8.シフォンケーキとおにぎりと料理長
(さーて片付けないと)
レインさんを見送ったところで、私は急いで片付けに取り掛かる。
夕食の準備が始まるまで猶予は1時間。といっても現実世界で捌いてきた器具に比べれば、大きさも量もたいしたことないから余裕で終わりはするだろうけれど。
泥汚れのへばりつく床に洗剤を撒いて、汚れが浮き出る間に器具を洗う。水につけ置きしていたおかげで、割と簡単に汚れは取れた。
あらかた器具を洗って、さて、床を磨こうかな、としたときだった。
「あー……、悪ぃな、ユーリぃ」
やけに間延びした声が厨房に響く。
振り向けば、だるそうな顔をしたうちの料理長一ーティジャンさんがいるではないか。
「ティジャンさん! ……あれ、夕食の準備まではまだ時間があるはずじゃ……」
「そうそう、その通り。その通りなんだけどさ……」
だるそうにしながら、ティジャンさんがデッキブラシを手にした。
「なんだ、この汚ねぇところを磨いてけば良いのか」
「そうですけど……、いやいやいや、待ってください! それティジャンさんの仕事じゃないですよ!」
「そうだな。だがお前の仕事でもない」
「うっ」
「本当ならマリアの仕事だ。違うか?」
「仰る通りです……」
「だろ?」
はぁぁぁ……、と盛大なため息を吐いてから、ティジャンさんはごしごしと床を磨き出した。あぁやっぱり男の力ってすごい。私がデッキブラシを5回ぐらい往復させなきゃ落とさない汚れを、2回ぐらいの往復で落としてしまった。
「あああの、ティジャンさん、本当に大丈夫ですから……ティジャンはまだ夕食作るって仕事残ってるじゃありませんか」
ティジャンさんだけにやらせるわけにもいかず、私も慌てて床を磨く。ブラシの動きに合わせて、薄汚い茶色の泡が、もくもくと床にたちあがった。
「お前だって残ってるだろうよ。明日の仕込みとかあんだろ」
「あっ、はい、その通りなんですけど……、でもほら、私とティジャンさんでは仕事の重みが違いすぎますって」
そうとも。現実世界でも責任者をやっていたからわかる。
現場を取りまとめる責任者とは、往々にして責任と重圧が付きものなのだ。
こと王宮における料理というものは、必ず時間通りに提供しなければならないし、不味いなんてのも許されない。それを休みなく1日3回繰り返すんだから、ティジャンさんのプレッシャーは計り知れないものだろう。
「だからその、まぁ、体力は使いますけどね?器具の片付けも、床磨きも、精神的にはなんにも疲れないから私的にはすっごい楽で……だからその、ティジャンさんには休んでもらいたいっていうか……」
「俺思うんだけどさ」
「なんでしょう」
「お前、どっかで料理長やってたことあるだろ」
「ななななないですよ!!!だって私の年齢知ってるでしょう!?18ですよ18!!まだ全然ぺーぺーですって!!!」
「まぁ年齢的にはそうだろうけどよ。お前の言動とその手の傷み方、一朝一夕で得られるもんじゃないぜ」
「気のせいですよ気のせい!」
「じゃあそういうことにしといてやろう」
喋る間にも床を磨き続け、いつもよりずいぶん早く床が綺麗になった。あとは水を流すだけだ。
「しかしなぁ」
じゃぶじゃぶ床を洗い流しながら、ティジャンさんはまたため息をついた。
「マリアはどうにかしないといけないんだよなぁ」
「……どうにか?」
「そ。実はな、マリアのことについて、お前に頼みがあってここに来たんだよ」
「……私に?」
ちょいちょい、とティジャンさんに手招きされる。内緒話だろうか。近付くと、やっぱり内緒話だったらしく、ティジャンさんが腰を追ってこそこそ声で話しかけてきた。
「……お前も知ってるだろうが、マリアのやつ、自分のやりたい仕事しかしねぇだろ?」
