第11話 精霊の涙
ラルフが政務を切りの良いところで終わらせ、アシェリーはしばらく仕事を休むため患者への説明や念入りに治療するなどの調整を終えたのは遠征を決めてから二週間ほどが経ってからだった。
馬車で三日ほどかかるシュトバリアス地方は湖畔の美しい石造りの町や要塞があり、精霊の町とゆえんがあるのも納得してしまうような場所だ。
まずはアシェリーとラルフは領主の館に向かう。
「陛下、お久しゅうございます」
「ああ、ヴィレール。元気そうで何よりだ」
出迎えたのは初老の男性で、彼がこの領地の領主である。
アシェリーはラルフと挨拶を交わす彼に微笑みかけた。
「はじめまして、ヴィレール様。私はアシェリーです。本日は訪問を快く受け入れていただき、感謝いたします」
そう言って頭を下げると、ヴィレールは慌ててこちらこそ、と返す。
「王妃陛下。ようこそいらっしゃいました。私は家臣なのですから、どうか堅苦しいのはなしにしてください。自然以外何もないところですが我が館でゆっくりなさってくださいませ」
「ありがとうございます。それで早速で申し訳ないのですが、少しお願いしたいことがあります」
「私にできることでしたらなんなりとお命じ下さい。それと、私のことはどうかヴィレールと呼び捨てにしてくだされば幸いです」
「では、ヴィレールさんと呼ばせてもらいますね。実は、今回ここにきた理由は──」
アシェリーは事情を話し、協力してほしいと頼んだ。
「そういうことでしたか……。この地方には確かに『精霊の涙』と言われる石がありますが……今お持ちしますよ」
サロンに案内され、お茶をいただく。
しばらく待つとヴィレールが手のひらサイズの箱を両手に掲げてやってきた。絹で織られたサテン布の中央に、月の光のように淡く輝く白い石がついたペンダントがある。
「これが……?」
アシェリーのつぶやきにヴィレールはうなずいた。
「私が幼い頃にとある方からいただいた『精霊の涙』です。この町にこれ以外の『精霊の涙』はありません」
かなり貴重なもののようだ。
アシェリーは白い宝石をじっと観察しながら言う。
「精霊の民が守っている石なんですよね? ならば彼らに会えば手に入りますか?」
ヴィレールは胸を痛めているような表情をした。
「『精霊の涙』は……おそらく精霊の森にあると思われますが、どこにあるのかは精霊の民以外は知りません。ですが精霊の民と我々シュトバリアス辺境伯家は『精霊の涙』をめぐり、長い歴史の中で幾度も争いを起こして血を流してきました」
(なるほど……ラルフが言っていた通りね。精霊の民は領主に友好的ではないみたい)
ヴィレールは穏やかな人物のようだが、歴代のシュトバリアス辺境伯は代々欲に目がくらんで精霊の民を滅ぼし、『精霊の涙』を独占しようとした過去がある。それにより精霊の民は被害を受けたが、不思議な力によって守られ、逆にシュトバリアス辺境伯陣営が被害を受けるということがあったという。
今では暗黙の了解で双方不可侵となり、その状態が三十年近く続いている。
「私が子供の頃に、父が精霊の民を刈ると言って森に兵士を連れて攻め入ったことがありました。多くの血が流れました。……きっと彼らは我々を許しはしない。王妃様のお望みならば喜んで協力させていただきたいと思っておりますが……おそらく私達はお力になれないでしょう」
肩を落とすヴィレール。
「いえ、お気になさらないで。森に入る許可だけいただけたら良いんです」
「しかし、危険ですよ! 精霊の民は森に部外者が立ち入ると、躊躇なく攻撃してきます。見えない場所から弓で狙われるでしょう。王妃陛下をそんな危険な目に合わせるわけには……!」
ヴィレールは慌てたような表情をする。
「しかし、どうしても『精霊の涙』が欲しいんです。一つではなく、たくさん。もしかしたら魔力暴走を止められるかもしれない。そのために研究に使いたいのです」
アシェリーは決然と言う。
(とはいえ私は戦いは素人だし、遠くから矢を撃たれたら精霊の民を説得する前に死んでしまうかも……)
それでは本末転倒である。
(2巻でヒロインはどうやって精霊の民を懐柔していたっけ? 確か精霊が──)
