第1話 魔術師の帰還 1
今は昔、魔法は交響によって成っていた。
響き合う音楽が、すべての魔法の源だった。
歌うことが、奏でることが、魔法を形づくる。
その法の真髄は音楽の流れ、〈流〉と呼ばれていた。
天空の山の端に、白昼の月がかかる。晴れた空のもと、月の横顔に並ぶようにして、硝子の塔がきらめいていた。はるかな山々の上に建つ城塞都市の塔だ。
山並みをのぞむ高原の道に、黒馬に乗った旅人がたたずんでいた。春風に吹かれながら、向かう先の都市をじっと見すえる。
この国の王都だ。
城下で暮らす者が都の外に出ることは、ほぼない。
馬上の若者も、本来なら旅をする身分ではない。流れるようになびく黒髪も、紫と緑の衣も汚れひとつなく、性別を凌駕した端正な顔にはこの世ならざるものを見通すまなざしが宿り、魔術を修める者なのだろうと一目でわかる。
胸元の銀の刺繍は、宮廷魔術師の証だった。
「もうすぐだ、〈麗星〉〈櫂覇〉」
従えた二つの〈流〉は、魔術師が乗る馬の左右にひかえ、交響を奏でている。
頼もしい旅の仲間は、馬の斜めうしろをついてまわり、そのときどきで歌っている。主人の魔術師にしか聴かせない交響曲を。ひとりは麗しい夜空の流星劇のように、ひとりは大海原を悠々と櫂で制す神話の船のように。
「行くぞ」
振り向いて呼びかけると、交響がわっと活気づいた。
〈流〉は音楽の精霊といわれる。目には見えず、すべての人に聴こえるわけでもない。街の産業の礎ともなる魔法の力で、思念は持たないといわれていた。
名をつけて親しく語りかけるなど、児戯にも思えた。
それでも二人の従者は旅をともにするうち、すっかり魔術師の仲間になっていた。崖から落ちかけた馬を引きあげ、他の街の門を門番なしに開けてみせ、その日の体に栄養をくみあげる。
魔術師はそうやって旅をしてきた。
二人の力があれば、天上の城までもひとっ跳びだ、はやる心は流れくる曲のはざまに想いを揺らす。
会いたい人がいた。二人の旅の仲間をまっさきに紹介して歌を聴かせたい人が。それが叶うかは会ってみないとわからない、〈流〉の声を聴ける者は限られるから。あの方の力はどこまでそれを受けとるだろう。
はっ、と馬の脇腹に足を振りおろし、魔術師は二つの交響を従え、街へと至る道を駆けた。
*
──御影が、帰ってくる。
その噂は王宮中を駆けめぐり、人々の心に春風を吹きこんだ。だが国王の子、静湖の胸中に吹きあれたのは、風どころではない。
──御影が、帰ってくるんだ……!
片時も気は休まらず、その言葉ばかりくりかえす。二年ぶりの再会。昨冬に十三になった静湖はもはや幼い子ではないが、大人のように二年を短いと言えるはずはない。御影の旅立ちを見送ってから、人生がひとつ巡ったかと思うほどだ。
長かった、待ちわびていた。
その御影が、やっと──。
それでも静湖は、自室の鏡の前で暗く沈んだ顔をしていた。
膝下まであるドレスの裾をひらりと揺らしもせず。靴下もはかず、舶来品の貝殻を結いあわせた髪飾りも置いたまま。
母譲りという青い髪を整える時間は、静湖の心の支えだった。だがいつものように髪を編みこむ気にはなれなかった。
大人と並べばまだ低い背丈。ほっそりとした手足は白く、着飾れば誰もが嫌味なく称賛のまなざしを向ける。といっても、もう長いことこの装束で出歩くことはなかった。
「こんなものっ」
静湖はドレスを脱ぎすて、大きな寝台に勢いよく体を飛びこませた。
部屋の半分に広がる硝子窓は、空が淡く染まりだした様を映している。
時は、夜明け前。
「御影は、あの向こうから帰ってくる……」
虚ろな目で寝台から身を乗りだして、硝子の向こうを見渡す。都を囲む城壁の向こうは、山々と高原が広がっている。街にも遠景にも動くものはなく、青い水底に眠るようだ。
静湖は再び起きだすと、そろそろと衣装箪笥の前に歩いていった。戸を開けて、半分を占める女ものの服をまとめて引っつかんだ。
ばさり、と乱暴に床に投げだす。
荒い息を落ちつかせながら、静湖はそれらを無言で見おろした。
夜明け前の冷えた部屋で、絨毯の上に散乱した服たちは、消えそうな色あいをしていた。レース編みも飾りボタンも、すぐに破いてしまえそうだ。
それから静湖は男ものの服を着て、隣室から持ちこんだ荷車に散らかったものを載せた。
軽く旋律を口ずさめば、ふっと荷台が軽くなる。静湖はそれを押して、密かに階下へ運びだした。堀のそばに持ちこんで、燃やしてしまうつもりだった。
*
初恋は幼い頃だった、と認められるほど、静湖は愛を感じやすい質ではない。それでもこの想いはどう考えても慕うだけのものを超えていたし、その恋はとても幼くしてはじまったことになる。
恋は静湖をからめとり、もはや袖を通す服すら選ばせてはくれない。
そんなことではいけない、わかっている。
御影への想いは、断ち切らなくては。
*




