第15話 森の離宮
屋上庭園は早くも夏の草花が主役となって、鮮やかに生い茂っていた。
王子静湖の授業の支度をして、北の塔の教室へ向かおうとしていた宮廷魔術師の御影は、静湖の世話係の日和に呼びとめられた。
「静湖様のご様子ですが……あれからずっとお布団をかぶっていたんです。どうもお声が出ないことで、過敏になっておられるようで」
今朝方、自室に引きこもった年頃の王子は、御影の訪問にも応じなかった。
「授業にはお出になるんですか」
「お教室には向かわれたようです」
「わかりました」
御影は日和に礼を言って別れ、ゆっくりと庭園を歩いた。
──静湖様は私に、変声期を迎え動揺する姿を見せたくないのだろう、と御影は思いを巡らせる。静湖が自分に対し、複雑なあこがれを抱いていることは察していた。
そのあこがれは、御影のような大人になりたいというものだろうか。
だとすれば体の成長も、いずれは受け入れられるに違いない。
……いや、そうではないのだ。
御影は見ないふりをしてきた事柄に思考を踏みこませた。
──静湖様は、私を好いている。私の愛を真剣に求めている。
静湖がごく幼い頃から、御影は教育係としてそばにいた。十六も歳下の子どもから向けられる幼い愛だと、身分や節度をわきまえた親愛で応じるのは容易だ……いや。そのような態度をとることは、自分自身の心に刃を突きたてるかのように苦しい。
それでも御影が線を引かなければ、静湖はこの多感な時期に、己を見失うだろう。
御影には、静湖に一生涯、明かさずにいられたらと願う隠しごとがある。
──静湖様に応じたいなど、考えるのもやましい身だ。
だから御影は、再び見ないふりをする。
それでも……。
誰が見てもかわいらしい子どもの姿でなくなっても、私からあなたへの愛は変わらない、むしろ大人になっていくあなたに私は惹かれていると、せめて伝えられたら。
「……なにを考えている、私は」
自分は王子の教育係だ。彼の心をなでまわす誘惑者になってしまうなど恥ずべきこと、最も彼のためにならないことだ。覚悟を新たにして、御影は北の塔へ向かった。
*
教室に入ると、静湖は席の上で膝をかかえ、両手で耳をふさいで震えていた。
「静湖様」
静湖が目をあげる。ひどく怯え傷ついた様子だった。口は固く引き結び、声を出す気はないようだ。代わりに紙と筆記具を取りだすと、短い言葉を書きつけて御影に差しだした。
〝耳鳴りがひどいの〟
「耳鳴り?」
静湖はなにかを訴えるようにうなずき、またしたためた。
〝海のような音楽がずっと鳴ってる〟
御影は、静湖がなにを言っているかに思いあたり絶句した。
──この方は〈流の炉〉の〈櫂覇〉の響きを聴いておられる……!
「すぐに止めることは、できないんです」
静かに告げると、静湖は目を瞬いた。いたましい仕草で、御影の胸に情があふれる。このまま抱きしめてすべての不安をぬぐってあげたい──。
「静湖様」
筆記具を握った静湖の手を取ろうとして、御影は思い直した。
静湖が寂しげな目で見あげてくる。
「しばらく、離宮に移られてはいかがですか」
静養のために、という一言をつけたすことはできなかった。それはつまり〈流の炉〉の試みのため、静湖を追いやるということに他ならないのだから。
〝わかりました〟
静湖は他人行儀にそう紙に書いて御影に渡し、ふいと目をそらして、教室を出ていってしまった。
静湖が不安に思っていたであろう、かすれてしまった声。
そのことにまっさきに触れるべきだった、と御影は後悔した。
*
離宮は王都の郊外、城壁を外れた森の中に設けられた館だ。移るとなれば、毎日のように御影に会うことはなくなってしまう。それでも静湖はその申し出を承諾した。
消耗し壊れていく自分を御影にさらしたくない、その一心だった。
王宮を離れる馬車には、静湖と日和、護衛の従者。幌を閉ざし外の景色も見ずに、静湖は耳をふさいで旅先への到着を待った。
が、光を閉めだしていたにもかかわらず、やがてあたりが明るく開けたのがわかった。
耳鳴りがふっと止み、世界がゆるんだように感じられた。
静湖はこわごわと幌の幕を開けた。外は広々とした森の道だった。
鳥のさえずりと葉ずれの音の中を、馬車がことことと進んでいる。
「わ、あ……」
思わず声がもれる。やはりかすれて聞けたものではない。
恥ずかしさからまた幌を閉ざそうとする静湖の手を、日和がつかんだ。
「明るい森です。泣いてもわめいても誰も気にしません。御影様もいないけれど」
「あ……うん……」
静湖はうなずいて、日和の手をそっと握り返した。
そのうちに、馬車は森の館へ到着した。
離宮の館は木造で、古めかしい造りをしていた。
三階建ての焦茶の建物はいくつかの棟にわかれ、それぞれに帽子のような屋根が載っていた。
中に入ると、床や階段の木板は黒々と古びており、あてがわれた二階の部屋へ登るまでもぎしぎしと音を立てた。
「では、ゆっくりと荷ほどきをしてくださいね」
日和が去っていくと、静湖は部屋を奥まで見回した。
部屋の中央には、天蓋つきの寝台。その足元の窓際に、重々しく緞帳のおろされた鏡があった。静湖は布をめくって鏡をあらわにした。古びた部屋にほこりが散る様が、鏡面にきらきらと映る。静かだった。静湖は寝台に寝転び、この場所が気に入ったと感じた。
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