3.「気が変わった」
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「……あの女は、もう帰ったか?」
「はい、殿下」
午後三時半頃。ネイピア王国の王城の一室にて、一人の青年がソファーから思い腰を上げた。そして、その茶色のふわふわとした髪の毛を書き上げながら、紫色のおっとりとして見える形の目で目の前の専属従者を見据える。青年のその顔立ちはとても整っており、彫刻にさえも見えてしまう。そんな主を見据え、従者ダニエルは「……本当に、このままでよろしいのですか?」などと余計なお世話だとわかっていながらも、尋ねていた。
「良いよ。あちらとしても、世間体を考えてこちらに来ているだけのようだし。本当は俺に会いたいなんて思っちゃいない。相手も、相当な拗らせ女みたいだし」
「……お言葉ですが、殿下にそう言われたら終わりかと」
「知っているよ。だが、あちらも同等だろう?」
そう言いながら、このネイピア王国の第二王子ルーシャンは、ダニエルに好戦的な笑みを向けた。
王城の従者たちが言っていた「第二王子殿下は寝込んでいる」というのは真っ赤な嘘である。ただ単に、ルーシャンが妻であるドロシーに会いたくないからそう言えと指示を出しているだけ。いずれは飽きてこなくなるとにらんでいたが、ここのところ三か月の間一日も休まずに来ているため、相手も相当世間体を気にしているようだ。……ただ単に、ルーシャンに会いたいだけならば三か月も通い詰めてこないはず。……まさか、一言文句を言いたいがためだけに通い詰めているという意味も含まれていることなど、ルーシャンでも予想できていないが。
ルーシャンはひねくれ者の王子であり、女性嫌いを拗らせた王子でもある。幼少期からその整った容姿に魅了されてきた女性は数知れず。誘拐されそうになったことさえ、あったのだ。そのため、ルーシャンからすれば女性など愛を与えるに値しない存在だった。そういうこともあり、ルーシャンの身の回りの世話はこの専属従者ダニエルがすべて行う。従者は度々部屋に入れるが、女性は一貫して入れないと決めていた。
「さて、俺はそろそろ散歩にでも行くか。一週間ぶりの外だし。……面白いことなどないけれど、身体が鈍るのはよくないからさ」
「……さようでございますか」
ダニエルはルーシャンの言葉にそれだけを返し、部屋を出る支度を始めたルーシャンを手伝う。いつものように王子とは思えないほど質素な装いと、目深にかぶったフード。この王城で雇っている魔術師は大体目深にフードをかぶっていることから、不審者とは思われない。それが、せめてもの救いだろうか。
「じゃあ、ダニエルはいつも通り遠くからついてきて」
「はい」
目深にかぶったフードと、ローブを身にまとった姿はいかにもな魔術師だろう。特に、一人で行動していると周囲はルーシャンのことを「お抱えの魔術師」だと思っているようだ。そんなルーシャンの後をついて歩きながら、ダニエルはこっそりとため息をつく。
(殿下も、そんなに女性が嫌いならば婚姻などしなければよかったのに)
心の奥底でそう思うが、王子たるもの妻を迎えなくてはいけないと言われていることはダニエルだって知っている。王子はいずれ他国の王女、もしくは自国の有力貴族と婚姻を結ぶのが、この国の常だからだ。ルーシャンの妻となったドロシーも、例にもれず名門侯爵家の生まれという生粋の有力貴族の娘。その容姿をダニエルも遠めから見たことがあるが、ルーシャンと並んでも劣らないほどの美形だった。……そして、何よりもその目には強い意志が宿っていた。
(あの意志の強さ。普通の女性じゃないな)
そんなことを思いながら、ダニエルは十メートルほど離れてルーシャンの後を追う。ルーシャンはいつものようにのんびりとゆっくりとしたペースで歩いている。元よりせっかちな部分があり、無意識のうちに早足で歩いてしまうダニエルからすれば、ペース配分がとても難しい。だが、これも仕事。そう自分に言い聞かせた。
(うん? 何故、立ち止まったのだ……?)
それから十分程度歩いた頃。不意にルーシャンの足が止まり、一つの場所を凝視しているように見えた。そこは、王城に作られた中庭だ。いつもと変わらぬ雰囲気を漂わせる中庭は、一流の庭師が管理していることもありいつも通り綺麗である。そう思いながら、ダニエルがルーシャンの視線の先を追えば……そこには、何故かドロシーがいた。
「……何故、まだいる」
ルーシャンのそんなつぶやきが耳に届き、ダニエルはルーシャンとの距離を縮める。何かがあれば、指示を受けるのが従者だ。すぐに指示が聞こえる距離にいた方がいろいろと便利だろう。
「これとこれももらって帰っちゃおっと。ふふっ、王妃様から中庭に立ち入る許可をいただけて良かったわ」
「お嬢様~。もうそろそろ帰りましょうよ。ドレスが土で汚れてしまいます……」
「あら、いいじゃない。どうせルーシャン殿下には今日も会えないのだもの」
中庭では、何やらしゃがみ込みドロシーが侍女とともに話し込んでいるようだ。そして、手元を忙しなく動かしている。だが、ここからでは何をしているかがよくわからない。そう思い、ダニエルが目を凝らして二人を見つめていると……不意に、ルーシャンが「気が変わった」とぼやいた気がした。
「……殿下?」
「ダニエル。明日、俺は妻に会う。あの女ならば……多分、面白いことをしてくれるから」
その言葉を聞いた瞬間、ダニエルの身体中に衝撃が走った。……今、ルーシャンはなんと言っただろうか。そう思って目をぱちぱちと瞬かせ……無意識のうちに自分の手の甲をつねってしまったのだ。