第1話 愛しているから、さよならを
ゆるく波打ちながら腰まで流れる赤い髪、きつめの眦と新緑のような瞳。王妃という立場に恥じない豪奢なドレス。まだ二十歳になったばかりの女性が目の前にいる。
アシェリーは鏡に映る自分の姿を見た時、思い出した。
この世界が前世で読んだ『星降る夜の恋人たち』という恋愛小説の中だということを。
そして自分は夫であり国王であるラルフを苦しめて最後には処刑される毒婦アシェリー・フリーデンだったのだ。
「私はいったい、何を……」
手の中にあるのは、香水を入れておく小瓶だ。中の液体は濁った紫色。先日裏稼業の男から購入した毒薬だった。
これを王宮に滞在しているラルフの親戚であるエルシー・ノリスに飲ませようとしたのだ。彼女がアシェリーの夫であるラルフに色目を使っていたから。
ラルフは今年で二十一歳になるフリーデン王国の王であり、『星降る夜の恋人たち』のヒーロー役だ。ヒロインはアシェリーではなく、後に出てくる聖女だ。
アシェリーはただ二人の仲を引っ掻き回すだけの当て馬で、ラルフに嫌がらせをする性根最悪の悪女だった。
(この場に誰もいなくて良かった……)
引き出しの中に毒薬を入れて、鍵をかけた。後で誰もいない場所に埋めてしまおう。こんなものはあってはいけない。
「……私はとんでもないことを……しようとしていたのね」
そう悔恨の念を込めて、つぶやく。
このタイミングで前世の記憶がよみがえったのは幸いだった。
アシェリーが行った悪事は取り返しがつかないし、ラルフには当然憎まれているけれど、まだ誰も害していない状況は慰めにもなった。
アシェリーが卓上の鈴を鳴らすと、すぐに扉がノックされて開き侍女が姿を見せる。
「王妃様、お呼びでしょうか」
腰を落として指示を待つ侍女に、アシェリーは言った。
「離縁状を用意してちょうだい」
「は……え? り、離縁?」
アシェリーの口から出てきた言葉が信じられなかったのか、侍女は聞き返してきた。
この国では離婚するためには夫妻とは別に司祭に署名してもらう必要がある。国王夫妻の離縁ともなれば総主教が認めたものでなければならないだろう。
(まぁ、私がサインした後でラルフが何とかするでしょう)
ほとんど形式だけのもので、宗教者が断った事例はほとんどない。それにラルフと総主教は旧知の仲だ。アシェリーが離縁状を渡せば、すぐに受理されるはず。
アシェリーは羽ペンでさらりとサインした後、それを軽く乾かしてから愛する夫のいる政務室へ向かう。
「陛下にお会いしたいの」
アシェリーがそう言えば、大きな樫の木扉の両脇にいる衛兵達が『またか……』というような、うんざりした表情になった。彼らからしたら、たびたびラルフの政務を邪魔しにくる悪女にしか思われていない。
(本当に、よくこの状況で傍若無人に振る舞えたものよね……)
表立って反抗はしないものの、城内にアシェリーの味方は一人もいない。
夫であるラルフさえ──いや、彼らの主こそが最もアシェリーを疎んでいるのだから。
アシェリーは唇をきゅっと引き結ぶ。
(でも、これももう最後だから、許してほしい……)
今のアシェリーにできることは、少しでも早く離婚してラルフを解放してあげることだけなのだ。
ノックすると中にいた王弟のクラウス・ファル・フリーデンが出てきた。彼はラルフの補佐をしている。政務中だったのだろう。
クラウスはアシェリーを見て一瞬顔をしかめたが、すぐに愛想笑いをした。ラルフに確認してから、すぐに中に通してくれる。
(これまでどんなに忙しい時でも、ラルフの都合なんて考えずに政務室にやってきては長時間居座っていたもの……クラウスの態度も当然だわ)
けれど、弱みを握られているラルフにはどんなに内心嫌がっていてもアシェリーを拒絶することはできない。だから、ますますアシェリーは高慢になっていった。
王弟が扉を開けてくれると、大きな窓を背にしたラルフが執務机に座った状態で、アシェリーに向かって言った。
「……何の用だ?」
顔さえ上げない彼にアシェリーは胸がツキンと痛くなる。けれど、そんなことをされても当然なほど、ひどいことをラルフにしてきた。
