あまあまガエルとわたし
「雨宮さん」
ふいに後ろから名前を呼ばれ、振り向くと、密かに想いを寄せている古川くんが小走りにやってきていた。
「いきなり雨、降り出したよね! 悪いけど傘に入れてくんない?」
「はい」
わたしは自分の差していた傘を、手渡した。
「返すのいつでもいいから」
駆け出したわたしの後ろから彼が何か言った。
ほんとうは彼と相合い傘で帰りたかった。でもそんなことはできない。
わたしは『ツンデレの雨宮』とクラスで呼ばれている。でもほんとうは違う。正しくは『ツンツンの雨宮』。好きな男の子と相合い傘で下校するなんて、ありえない女だ。
雨が強くなりはじめた。わたしは仕方なしに屋根の下に避難した。
潰れたたこやき屋さんの小さな建物だった。屋根も小さいけど、わたし一人ぐらいならなんとか雨宿りできる。
ふと足下を見ると、アマガエルが一匹、白いお腹を上に向けて寝転がって、雨に打たれていた。あまり気持ちよさそうには見えなかった。
「……何やってんの、キミ?」
話しかけたが、当然のようにカエルは何も答えず、白いお腹をゆっくりと上下させている。
「お腹減って動けないのかな?」
てのひらに乗せてみると、仰向けのまま透明なまぶたを開いた。そして、言った。
「助けてくれてありがとう」
カエルが喋った恐怖に思わず地面に投げつけかけたが、思いとどまった。
喋るカエルは嫌だが、潰れるカエルはもっと嫌だ。それに言葉が通じるのなら暇潰しにもなる。おそるおそる、わたしはカエルに聞いてみた。
「もしかして……カエルに姿を変えられた王子さまとか、その類いですか?」
カエルが笑った。
「かっはっは! お嬢ちゃん、わしを覚えとらんのかね?」
「前にもどこかで……お会いしたことが?」
「覚えとらんのも無理はないか。あんたがまだもっとちっちゃい頃だ。いじめっ子に捕まっとったわしを……」
「あっ」
思い出した。
わたしが小学校二年生ぐらいの頃だ。
確かに、男子たちに捕まって地面に投げつけられかけていたアマガエルを助けたことがあった。
「思い出したか? あれからわしは恩返しがしたくてしたくて……。何回転生しても会うことができんかったが、ようやく会えた。あの時はありがとう」
「べつに……助けたくて助けたんじゃない。なんとなく、気まぐれだから」
「おっ?」
カエルがからかうような声を出した。
「あまい、あまい。おまえさん、あま〜いぞ?」
そう言われるまでもなく、気がついた。
なんだか砂糖菓子みたいな、すごく甘い匂いが、雨に混じってどこかから漂ってきていた。
後ろのたこやき屋さんからかと思ったら、どうやら自分の体からそれは漂っている。
「恩返しじゃ」
カエルがウィンクをしながら、言った。
「嘘をつくとおまえさんの体からあま〜い匂いが漂うようにしてやったぞい」
「な……、なんのために?」
「おまえさんが素直じゃないからだ」
カエルはぴょこんと跳ねると、わたしの制服の襟から中へ飛び込んだ。
「このままではおまえさん、いつまで経っても恋愛成就など夢のまた夢。わしが想い人との仲を繋いでやろうぞ」
服の中を覗き込むと、カエルはいなくなっていた。
その代わりになんだか胸のあいだにお座りするカエルみたいな痣ができていた。
「余計なことを……」
びしょ濡れになりながら走って帰った自分の部屋で、カエルに文句を垂れた。
「余計なことかどうかは、結果次第じゃ」
「あたしは恋なんてする気、ないんだからね」
「おほっ? あまい。あま〜いぞ」
部屋の中がお菓子の家みたいになった。もちろん匂いだけ。
「なぜ、素直にならん? わしがおまえさんを探しとった8年の間に、何があった?」
嘘をつくとあまい匂いが部屋に充満してしまう。