アシェリーが原作を思い出そうとして唸っていると、ヴィレールは拳を握りしめて決意したように言う。
「……分かりました。ならば私も行きましょう」
「えっ!? ヴィレールさんが一緒に? でも……」
万が一のことがあれば責任は取れない。それに精霊の民からしたらヴィレールは仇敵だろう。
困ったアシェリーはラルフを見たが、彼はヴィレールの真意を図ろうとしているようだ。
「本気か、ヴィレール」
「ええ。もちろん。……幼い頃に知り合った精霊の民がいるかもしれないので。もしかしたら族長に話を通してもらえるかもしれません。もちろん、あっさり殺されるかもしれませんが」
困ったように笑うヴィレールに、アシェリーは絶句した。
「で、ですが……」
「お気になさらないでください。こんな老いぼれのことを気にする者はいません。辺境伯家は甥に譲るつもりでしたし。どうせ後は死ぬだけです。それなら人生の最後に心残りを晴らしておきたいのです」
「心残り……?」
当惑したアシェリーは問いかけたが、ヴィレールは曖昧な笑みを浮かべただけだった。
それ以上は答えてもらえそうになかったから、アシェリーは話題を変えようとする。
「辺境伯家は甥っ子に譲るとおっしゃいましたが……ヴィレールは妻子はいらっしゃらないのですか?」
ヴィレールは苦笑する。
「……あいにく幼い頃の初恋を忘れられなくて。未練がましいでしょう」
「そんなことは……」
返答に困ってしまい、アシェリーは首を振る。
(初恋を忘れられないなんて、それは私も同じだし……)
そう思いながら隣に座るラルフを見つめる。彼は優しい目でアシェリーを見つめ返してくれた。
ヴィレールは眩しいものを見つめるように両眼を細めた。
「お二人が羨ましいです。初恋は実らないものと言いますが、見事それを覆したわけですからね。両陛下のお話はこの辺境にまで届いていますよ」
そうヴィレールに言われてアシェリーは顔を赤らめた。
(シュトバリアスにまで私達の話が広がっているなんて……)
「長旅でお疲れでしょう。今日はゆっくりお休みになってください。明日、精霊の森へ案内いたします」
ヴィレールにそう言われて、アシェリー達は首肯した。
アシェリーは客間に案内される途中、廊下に飾られたいくつもの絵画が気になった。
それはどれも八歳くらいの少女で、森の中でどこかの民族らしき恰好をしている。健康的な小麦色の肌に長い銀髪の神秘的な雰囲気の少女だ。
その少女の首元には先ほどヴィレールが見せてくれたペンダントが描かれていた。
翌朝、ラルフと朝食を食べ終えた後、ヴィレールに案内されて森の入り口へと馬車で向かう。
森の入口へとたどり着くと、
「ここからは馬車は置いて行きましょう」
ヴィレールの言葉に従い、アシェリー達は徒歩で進むことになった。
森の奥へ進むにつれ空気が冷たくなっていく。
(なんだか寒気がするような……)
アシェリーはぶるりと身を震わせた。
ヴィレールが振り返って言う。
「この辺りからは精霊の領域です。両陛下、どうか私のそばを離れないようにお願い致します」
「ええ」
アシェリーはうなずいた。
精霊の民を刺激しないようにと、護衛は二人しか連れてきていない。先頭と最後尾にいる兵士に挟まれるようにしてアシェリーとラルフはいた。
ヴィレールはアシェリー達を守るように前を歩き出す。
不安と緊張感に包まれていると、ふいにラルフがアシェリーの手を握ってきた。
「ラルフ?」
「心配しなくても大丈夫だ。俺の手を握っていろ」
そう励ますように微笑まれ、アシェリーは肩の力を抜いて頬を緩ませた。
「……ありがとう」
アシェリーの心細さに気付いてくれたのだ。原作を思い出したから勝算がないわけではなかったが、やはり皆を危険にさらしてしまうことに気おくれしていたから。
(大丈夫よ、きっと……)
そう己に言い聞かせ、森の奥を見据える。
しばらく歩くと、森の雰囲気が変わった。
「……?」
アシェリーが眉をひそめた時──
「王妃陛下、伏せてください!」
ヴィレールが叫ぶと同時に、何かがアシェリーの頭上をかすめていった。
反射的に地面に伏すと、後ろでカランという音が聞こえた。
顔を上げると、矢が地面に落ちていた。
(危なかった!)