結婚して一ヶ月になるのに、ラルフとは夜を共にしたことすらない。彼を脅して無理やり王妃の座についたのだから当然だ。夫から愛されない毒婦、それがアシェリーだった。
「国王陛下にご挨拶申し上げます。……お忙しいところ、大変申し訳ありません。こちらに署名をお願いしたくて、お持ちしました」
アシェリーが離縁状をそっとラルフの前に差し出すと、彼の動きが止まった。
紙を凝視している。
一秒、二秒、三秒、四秒、五秒……十秒ほど経ち、さすがにアシェリーも長すぎやしないかと心配になっていた頃、ようやくラルフは顔を上げてまっすぐにアシェリーを見つめた。
(彼が私の顔をまともに見たのは、いつぶりかしら……)
アシェリーはいつも彼に熱い眼差しを向けていたが、いつも視線が交わらなかった。こうして凝視されるのは久しぶりのことだ。
さらさらの艶のある黒髪、鋭い青色の瞳がアシェリーを捕らえる。高い鼻梁に、整った相貌。アシェリーより一つ年上の、今年で二十一歳になる帝国の若き獅子だ。
ラルフは離縁状を親指と人差し指でつまんで、アシェリーに尋ねた。
「これは何かの冗談か?」
「いいえ。冗談ではございません。どうぞ、お納めください。……これが私の、陛下への真心です」
「真心……?」
ラルフは疑わしそうな目でその紙を見ている。
「あとは陛下と総主教様が署名してくださるだけで良いんです。そうしたら、私と陛下は完全に他人です」
アシェリーの言葉に、ラルフは睨めつけるように見てくる。
「こんなもので俺の気を引こうとしても無駄だ。たとえ離縁したとしても、いくらでもお前は俺を言いなりにできるんだから。お前がまた再婚したくなればするだけだろう」
投げやりの中に諦観が滲んで聞こえるのは、ラルフはどうしてもアシェリーを拒否できないからだ。
ラルフは歴史上類を見ないほど強い魔力の持ち主だったが、力が強すぎて幼い頃からたびたび魔力暴走を起こしてしまうことがあった。そのせいで十年前に母親である王妃を殺してしまった。そのせいで、父王からも冷遇されて生きてきたのだ。
そんな彼が十年前に魔力制御にかけては天才的な腕前を持つ治療師のアシェリーに惚れられてしまい、彼の魔力をコントロールしてあげることを条件に結婚するようアシェリーに脅されたのだ。子供じみた独占欲を発揮し、嫌がる彼を無理やり婚約者にして言いなりにしようとした。
(……こんなの嫌われてもしょうがないわ)
前世の記憶が入ってきたから、アシェリーは客観的に己の状況を認識できていた。しかし感情は元のアシェリーのままなので、ラルフと別れなければならないことが分かっていても胸が引き裂かれるように辛い。自分の本音が『どうして彼と別れなきゃいけないの!?』と喚いているような気がする。
(──それでも……)
アシェリーは深く息を吸ってから、声が震えないよう意識しながら言う。
「……私は再婚など絶対にいたしません。これまで陛下のご迷惑も考えずに、しつこく付きまとい、あげく脅迫のように結婚を迫ってしまい申し訳ありませんでした。幼い頃の暴言も謝罪いたします」
アシェリーが神妙にそう言って頭を下げると、ラルフはまるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
ラルフはようやくこれが現実だと認識したらしい。戸惑いながらも、いつものような皮肉を忘れない。
「ほお。俺に言ったセリフをちゃんと覚えていたとは意外だな。お前はとっくに忘れていたのかと思っていたよ」
「……もちろん、覚えていますわ。今さら何を言っても信じてもらえないかもしれませんが、本当に……大変申し訳なく思っています」
アシェリーは母親を不運にも手にかけてしまったラルフに「私が魔力制御してあげなくても良いの? そうなったら、あなたは周りの人をみんな殺してしまうかもしれないのに。あなたのお母様にしたみたいにね。それが嫌なら私の婚約者になりなさい」とラルフのトラウマを掘り起こして脅したのだ。
アシェリーは美しい見た目に反して性格が極悪だった。幼馴染のラルフに近付く者はいじめ抜き、彼が拒絶する素振りを見せたら力が暴走しそうになるギリギリまで助けない。そして「助けてくれ」と謝罪と懇願をさせるのだ。