「あ〜……まぁ、そうですね、はい」
そうなのだ。
ティジャンさんの言うように、マリアは自分のやりたい仕事しかしない。
重いものは持ちたくないし、手が生臭くなる鶏ガラ掃除も嫌。魚も勿論もっての外。野菜をたくさん切るのは腕と手が痛くなるから嫌。皿洗いや器具洗いは手が荒れるから嫌。いやいやいや、お前ほんとになにしにきてんだ?あっ騎士団の皆さんにお菓子を振る舞いにきたんですね、といった感じだったのだ。
とはいえここはマリアによるマリアのための世界。類稀なるヒロイン力で、なんのお咎めもないものだと思っていたのだが……。
「正直なぁ、困ってんだよね」
「えっそうだったんですか?」
「そりゃそうだろ。たいした戦力にもならん奴が厨房ちょろちょろしてんのは邪魔でしかない」
「……でもマリアは、その、なんていうか、天才じゃないですか。発想の天才というか。この世界にない料理を次々生み出してるというか」
「そこは俺も認めるとこだ。けどな、天才的な発想をしたからどうなる?俺たちの仕事は、それを商売に、実用的なラインに落とし込むことだ。それに、いくらマリアの料理が天才的だろうと、客がそれを望まなきゃなんの意味もない」
それにだ、とティジャンさんは続ける。
「たとえばの話だが……そうだ、プリンが良いな。マリアが作り出したプリンとかいうやつ。たかが騎士団の人間10人ぽっちに振る舞うなら良いが、夜会なんかに出せと……100人前作れと言われたらどうなると思う?」
「無理ですね。加熱してるとはいえ、卵を扱ってる以上、腐るのは早いでしょうし。なによりうちの厨房施設で、他のものと並行しながらプリン100個は無理があります」
「だろう?だから、いくらあいつの発想が天才的であっても、それを実用化するのは難しいんだ。更に言えぁ、俺たちは自分の作りたいものを勝手に作って良い立場じゃない。俺たちは、俺たちの主人の望むものを作るのが仕事だ。マリアのやり方は、うちの厨房には合わない。自分のやりたいことだけして、作りたい料理だけを作るのなら、自分の店を持てば良い話だからな」
「仰る通りです。マリアは多分、自分の店を持つのが良いですね」
「だろ?お前ならわかってくれると思ったんだよ」
褒められて、つい、へへ、と笑いが出てしまう。
「だから頼むよユーリ。マリアがどうしたいのか探ってくれないか」
「……私が?」
「そうだ。マリアの発想に圧倒されて目を瞑ってたが……、厨房を好き勝手使って、ろくに片付けもしないうえに、厨房でやる本来の仕事を放棄するのは違うと俺は思ってる。このままこの厨房で働く意思があるのか、それとも、自分の店を持ちたいと思ってるのか探ってほしいんだ」
「えええええ嫌ですよそんな荷が重い」
「頼む! 俺が聞いたらパワハラとかセクハラとか言われる未来しか見えねぇんだ!」
ティジャンさんががばりと頭を下げた。ひえ、と思わず悲鳴が漏れる。
「わかりましたわかりましたわかりましたからっ!だったらこっちも条件があります」
「なんだ、言ってみろ」
「揚げ物のコツを教えてほしいんです!
「……はぁ?」
ここはマリアによるマリアのための世界。
だから揚げ物とかも勿論あって、フリッターなんかも普通に存在してる。そしてティジャンさんは、揚げ物の名人だったのだ!
「だってティジャンさんの揚げたやつって、2時間ぐらい経っても衣がさっくさくのままじゃないですか!いっつもすごいなぁと思ってみてたんですよ!」
「あー……まぁ、たいしたことやってねぇけど、お前がそれで良いなら……」
「本当ですか! やったあ! 約束ですよ」
「お前マジで変な奴だな」
というわけで、交換条件でマリアの腹の中を探ることになってしまったのだ。