もう少しで矢が頭に刺さるところだった。
「……っ!」
声にならない悲鳴を上げて、アシェリーは背後を振り返る。すると──
「……!?」
木々の陰からぞろっと現れた精霊の民の姿に、アシェリーは息を呑んだ。
「早くこちらへ!!」
ヴィレールの声に反応してラルフがアシェリーの腕を引っ張った。そのまま彼の腕の中に引き込まれる。
「!?」
次の瞬間、精霊の民が一斉に弓を構えた。
「ちっ」
舌打ちしたラルフが腰から剣を引き抜いた。兵士達二人も慌てて身構える。
「ラルフ!?」
「下がっていろ」
そう言って彼はアシェリーを庇いながら精霊の民に向かっていく。
精霊の民が矢を放つのと同時に、ラルフも動いた。
「はぁあああっ!!!」
裂帛の気合いと共に、ラルフは精霊の民が放った矢を全て切り落とす。
「……」
唖然とするアシェリー。
(彼がこんなに強いなんて……)
魔力を剣に帯びさせて戦っているようだ。それで威力と速度が増しているのだろう。
(そういえば原作でもラルフの剣技は素晴らしい、と書かれていたけれど……。実際に戦う描写がなかったから、これほどとは思っていなかったわ)
ラルフの剣の腕は護衛や精霊の民をも圧倒している。
その間にも、精霊の民達は次々と弓矢を構えてアシェリーを狙う。
「させるか!」
ラルフは叫びながら、アシェリーを狙って放たれた矢を斬り落とした。
「アシェリー! 大丈夫か!?」
アシェリーは呆気に取られていたが、ハッと我に返って、うなずく。
(何とか族長と話をしなきゃいけないのに……)
原作では倒れてしまったヒロインが族長の家で介抱されて、話ができたことが『精霊の涙』を得る大きなきっかけになる。
だが話ができなければ意味がない。
「どうか、私達の話を聞いてください!」
アシェリーはそう叫んだが、リーダー格の女性が「うるさい!」と叫び、ラルフに向かって弓を構えた。
(このままじゃ──)
アシェリーが焦りを覚えたその時、ラルフが踏み出した。足裏に魔力をためて速度を上げているのだろう。まるで風のように動き、木に飛び移って信じられない速度でリーダー格の女に近付く。そして彼女の手にあった弓矢を叩き切った。
「くっ」
悔しげに唇を噛み締める女性を背後から拘束し、その首に剣を這わせた。強襲者達は狼狽した空気になる。
「族長!」
(族長? この女性が……?)