アシェリー以外にも治療師はいたが、ラルフの力が膨大すぎて制御できない。アシェリーは自分以外は彼を助けられないと知っていて、わがまま放題してきたのだ。
嫌がるラルフに無理やり口付けしたり、好意を返してくれない彼にさんざん物をぶつけていたぶり罵った。そう、十年間も。
ラルフはアシェリーの真意を探るようにじっと見つめてくる。
そんな状況ではないのに、愛する彼に熱烈に凝視されて胸がときめいてしまう。
(未練なんて感じちゃ駄目よ……そんな資格もない)
相手の弱みにつけ込み、抵抗できないと知っていて自分の意思を押し通そうとするのは最低な行いだ。
別れを告げるのが本当につらい。身が引き裂かれそうになるけれど、これまでアシェリーがした無情な行いや、これからの処刑される未来を思うと、彼を解放してあげる以外の選択肢などなかった。
「……何を企んでいる? 俺の気を引こうとして、そんなことを言っているのか? だったら無駄だ。どう謝罪されようと、俺がこの先、お前を愛することなど決してない」
冷たく吐き捨てたラルフの言葉が刃となってアシェリーの胸に突き刺さる。記憶を取り戻したから、誰よりその言葉が事実だと知っている。彼は聖女と結ばれるのだ。
「……存じております。もう愛してほしいと望むことはありません」
アシェリーの言葉に、ラルフはぴくりと眉を上げる。
最大限の警戒を込められた青色の瞳を見て、アシェリーは微苦笑した。何を言っても信じてもらえないのだ。
(……もう疲れちゃった)
愛してくれない相手に愛を乞い続けることにも。
かつてのアシェリーは身勝手で、彼の気持ちを思いやれない非情な女だったが、確かに彼を愛していた。
(本来なら、この後に聖女が現れて彼の魔力暴走を救い、悪女だった私は悪事を暴かれて処刑されてしまうところだけれど……)
離縁して心を入れ替えるから、処刑だけは許してほしい。
アシェリーは胸に手をあてて言う。
「ご安心ください。離縁しても、週に一度は治療のために足を運びます。もちろん事前に陛下のご都合をお尋ねしますし、もう二度と突然来訪するような無礼な行いもいたしません。謝って済むことではございませんが……どうか、これで今までの行いをお許しください」
深くお辞儀をしたまま頭を下げる。一秒、二秒、三秒と。
アシェリーの伏せた頭に声がかけられる。
「……それを信じろというのか? 離縁はこちらとしても願ったり叶ったりだが、後から反故にされても困る。それに勝手にどこかに行かれて俺の治療を止められても困るんだ」
「信じていただけないことは無理もありません。ですから誓約を結びましょう」
そう言ってアシェリーはもう一枚、紙を差し出した。
この世界では婚姻書類などの重要な契約は魔法紙に署名することで裏切れないようにしている。
もしお互いの同意がなく契約を破れば、体が炎に焼かれるのだ。
ラルフはアシェリーが差し出した魔法紙を見て瞠目する。
「これは……!」
「これで私は逃げられません。必ず陛下の治療に馳せ参じるとお約束しますし、その証明になるかと」
魔法紙には週に一度は治療にやってくると記載してある。それにラルフの不調の時はそれ以外の時でも無条件に治療すると。
アシェリーはラルフの同意なく契約を破棄できない。
ラルフは魔法紙に書かれた文章が信じられないようで、何度も試しに破ろうとした。だが傷一つつかないため、ようやく本物だと納得したらしい。
「……お前がそれで良いなら、そうしよう」
戸惑い混じりの言葉に、アシェリーは安堵して微笑んだ。
ラルフは困惑を隠せないでいる。
「しかし本当にそれで良いのか……? 誓約は絶対だ。一度結んだら、あとは祭司達にしか解除できない。まさか後で解除するつもりじゃ……」
とにかく疑うラルフに、アシェリーは苦笑する。
「大丈夫です。原本は陛下が保管してください。それなら、私には手出しできないでしょう?」
手元にあったとしてもアシェリーは契約を反故にする気などないのだが。
