第17話 宙の庭 1
鏡の向こうは、離宮の館の寝室ではなかった。
気づけば静湖はひとりきりで、まったくの異界の空のもとにいた。虹色の草原が一面に続き、昼間なのか夕時なのか、広い空には幾重にも白い虹がかかっている。
どこかで柔らかな音楽が鳴っていた。風や大気が子守唄を歌っているかのようだ。
その中にぽつんと三角屋根の家があった。
静湖は夢の中にいる心地で、一歩一歩その家へ歩いていく。
近づくにつれ、家の細部が見えてくる。丸太を組んだ山小屋のような家だ。前庭には木馬と揺り椅子があり、軒先にはブランコがすえられていた。
扉の横の窓から、静湖は中の様子をうかがう。灯りはともっていない。小ぶりの家具がひしめきあい、小物がこまごまと置かれている。古道具屋のような雰囲気だ。
静湖は呼び鈴を鳴らし、扉を何度か叩いた。
しばらく返事がないので、押し開けて中をのぞく。
「ごめんください」
喉からは綺麗な声が出て驚いた。ここは夢の中、鏡の中なのだ。
静かな家の中にはほこりが舞い、家具とがらくたがひしめいていた。
奥に進むと、丸机に突っ伏して眠っている魔術師姿の女性がいた。静湖はあわてて立ちすくむ。女性は朝焼けのような橙色の髪を背に結い、すうすうと寝息を立てていた。
「あの……」
「起きないよ」
はっと振り向けば、古道具の奥の壁際のたくさんの時計の下に、白髪の少女、あるいは少年がしゃがみこんでいた。
「さっき寝たばかりだから、天変地異でも起きない限り眠ってるよ、うちの師匠は」
「師匠?」
「師匠の結良。元、宮廷魔術師」
静湖は結良という橙の髪の魔術師と、白髪の少女ないし少年を見比べた。目の前のその子は、静湖に特に似てはいない。だがその声音には隠せないものがある。
「白流……?」
「ああ、よくわかったね、青流」
「あの、僕、なにがなんだか」
「怖い人に見つかっちゃったから逃げたんだ。鏡の向こうに出ていたことが知られたら、師匠に殺される。僕はまだ力がないし、周りは敵ばかりだ」
「君は何者なの……?」
白流は立ちあがり、静湖のもとへ寄った。
伸ばした人差し指で静湖の唇をふさぎ、しぃーっ、と秘密を告げるように言った。
「願いを叶える魔法使いだよ。ねぇ、なんでも願いを叶えてあげる──大切な青流のためだもの」
白流の指はそのまま静湖の頬を、あごを伝い、首や肩を這っていった。指先は冷やりとして、目は妖しくゆがむ。姿はもう似てはいない。それでも、もうひとりの自分に触れられているような気がして、静湖は魔法にかけられたように抵抗ができない。
「なにを言ってるの、離して」
「願いの木、燃やしちゃったでしょう? あそこにこめられていた願いはどこへ行ったと思う? 行き場を失って、このはざまの世界にあるんだよ。二人でそれを取り戻して、もう一度、願いの木の音楽会を成功させようか?」
静湖は面食らいながらも、なんとか半歩身を引いて白流の手を避ける。
「はざまの世界?」
「そう、はざまの世界。この世界から帰るとき、花を一輪持ち帰ってほしい。たいしたことじゃない。それだけで僕は君のためになんでもしてあげられる」
白流は無邪気に笑った。が、その瞳には魔性の光が宿っている。
うなずいてはいけない、と静湖は強く言葉を返した。
「してほしいことなんてないよ」
「本当かな? 声もずっとそのままにしてあげる」
「え──」
白流はしなだれかかるような仕草で、静湖の首元に二本の腕を伸ばした。
首をしめられる──静湖はびくりと身構える。
「そこまでだ」
鋭い女性の声が二人のやりとりをさえぎった。丸机で眠っていたはずの魔術師結良が、白流のうしろに立ち、手をひねりあげていた。
「痛てててて」
「すまないなお客人。こいつはとんでもない〈流〉なんだ。この世界に封じなんとか手なづけたはいいが、脱走の機会をうかがってる」
「〈流〉?」
