第16話 白き幻
離宮に移って数日が経った。
ひとりの時間が長い。日和や他の侍従と会っても、口もつぐんでいる。
静湖は気づけば部屋の寝台から、鏡の中に語りかけるようになっていた。
「ねぇ、ここにいつまでいるのかな。僕の声や体はどうなってしまうと思う? そりゃ、僕は男だもの。男の王子として生きていくしかない」
鏡の中の自分に話すときには、流暢に高い声が出ることもあり安心した。
「僕は、それでいいの?」
自分への問いも、口にする。
「……御影もその未来で、ただそばにいてくれる。それが僕の望むすべて」
「ふーん、本当かな?」
「そんなもんさ」
鏡の中の自分は、まるで女の子みたいだ。ひとりよがりな欲望を見ているにすぎないとわかりながら、静湖はその印象を捨てられず、鏡の前でくりかえし髪をほどいた。
対話をくりかえしていたある日の午後、鏡の奥から、ふっと音楽がこちらの世界へ向かってきた。
森の中をそよぐ風の音楽……だがたしかに鏡の向こうの世界から聴こえてくる。
「なに、なに!」
「君に僕を聴かせてあげる」
答えた言葉は、静湖のものではない。
鏡の向こうの自分が勝手に動きだし、鏡の奥の部屋を歩いて、寝台の陰からあるはずのないヴィオロンを取りだした。静湖はあっけにとられて成り行きを見守る。
響く風の歌に合わせ、鏡の世界の自分はヴィオロンを構えて弓で弦を弾き鳴らす。
優美な調べが、静湖をなでた。
なにより音楽を奏でるその姿は、少女そのもので──。
演奏が終わると、静湖は拍手で相手をたたえていた。
「ヴィオロンの音がこんなに優しいなんて、知らなかった!」
「君のためだから」
「僕のため?」
「うん、僕ら友達になろう?」
鏡の向こうの静湖は、鏡のこちらへ手を突きだしてきた。
「僕の名は白流。そして君の名は青流。白流と呼んで、青流?」
「白流……」
「それでよし。ね?」
──どうしてその手を握り返してしまったのか。白流はそのままするりと鏡の境界を越えてこの世界に現れ、髪の色がさっと白く染まっていった。
それは願いの木の音楽会のさなか、静湖の前に姿を現した幻の存在だった。
「白流、君は音楽会のときにも……」
「うん、ずっと会いたかったんだよ、青流」
気づけばぎゅうと抱きしめられていた。実体のない幻でありながら、そこには温もりがある気がした。が、静湖を抱きしめたまま、白流は、またね、と消えていった。
*
鏡に向かうたび、白流は静湖の前に現れた。静湖ととりとめない会話をし、時には現実の部屋にはないヴィオロンやピアノを弾いてみせた。しかしその後は、鏡の境界を越えて現れることはなかった──その日までは。
よく晴れて爽やかな風のそよぐその日、静湖は庭先で思いもよらぬ人物に出会った。
国王天海の正妃、奥の宮である。
彼女は庭の草原に布を広げ、軽食と茶を並べて、侍従もともなわずに裁縫をしていた。
「どうぞ」
静湖に気づくと奥の宮は手を止めて、向かいに座るように優雅にすすめた。
断ることもできず、静湖は従う。
近くで差し向かって見る金の長髪は、波打つと銀にも輝く。だが髪だけでなく、彼女はすべてが美しいのだった。さやかなまなざし、すっとした鼻梁、温かな声に、全身にまとった柔らかな空気──どこか誰かなつかしい人を思わせる面持ちと仕草。
その奥の宮が、静湖に笑いかけた。
「はじめまして。こうしてお話しするのははじめてですね」
静湖は沈黙で答えた。
「あら、しゃべれないの?」
奥の宮はおかしそうに笑い声をあげた。
どうして笑うんですか、と口に出すことはできない。が、彼女は静湖の顔色を読んだ。
「ごめんなさい。あまりにかわいらしいから。あなたのことを深く愛し、信じていますよ」
「……え? どうして?」
「あら、しゃべれるんじゃない」
またおかしそうに彼女は笑う。声がかすれたのは気にならなかった。愛していると言われても、よく知らない失礼な相手だ。不服を表して頬をふくらませると、さらに笑われる。
それから二人は会話もなしに、昼さがりの穏やかな時間を過ごした。奥の宮は縫い物をしながら、静湖が木漏れ陽を眺めたり茶をすすったりする様子を、ただにこにこと見て微笑むのだった。
やがて奥の宮はひとつの刺繍を終え、布地を広げながら口を開いた。
「私がどうして笑ったか、あなたにはわからない……私、高飛車で歪な女なんです。あなたにこの姿をさらしているのが滑稽で、笑ってしまったの」
静湖が首をかしげて応じると、奥の宮は、仲良くしてね、と微笑んだ。
彼女の言葉は謎だったが、本心を語ってくれたのはわかり、静湖は親しみを感じた。
奥の宮は改めて裁縫をはじめた。静湖はもう緊張も反発も覚えなかった。気づけば流れる時間は心地よく、静湖はうつらうつらまどろみかける。
が、何杯目かの香草茶を、静湖が奥の宮に注ごうとしたところ。
「あなた」
「え?」
「あなた、憑かれてる」
奥の宮がにわかに立ちあがり、静湖の肩のうしろへ手を伸ばした。
「気づかれた!」
静湖の声──いや、白流の声がして、静湖は何者かに腕をつかまれ立ちあがらされていた。腕を取る白流の姿が見えた。そのまま白流は走りだし、静湖の体は引っぱられていく。唖然とする奥の宮を残し、白流は静湖を駆りたてて館の二階の部屋へ、鏡の前へ連れていった。
「逃げるから、ついてきて!」
「え、ええっ!」
そうして白流は、波打つ鏡の向こうへ静湖を連れ去った。
*