「……私が契約を守らないとお疑いでしたら、私が絶対に司祭に誓約を解除させないと魔法紙に書きましょう。ご安心ください。私が陛下を愛することは、二度とありません」
(──嘘だ。本当は、今でも愛している)
心の中には今でもラルフがいた。けれど、それでも離婚はしなければならない。それがアシェリーにできる唯一の罪滅ぼしだから。
(……愛しているから、さよならを)
その言葉を飲み込んで、アシェリーは作り笑いを浮かべた。
◇◆◇
ラルフは政務室から出ていくアシェリーの後姿を見送ってから、はぁと重いため息を吐いた。目の前には離縁状があり、アシェリーの筆跡で名前が記されている。
「クラウス、信じられると思うか?」
ラルフはそばにいた王弟クラウスに尋ねる。今年十八歳になったばかりの彼が首を振ると、さらさらの金髪が揺れた。
「いいえ、あのアシェリー様ですからね。何か魂胆があってもおかしくないでしょう」
「……だが、この誓約書は本物だ」
ラルフはその紙切れを再び破ろうとしたが、やはり傷一つつかない。
「いくらアシェリーでも、誓約を破ることはできない」
それに、先ほどの彼女からはこれまでにないほどの誠実さを感じた。──まるで別人のような。
「どうなさいますか? 離縁状を総主教様に渡してきましょうか?」
さっさと悪女アシェリーと離婚させたがっていたクラウスが、ウキウキとした様子で言う。ラルフは「いや……」と唸って、結局首を振った。
本来この国の宗教上は離婚はできない。
しかし白い結婚ならば話は別だ。ラルフとアシェリーが褥を共にしていないことは使用人達なら皆知っている。彼らに証言させれば離婚はたやすい。そのはずだが、ラルフは気が進まなかった。
「なぜです? ようやく、あの悪女から解き放たれたというのに……」
不満げな表情をしているクラウスに、ラルフは苦笑する。
「なんだか……どうも胡散臭いんだ。裏があるように思えてならない」
「やはり本当は破婚する気などないのに、陛下の気を引きたくてそうしているということですか? アシェリー様は自分から離縁状を渡してきたくせに、いざ大司教様に提出したら陛下を責めるおつもりなのでしょうか」
クラウスの言葉に、ラルフは困ったような表情でこめかみを押さえた。
「そういう感じでもない気がするのだが……」
先ほどのアシェリーの言葉に嘘は感じられなかった。
それなのに素直に離縁状と誓約書をもらえたことを喜べないのは、この十年付きまとわれた経験からだろう。どうしても彼女の言動を信じ切ることができないのだ。急にこんなに幸運が巡ってくることが信じられない。昨日までラルフに付きまとっていたというのに……。
「良かったじゃないですか。振られて」
クラウスにそう言われて、ラルフはぎょっとした。
「え? 俺は振られたのか?」
「そうでしょう。ようやくアシェリー様も陛下に飽きたのかもしれません。吉報です」
「飽きた……」
ラルフは呆然とつぶやいた。
確かに喜ぶべき事態のはずだ。この十年、彼女と離れたいと毎日思い続けてきた。いっそ死んでほしい、とすら思っていた。
しかしラルフの魔力暴走を制御できるのは彼女だけだ。悔しさで血がにじむほど拳を握りしめながらも彼女の求めるまま結婚するしかなかった。「お前を愛することはない」とアシェリーに告げたのは、せめてもの抵抗だった。
けれど、なぜか胸の奥がモヤモヤとして気分が晴れない。これ以上ない幸運が舞い降りた日だというのに。
(いや……きっと、あの女が離婚しようと言い出したのは本心じゃない)
ラルフはそう判断して、クラウスに向かって言った。
「王妃にこれまで通り、護衛と見張りをつけろ。だが、決してアシェリーに知られるんじゃないぞ。毎日彼女の様子を報告するんだ」
クラウスは目を丸くしていたが、すぐに「承知しました」と言って命令を遂行するために政務室を出て行く。
ラルフは革張りの椅子にもたれて、深くため息を落とした。
(どこか目の届かないところに行かれては困るからな……)
彼女はラルフを癒すことができる唯一の治療師だ。それに、まだ王妃の座にいる。彼女の動きを把握しておきたいと思うのは当然のことだと、ラルフは思った。