呂、入れる?」


 湯の温度を確かめていた准に問われ、静湖はうなずく。見知らぬ浴室には緊張したが、今すぐに湯につかることを全身が欲していた。


「じゃあ僕は外で着替えているから」

「一緒に入らないの……?」


 とっさに准のぬれた服をつかんだのは、彼も冷えて寒そうだ、と思ったからだ。


「え、一緒に?」


 准は目を白黒させる。浴槽は二人で入るのに不足ない広さで、湯気は十分に満ち、互いの姿を隠してくれるだろう、と静湖は思った。


「し、しずは、女の子だよね……?」


 と言いながら、准はくしゅんとくしゃみをした。静湖は服をさらに引っ張る。


「准、入らないと。僕は女の子じゃないし」

「え、そうだったの」


 そのやりとりで、ずきんと胸が痛んだ。なぜだろうと思いながら、静湖は准とともにぬれた服を脱いだ。あらわになる体。ああ、やっぱり僕は女の子じゃない……と考えが回りだす。浴室ではそうやってため息をつくくせがあった、と静湖は思い至る。だがどんな場所だった? 周りには誰がいた? 思いだせない。


 いろいろな思いを巡らせながらつかった湯は、冷えた体のすみずみにしみ渡った。静湖は再び、心の中の取りだせないものたちに焦点を当てようとする。頭が痛んだ。同時に、胸の奥もが。


「思いだせない……いろんなこと」

「しず、苦しい?」


 静湖はうなずいた。そして、忘却の淵から浮かびあがる名前を口にした。


「みかげ」


 その名が誰を指すのかもわからない。だが唱えれば、心に(ともしび)がともるように感じる。


「みかげさん、大切な人なんだね」

「うん。みかげという人と、はぐれちゃったのかな」


 静湖は無難にそうまとめた。准が深くうなずく。


「そういうことなら心配しないで。しばらくうちにいてよ。情報はいろいろ集まる場所だからさ」


 うん、と静湖は口元を笑ませた。

 あふれそうな不安は、温かい湯の中に溶かされて流れ出ていったかのようだった。


 静湖が浴槽を出て体をふいていると、一足先にあがっていた准が、申し訳なさそうに衣類を差しだした。


「ごめん、しず……鎧さん、扇の服を出してくれてたみたいで。他のものを取ってくる」


 准が広げた服に、あっ、と静湖は歓声をあげる。


「それ、着たい」

「え? でも」


 静湖はフリルとレースに彩られた淡い青色の給仕服を受け取って、わぁ、と胸に抱き、幸せにひたった。


「しず、それが好きなの?」

「うん」


 そうだ、自分はこれが好きだ。心が嬉しく跳ねるのをどこかで不思議に思いながら、静湖は女もののその服に(そで)を通し、再び准にともなわれ店へ出ていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