痛い痛いと奥へ引っ張られていく白流。その手を引く結良のことを、静湖はまじまじと観察した。かつての宮廷魔術師だという。老齢には見えないが、重たい眼鏡の奥の目は眠そうで、所作はゆったりとし、魔法で永年を生きているのかと思わせる。
結良は奥の家具に白流をおとなしく座らせると、自分は丸机の椅子に戻ってきて腰かけ、ぱんぱんと手を鳴らし、口笛で短い曲を吹いた。
「あのね、小さなお客さん。この世界では王都で流行りの魔法は使えない。それでもこうして自分で定めた音楽が、自在に魔法となる。そういう世界さ」
結良が説明するうち、あたりのがらくたの間からカップやポット、茶缶やスプーンや砂糖壺が現れ、ふよふよと浮遊しながら、宙空より流れでた湯でひとりでに茶を淹れた。
人数分の茶が、瞬く間に丸机の上に用意される。
「さぁどうぞ」
目を丸くして見ていた静湖は、おずおずと結良の向かいの椅子に腰かけた。結良は奥の白流にもカップを手渡しながら話した。
「私は〈流〉の研究をする魔術師。そしてここは〈宙〉、交響たる〈流〉が姿形をとる世界だ」
「〈宙〉?」
「初めて聞くかね」
「はい」
「正確には、ここは〈宙〉と現実のはざまだ。〈流〉の実体がわかるので、研究にはもってこいの世界だよ」
静湖は茶をすすり、おずおずと問いかけた。
「白流は〈流〉なんですか」
「そうだ。人の姿をとっているから、惑わされたかね」
「〈流〉が人の姿をとるなんて……」
結良はうしろに座る白流の様子を気にもせずに答えた。
「〈流〉は魔法のもととなる音楽の力だ。この世界ではさまざまな形をとる。その一環として人の姿もとっている、と私は見ている。だからこいつは人ではない」
「そんな言い方……」
静湖は思わず口を挟むが、結良は淡々と続けた。
「〈流〉は力であり、意思はない。意思とみえるものは響きや曲調だ。こいつがしゃべるのは、曲が歌われているのと同じだよ。君が誘惑されたのも、音楽に惑わされただけだと思いなさい」
──〈流〉とは、音楽に宿る命のこと、ですよ。
御影の言葉が蘇る。御影はそれを、とっておきの秘密として教えてくれた。
結良はそのような見解は持っていないようだ……、静湖は白流の顔色をうかがった。無表情に茶をすすっている。異論を挟む気はないようだ。
「わ、わかりません。白流はそこにいる。生きてる」
「思い入れたのかね」
「感じるもの、生きてるって」
ふぅ、と静かに茶を置き、結良はあごの下で手を組んだ。
「生きてる、ね。たしかに私も〈流〉には人やものを生かす力があると思っている。だが白流に限って言えば、ここにいるのは、たまたま人の姿になっている音楽の一部、幻だよ──ところで」
結良は立ちあがり、壁際の時計たちの脇にあった鏡台の板をくるりと回した。ほこりで曇った鏡面が表に出る。そこには何者かの姿が、この部屋の景色に重なってゆらいでいた。
「この世界をのぞこうとしているやからがいる。どいつもこいつも、まったく困った弟子たちだ」
静湖は立ちあがり、鏡の向こうの人物を見て驚いた。
「奥の宮様!」
奥の宮が、館の静湖の部屋で、なにかを歌ったり確かめたりしている様子が映っている。静湖を捜しているようだった。
「奥の宮様が、結良さんの弟子?」
結良はそれには答えず、眼鏡の奥からじっと静湖を見た。
魔術を極めた者の深い瞳に見すえられ、静湖はすくんでしまう。
「二階を見にくるか? 研究室だよ」
静湖がうなずくと、結良は鏡台の脇のひもを引いた。がらがらばたばたと絡繰の動く音がして脇の壁が回り、階段が現れた。
結良は白流を従えて、階段を登っていった。
鏡の向こうにいる奥の宮のことは気になるが、今は付き従うしかない、と静湖は彼らを追った。
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