22.「最低、です」
けれど、それさえ上手くはいかなくて。ルーシャンから離れようともがくのに、それも上手くいかない。
きっと、ルーシャンからすれば赤子が暴れている程度の感覚なのだろう。……なんといっても、彼は普段騎士同様に鍛錬をしているのだから。
「る、ルーシャン様、熱でもあります!?」
結局、ようやく口から出た意味のある言葉は、そんなものだった。
熱があるとすれば、間違いなくルーシャンではなくドロシーのほうだろう。でも、今のドロシーの頭はそこまで回っていない。
「きょ、今日変ですってば――!」
嫉妬したとか、妬ましいとか。そんなの、冷静なルーシャンの口から出るとは思えない。
そういう意味を込めて言葉を投げつけるのに、ルーシャンはふっと口元を緩めただけだった。……不気味なこと、この上ない。
「さぁ、どうだろうな」
そのうえ、はぐらかされた。
「なんだったら、俺に少し触ってみるか?」
挙句、そんなことを言われて。
ドロシーは余計に目を回すことしか出来ない。
「セクハラという言葉は、ご存じで!?」
「言っておくが、俺たちは一応夫婦だからな」
それを言われたら、なにも言い返せない。
むぐぅと口を閉ざすドロシーを見て、ルーシャンが笑ったのがわかる。
本当に食えないというか、あぁ言えばこういうというべきなのか……。
「本当だったら、別に触れていてもおかしくはない関係だ」
「そ、そうですけど!」
それはドロシーだって理解している。でも、そんなことを言われてもどうすることもできない。
だって、ドロシーはそれを受け入れられそうにないのだ。……現状は。
(そう、私はルーシャン様に触れたくないし、触れられたくない……)
その気持ちを思い出そうとした。が、上手く思い出せない。案外悪くないのかも――とまで思って、表情が強張る。
自分の気持ちを一番理解しているのは自分だと思ってきた。しかし、今は自分の気持ちを一番理解しているのが自分だとは思えない。
「そ、その、そうですね。え、えっと、えぇっと……」
しどろもどろになりつつ、なんとか言葉を探そうとする。……上手い言葉が、欠片も出てこない。
結局ぐっと唇を噛んで、俯く。上手い返しが思い浮かぶまで、こうしていようか。一瞬思い浮かんだ考えが打ち消されるのは、一瞬だった。
「――っ!」
不意に、顎をすくい上げられて唇になにかが触れた。
驚いて目を見開けば、間近にルーシャンの顔がある。その所為で、理解する。理解することしか、出来ない。
(く、く、口づけされた――!?)
多分、これが普通の令嬢ならば。喜ぶべきことで、照れるべきことで。ちょっと恥じらうとか、そういう可愛いことをする。そんな仕草や態度を取る。それは嫌というほどにわかる。
けど、そんなこと出来るわけがない。
「る、ルーシャン様!」
ルーシャンの顔を引きはがして、彼の目を見つめる。微かに視界が歪んでいるのは、どうしてなのだろうか。
……もしかしたら、自分が泣いているのかもしれない。いや、認めたくない。この男に泣かされたということを、理解なんてしたくない。
「最低、です」
小さな小さな声だった。抗議にもならないであろうほどに、小さな声。
ルーシャンが大きく目を見開くのがわかった。もしかしたら、ドロシーのこの態度は彼にとって予想外のことだったらしい。
「……もう、いいですか。……私、戻ります」
慌ただしく立ち上がって、そのまま部屋を早足で出ていく。途中、リリーとダニエルとすれ違ったものの、気にも留めない。
はらりと涙が頬を伝うのがわかった。
(……可愛くない、可愛くない)
自分の態度が可愛くないことくらい、重々承知の上だ。だけど、あそこで照れるということも、喜ぶということも。恥じらうということも、出来なかった。
(こんなの……無理だわ)
別に口づけられたのが嫌だったというわけじゃない。むしろ、その逆だった。
(どうして、嫌だっていう気持ちが、あまり芽生えてこないの――?)
今まで男性に触れられるのなんて、絶対にごめんだと思ってきた。
それなのに。今、ルーシャンに口づけされたとき。「嫌だ」という感情がちっとも芽吹かなかった。
(これは、いわば私への落胆。……ただの、八つ当たり)
ルーシャンに告げたのは、自分の本心じゃない。怒っているのは自分に対してで、彼に対してじゃない。
もちろん、いきなり口づけてきた彼にも非はあるだろう。が、そんなの本当に些細な事だった。
(私、どうすればいいのかが、わからない……)
あんなことを言っておいて、自分は次にどういう表情をして彼と顔を合わせればいいのか。
一番の不安は、それ。二番目は――。
「……私が、私自身が。今後どうしたいのかが、わからない――」
今までみたいに「絶対に離縁する!」と言い切れなくなり始めた。自分の心の変化が、どんどん不安になる。
このままだと――今までの自分には戻れない。そんな危機感が、あった。