さすがにウェップと吐きそうになったので、素直に話すことにした。
「中学の頃、好きな先輩に告白したんだ」
「ほうほう?」
「そしたら先輩、OKしてくれたのはよかったんだけど、そのあとみんなに言いふらしたんだよね」
「ふむふむ?」
「雨宮みたいにかわいい子に告白された。さすが俺、モテる俺。雨宮は俺をさらに引き立ててくれる最高のアクセサリーだ……って」
「男を見る目がないのう」
「傷ついた。……あたし、先輩のこと大好きだったのに、だから色々尽くしたのに、全部裏切られたっていうか……」
「よしよし、いい子じゃ」
「熱くなりすぎてたから……もうこんなに熱くなんかなんないって、その時に決めたの」
「そんなひどい男そうそうおらんぞ。新しい恋を始めるがよい」
「……だめだよ。怖くなっちゃったもん」
「大丈夫。これからはわしがついとる。当たって砕けろ」
だんだんカエルと会話していることが不思議じゃなくなっていた。
勇気を出して、また恋をしてみようか……。古川くんに告白してみようかな。そんな気持ちにさせられていた。
「雨宮さん」
次の日、学校に行くと、下駄箱のところで待ち伏せされていた。
「古川くん……。お、おはよ」
「昨日は傘をありがとう。あれから強く降り出したけど、濡れなかった?」
「だ……、大丈夫だよ。全速力で走って帰ったから」
「……あれ?」
古川くんが鼻をくんくんさせた。
ヤバい。嘘をついたから、あたしの体があまい匂いを放ちはじめた。
でも大した嘘じゃなければ匂いもすぐに消えるようで、たちまち初夏のすっぱさと埃の匂いが戻ってきた。
「なんか今……、めっちゃ甘い匂いしなかった? 一瞬……」
古川くんの疑問をテキトーに打ち消した。
「誰かカバンにお菓子入れてる人でも通ったんじゃない?」
それ以外、何も言われなかったし、何も言わなかった。
わたしは傘を受け取ると、サッサと背中をむけて廊下へ歩きだした。
ただ、あまい匂いの中で見た彼の笑顔が、いつも以上に爽やかに見えてしまって、胸に残った。
わたしは毎日のように告白を受ける。
恋はしないって宣言してあるのに、今日も体育館裏に呼び出され、仕方がないのでそこへ向かった。
「雨宮さん……。前からずっといいなって思ってて……。もしよかったら、俺と付き合ってください!」
バスケ部の先輩だった。結構女子人気の高いひとで、結構有名人だ。
わたしは断ることに慣れていた。
「ごめんなさい」
その一言と頭を下げるだけでいい。前みたいに余計なことは言わなくなった。
バスケ部のひとは、なんだか自信があったみたいで、それを崩されてショックを受けたみたいで、予想以上に悲しそうな顔をすると、無理やり笑顔を作り、聞いてきた。
「誰か好きなやついるの?」
「いません」
「むわっ!?」
バスケ部のひとが叫んだ。叫ぶはずだ。はちみつに砂糖をぶち込んでぐつぐつ煮込んだみたいな強烈な匂いがあたりに漂った。
「な……、なんだこの匂いは……っ! うぐっ、ぐほっ!」
バスケ部のひとが鼻をおさえて悶絶してる隙に逃げだした。
なんだろう。なんで──
たかがあれしきの嘘で、あれだけのあまあまな匂いが漂って、体育館裏を阿鼻叫喚のあまあま地獄に変えてしまうなんて。
胸のカエルを覗き込むと、聞いた。
「キミ、力……強くなってない?」
カエルは答えた。
「かっはっは! 強くなっとるのはおまえさんの気持ちのほうじゃ!」
そんな……。そうなの?
今朝、たかが下駄箱のとこで会ったぐらいで、古川くんへの気持ちが強くなってる? だからあの『いません』が、強すぎる嘘になった?
確かにあのあまい匂いの中で見た彼の笑顔は、特別胸に残ってる。
……じゃ、わたしの想いが強くなったのって、結局はカエルの仕業じゃん? カエルの能力が作った雰囲気のせいじゃん?
