29.「別に、大した用事はない。暇だから、見学でもしようかと思ってな」
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翌日。時刻は午前九時半。
ルーシャンはハートフィールド侯爵邸の廊下を歩いていた。すたすたと歩いていれば、すっかり見慣れたこの邸宅の使用人たちが頭を下げてくる。それに軽く声をかけつつ、ルーシャンはとある部屋の前に立った。
軽く扉をノックすれば、中から声が聞こえてくる。少し経って、扉が開く。
そこには、最近この邸宅に居候しているドロシーの弟子、クルトがいた。
「ドロシーさん」
クルトがくるりと身体の向きをひっくり返して、部屋の奥からドロシーを呼ぶ。
しばらくして、ドロシーがこちらにやってくる。彼女はルーシャンの顔を見て、ちょっとだけ眉間にしわを寄せた。
「どうしました?」
「別に、大した用事はない。暇だから、見学でもしようかと思ってな」
それだけを言って、ルーシャンはクルトの隣を通り抜けて、部屋の中に入る。
部屋は相変わらず雑多に散らかっている。図鑑は開きっぱなしだし、調合に使う道具たちは机の上に広げられたままだ。
「あの、私、今から三十分後に来客予定があるんですけど」
「知っている。遠方の薬草を届けてくれる商人だろう?」
薬草とは植物だ。どうしても地域地域で育つものが違う。なので、ドロシーは月に数度遠方の薬草を商人に届けてもらっているのだ。それもこれも、王妃の力があるからこそできることである。
王妃ディアドラの持つ商人コネクション。それらの中から、薬草関係に強い商人との縁をつないでくれた。そのためか、このルートには無駄がない。
「じゃあ、どうして……」
ドロシーが眉間にしわを寄せる。
その姿を一瞥し、部屋の隅にあるソファーに腰掛けた。……ルーシャンだって、なにも無意味にここにきているわけではない。
「少し、本を借りたかっただけだ。……あと、留守を預かっておく」
基本的に調合中、ドロシーが席を外す際は信頼のおける使用人たちに留守を任せている。
普段ならばリリーに頼んでいるが、彼女は今日も休みだ。なんでも、夫人がまとまった休みをくれたとか、なんとか……。
(その意味は、娘にいつも付き合わせてすまない、ということだろう。見ればわかる)
リリーはドロシーに振り回されている。そりゃあ、休暇の一日では疲れは取れないだろう。
「えっ……いや、そんなこと」
「一々片づけるのも面倒だろう。どうせ後で散らかすんだろうから」
そう思いつつ、腰掛けたまま手の届く本棚を見つめる。目的の本を見つけて、手に取った。
「うぅ、それは、そうなのですけれど……」
「遠慮する必要なんてない。……どうせ、俺も今日の午前中は暇だ」
最近のルーシャンは、ほとんど毎日次期当主として、現侯爵について回って勉強している。だが、今日の午前中は暇だった。
なんでも、侯爵は私的な用事で夫人と出掛けるそうだ。
「じゃあ、お願いします」
「あぁ」
ルーシャンの返事を聞いて、ドロシーは調合に戻り始めた。
その側には、クルトがいる。が、その動きは弟子というよりは助手だろうか。
(そう思ったら、そうとしか見えないな。あと、並ぶと姉弟のようだ)
本からちらりと視線を上げて、二人を見つめる。険しい顔をしたドロシーと、ちょこまかと動き回っているクルト。
男女としては、不釣り合い。代わりに、姉弟として考えるならば驚くほどに似合っている。
ぺらりと本をめくる。今、ルーシャンが読んでいるのは調合の手順を書いた本である。基礎的なものは学んだので、今度は応用の知識を身に着けようとしている。
「そういえば、ルーシャンさま」
ふと、ドロシーが声をかけてきた。そのため、本に視線を落としたまま「なんだ」と返事をする。
「ダニエルは、どうしました? 完全に一人なの、珍しいですよね?」
確かに、それは間違いない。
ルーシャンの側には大体ダニエルがおり、彼は日々ルーシャンに振り回され……いや、世話を焼いてくれている。
「そうだな。今は、別邸の建設のほうに出している」
「えっ……」
「元々あいつは身体を動かすほうが得意だからな。……たまには好きな仕事をさせてやったほうがいい」
元は騎士として、国に従事していたダニエルである。性分からして、身体を動かすほうが得意なのは当然。
(騎士として負った怪我も、そこまで身体を酷使しなければ問題ないしな)
ダニエルが騎士を辞める原因となった、怪我。けれど、それも無理をしなければ問題ない。
ただ、騎士は一瞬の油断が命取りの仕事。……つまり、無理をすることも多々ある。
「……なんだ?」
ドロシーが黙っているのに気が付いて、ルーシャンが彼女のほうに視線を向ける。すると、彼女は目をぱちぱちと瞬かせていた。全身から「意外だ」という言葉を伝えてくるようだ。
「いえ、ルーシャンさまにも使用人を労わる気持ちが、あったのかと……」
「本当にドロシーは失礼だな。そもそも、ダニエルには無茶ぶりばかりしているからな」
「……うわぁ、自覚あったのですか」
「そっちも大して変わらないだろう」
そうじゃなければ、夫人がリリーに対して「申し訳ない」と思うこともないだろうに。
内心で、そう呟いた。