女性ということは知っていたが、原作2巻は小説でしか読んだことがなかったのでイメージと違っておりアシェリーは驚く。
見た目は三十歳後半くらいだろう。小麦色の肌に長い銀髪を後ろで一つにまとめている。
(あれ? あの人、どこかで見たことがあるような……)
昨日ヴィレールの館で見た絵画の中の少女とその面差しが重なる。
アシェリーがそう言いかけた時、女性が素早くスカート下の隠しナイフを取り出し、ラルフの喉に向かって突き刺そうとした。
無謀だ。そんなことをすれば彼女もただでは済まない。
おそらく刺し違える気なのだろう。
ラルフは咄嵯に仰け反ってナイフの軌道をかわし、ラルフの拘束から離れた女性は宙を舞った。
「ぐぅっ」
女性は態勢を整えようとしたが、真下に思ってもいない存在がいたらしい。
ヴィレールが大きく両手を広げて女性を受け止めようとしていた。
「っ!」
女性はヴィレールを突き飛ばそうとするが、それよりも早くヴィレールの両腕が彼女を包み込んだ。
「!?」
「フローラ、怪我は!?」
ヴィレールは女性を立たせる。
「お前は……」
フローラと呼ばれた女性は当惑している様子だ。仲間達も展開に動揺し動けないでいる。
訝しげにしているラルフに、ヴィレールは告げた。
「彼女は私の知り合いです。陛下、どうか非礼をお許しください」
「彼女は?」
ラルフの問いに、ヴィレールは苦笑いを浮かべる。
「彼女は三十年前に私に『精霊の涙』のペンダントをプレゼントしてくれました」
そう言ってヴィレールはシャツの首元からペンダントを取り出す。
それを見たフローラは愕然と目を見開く。
「お前……ヴィレールか?」
呆然としているフローラに向かってヴィレールは言った。
「フローラ、突然やってきてすまない。森に侵入したことも詫びよう。だが、どうか話を聞いてくれないか?」
フローラは顔をしかめている。
「族長……」
心配そうに仲間が彼女に声をかける。
フローラはしばらく押し黙った後にため息を落とした。
「分かった。ただし武器は全てこちらに渡してもらう」
「なにぃっ!」
反応したのは護衛兵士達だった。
顔を歪めている男達にフローラは言う。
「武器を渡して大人しくすると誓うなら、我々はお前達に危害を加えない。信用できないなら帰れ」
怒鳴ろうとした兵士を手で制し、ラルフは少し思案する様子を見せた後に言った。
「良いだろう。武器を渡す」
「陛下!」
兵士は声を荒げたが、ラルフは首を振る。
「ここまで譲歩してくれたんだ。俺達は信頼に応えるべきだ。お前達も彼らに敬意を払え」
ラルフの言葉にフローラは感心したように口笛を吹く。
「貴族の中にもお前のような話のわかる奴もいるんだな」
ヴィレールは気まずそうに視線を逸らす。己の先祖のことが頭に浮かんだのだろう。
ラルフ達が武器を渡すと、フローラは腕を組んで向き直る。
「それで何の話だ?」
そう促されて、ラルフはアシェリーの方を見つめる。
アシェリーはうなずき、前に出てから言った。
「どうかお力をお貸しいただきたいのです」
そしてアシェリーはこれまでの経緯を話した。もしかしたら魔力暴走に使えるかもしれないから『精霊の涙』を分けて欲しいことを。
しかし、予想通り族長フローラの返答は芳しくなかった。
「ふむ……『精霊の涙』は我々が大事に守ってきたものだ。簡単に渡すわけにはいかない」
「そんな……」
渋面になるアシェリーに、フローラは言う。
「だが、私の仲間にも多くはないが、これまで魔力暴走を起こす者達がいた。今までは族長として彼らを隔離するしかなかったが、もし救えるのなら救ってやりたい」
「それじゃあ……!」
喜びの声を上げたアシェリーに、フローラは肩をすくめる。
「だが期待には応えられない。『精霊の涙』はもう三十年も取れていないんだ」
「それはどういうことですか?」
困惑気味にアシェリーが問いかけると、フローラは渋々といった様子で答えてくれた。
「『精霊の涙』は精霊達が己の力を込めて作るもので、精霊達はそれを人間が悪用しないようにと滅多に人に渡さない。精霊達の気分次第だ。精霊の涙が欲しければ精霊に頼み、作ってもらうしかない。だが最近は頼んでも作ってくれなくなったんだ」
「精霊が……」
「ああ。これまで『精霊の涙』の力を借りて、村人の怪我などの治療を行なってきたが、ここ二十年ほどは石がもらえないから大掛かりな治療が行えなくて困っている。どうやら『精霊の涙』は使い続けると摩耗して割れてしまうようだ。十年が限度だろうな」
「そうですか……」
十年というのは思っていたより長くて良いが、たくさん用意できなければもし魔力暴走に効果があっても意味がない。争いの元になってしまう。
アシェリーは悩んだが、フローラに向かって言った。
「一度精霊に会わせてもらえませんか? 会えばもしかしたら作ってもらえない原因が見つかるかもしれません」
フローラはしばらく考え込んでいたが、アシェリーが治療師であることを伝えると、村人の病の治癒を条件に了承してくれた。