そう思ったけど、べつにカエルのことが憎くはならなかった。
晩ごはんが終わって部屋に戻ると、カエルに聞いた。
「キミ最近、弱々しくなってない?」
「べつに……」
カエルはそう答えたが、まるでおじさんがおじいさんになってしまったような、やはり弱々しい声だった。
「もしかしてごはん食べてないから? キミなんにも食べてないじゃん。なんか食べなよ」
部屋着も下着も脱いで、ちいさな膨らみのあいだにお座りしてるカエル型の痣を見ると、明らかにやせ細っている。
「キミのごはんって、なに? 用意できるものなら用意するよ?」
「恋の成就だ」
カエルは言った。
「わしはおまえさんに恩返しするためだけに生きとる。おまえさんの恋が成就することだけが、わしのご馳走なんだ」
「な……、なんてこと」
わたしは早急に、古川くんに告白するしかなくなった。
告白するなら体育館の裏だ。今も昔も定番だ。ひっそりしていて誰も来ないからだろうけど、使われすぎているからかえって誰もが来る場所になってしまっていた。
いつも呼び出されるほうのわたしが、今日は古川くんを呼び出した。
一体何が行われるのだろうと思ったのか、体育館の角から大勢のひとがわたしたちを見物してるのが丸見えだった。
「話って何?」
古川くんのこの爽やかな笑顔にわたしはやられたのだ。
もう恋なんてしないと胸に誓いながら恋してしまった。
彼だったらきっと、わたしを傷つけたりなんかしないと信じながら、やっぱり怖かった。彼に気持ちを伝えるのは、どうしても怖かった。
「あ……、あの……」
前から好きでした、わたしと付き合ってください、準備していたはずの、たったそれだけの言葉が口から出てこない。
でもカエルを救うには、どうしてもこの恋を成就させなければ!
いや……待って?
告白したからといって、成就するとは限ってない。
どうしてわたし、告白すれば恋が成就するって思ってたんだろう? うぬぼれていた?
もし……彼の口が『ごめんね』と動いたら?
怖い。
何もことばが出てこなくなった。
「雨宮さん……?」
古川くんが優しい声をだした。なんだか気遣ってくれるように、頭の斜め上から、わたしの頭を撫でるような視線を送ってくれる。そして言った。
「大丈夫。勇気をだして。大丈夫だから。言って? 言ってごらん?」
わたしは顔をあげると、おおきく口を開けて、早口で言った。
「べっ……、べつにっ! わたしが古川くんのことを好きだとか……そういうことじゃないからっ! よ、呼び出したのは……そんな、恋の告白とか……そんなんじゃないんだからねっ! 勘違いしないで!」
悲鳴が空に轟いた。
体育館の角からこっちを見ていたひとたちが、まるで台風の一撃でも喰らったみたいに、甲高い悲鳴をあげて逃げだしたのだった。
角砂糖が大気中に充満したような、凄まじいまでのあまいあまい風が、体育館裏からはみ出すほどに、わたしを中心に吹き荒れていた。
「ぐ……、ぐおぉっ……!?」
目の前で、古川くんも苦しんでいる。鼻を隙間なくてのひらで覆って、膝を折って、かっ開いた目からは涙を流しながら、発生源から近すぎるせいか、みんなみたいに走って逃げる力もないようだ。甘さも度が過ぎれば毒になるのだ。
大好きな古川くんを……わたし、苦しませてる。
カエルのことも見放すつもりだった?
自分がとても嫌いになりそうで、そんな自分なんか古川くんに嫌われてもいいって思ったら、自然にことばが出た。
「嘘! 嘘だよ! わたし、古川くんが大好き! わたしと恋人同士になってください!」
激あまな風が、やんだ。
緩くて爽やかな、淡甘い風に変わった。
「次、どれに乗る?」
自由な小鳥みたいに両腕をはばたかせてスキップしながら聞くわたしを追いかけて、古川くんが微笑む。
「莉緒ちゃんの好きなの、乗りなよ。莉緒ちゃんの好きなものが俺の好きなものだから」
「じゃ、ジェットコースター!」
ほんとうは観覧車に乗りたかった。
彼とふたり、まったりと高原の景色を眺めたかった。
でも、わたしはわざと、そんな軽い嘘をつく。
軽くてふんわりとした、あまい匂いがあたりに漂った。
「莉緒ちゃんと一緒にいると……さ」
古川くんが目をとろんとさせて言う。
「なんか時々、気持ちがこう、快く甘くなるんだよね。なんでかな」
「そんなにわたしのこと愛しちゃってるの?」
意地悪にわたしは笑ってみせる。
「恋の気持ちだよ、それ! ヒューヒュー」
「やれやれ……」
胸のあいだから元気なカエルのおやじ臭い声が聞こえた。
「わしの能力を悪用するでない。雰囲気作りに使われてはかなわんわ。そんなに自力で彼を夢中にさせることに自信がないんか」
「そんなことない。わたし、立派に自分の力だけで彼を夢中にさせられるよ?」
軽く、爽やかなあまい風が吹いた。
「ただ……ちょっとだけ、怖い時があるだけ。協力してよ、あまあまガエル。恩返しでしょ?」
「仕方ないのう……」
そう答えながら、カエルの声はなんだか嬉しそうだった。